大鳥のこと

【大鳥 山の人生】工藤廣記さん

兄弟は6人いて、現在生きているのは4人。私以外はみな県外だの。私は一番上。女の子二人と男が4人か。男の子2人が亡くなって。女の子の一人は東京。ほとんどみな集団就職して。全部バラバラと行ってしまった。一番下が北海道で大工やってるな。みな若い時は毎年大鳥さ来てたのよ。でも今はみな年取っての。ほとんど会う事ねぇ。今はスマホだから、写真でやり取りしたり顔見ながら話すことも出来るもんだから。山菜とかはやっぱりここの生まれだから好きなんだな。私がた丈夫なうちは送ってやれるけど、あとはダメだよって言いながら。

 

私も昔から山の物は食べてきた。保存食で漬けたり干したりして食べてきたの。私は終戦にかけて一番物の無い時代に育ってるわけだ。だから、お菓子なんか見たこともねぇ。子供の頃はそういう生活で。山で食べられるものは探して食べて。最初は、「これは食べられるよ。」って親から聞いたり。木の実から木の皮まで。あのね、キハダの皮。あれなんかも苦いけども薬になるからって、若い木の皮、薄い皮を食べたりしたんだ。皮を剥いてそのまま噛んで。パッパッて苦いところを、噛んでるうちに麻痺してくるんだからな。腹すいてるんだから。口入れられるものは何でも食べたじゃん。青大将は高級食品だったな。皮剥いての、石の上での鉈の背のほうでコンコンコンコンって叩いて。そうすると骨もある程度砕けるわけだ。叩き終わったら味噌混ぜて、焼き鳥みたいにして。焼いたその香りっていうのは本当に美味しいんだよ。香ばしいし、焼き鳥以上だ。今は食べないどもな。やっぱり、食糧難の時代だからの。食べられるものはみな食べた。ひもじかったどもみんながそうだからな。

してこの地域は、今でさえ田んぼもある程度開拓されたじゃんの。十分に米取れるわけだけども、昔は肥料もない。そうすっと山の草刈って乾燥させて。それを山から背負い出して堆肥にして。田んぼに使うんだっけ。だども収穫量も少ない。かなりの面積がないと米も一年間十分に食べれるだけはないわけ。だから結局はナギノして蕎麦、粟、大根、蕪。とにかく作られるものを作った。ナギノは赤川土地改良区の山で作ってたんだ。今それが全部造林なってるんだ。良い杉林なってます。私も定時制高校を終わって、大鳥で赤川土地改良区の植林仕事をずっとしてきたじゃん。土地改良区の土地はかなり広い。荒沢と上田沢と、ダム向こうにもある。大鳥が一番多いんだけども、1,300haくらいある。それを水源涵養林って名目で全部杉植えてきたんだ。私が結婚したのが昭和39年だども、その頃は真っ盛りに造林してたなや。だから樹齢50年以上になってるの。その後は誉谷のほうとか、花戸林道のすぐ脇とか。誉谷の池のあたりからずーっと、みな植えた。本当であれば、雑木っていうか広葉樹が一番水源涵養林としては良いわけだども、当時は杉植林が主だし、それが将来的にお金になるってことで。凄かったよ。その頃は景気が良い時代だったから。炭焼いた跡に植えたり、拡大造林って形で新たに伐採してドンドンと植えていった。当時伐る人っていうのは業者。個人とか森林組合でなく。温海とか浜辺のほうから来るんだっけな。杉が大きくなった場所、何カ所か売ってたよ。そして、売れば再造林、ってのを繰り返してきた。

 

花戸林道から降りて行ってずっと横道細い道行ったとこさ、苗を育てる“苗圃”ってのが3反部くらいあったなや。結構広いんだやな。そこで杉苗を育てたわけ。地域の老木から杉の種を採って、それを苗圃に蒔いて。3年間種から育てて、4年目に植えるわけだ。

私がたが一番種採ったのは、繁岡部落の中さ結構おっきな老木が何十本とあったなや。老木はいっぱい実付くわけやな。その種を採って。あと、苗圃の池の周辺にも実のなる木がいっぱいあっけな。あれは自然ではねぇ。やっぱり炭焼いて、昔植えた杉がおっきくなってたんだな。俺らが植林する前からあちこち杉があったんだ。そして、当時は全部人力だから鍬で起こして床を作っての、種蒔くわけだ。筋蒔きして。して一本立ちでおがるわけだ。それを今度、全部こいて、おっきい畑に植えていくわけだ。肥料やったり水やったり、全部する。苗圃に溜め池みたいなのあっての、そこにエンジンポンプつけて。それで水かけして。苗圃さは造林の面積にも依ったけども、一番多い時で何千本だ。それを苗圃で作ってた。余った分は森林組合さ売ってな。だから最盛期だば、あそこさ苗ビッチリなんだっけ。

当時は積雪も多かったからの。苗圃の小さい杉が三年間育てて大きくなるまで「杉畑の上を除雪しなさい。」って言われたことあった。そんな事したってしなくたって変わりねぇあんけども。土地改良区の上の方の考え方もあったろうけども。若いうちは雪に押さえられても折れないのよの。やっこいから。そして春先なると起きてくる。だけど、「折れると悪いから掘りなさい。」って。とてもじゃないけどできっこねぇんだ。だけど、そういう命令出た時代もあった。やっぱり写真撮って出さねばねぇから。でも、効果なんてほとんどねぇ。

 

造林は春から秋まで。11月中頃で終了するんだ。春先から苗圃で苗育てながら“地拵え”して植える場所を作らねばねぇ。今思い出しても、よくやれたもんだなって。それがすごく大変な仕事だったなや。あのの、植える予定した場所の細い芝でも草でもみな刈って集めて。それを乾燥させておいて山にして、それを燃やして綺麗にしたところに植えていったわけだ。綺麗にしただけ下刈りの時が楽だわけ。秋になるまで地拵えの仕事もあるわけや。ほんとで綺麗にして。そして、植える時は幅一間で紐付けて、両脇と真ん中に人を置いてずーっと張っていくわけ。それに沿ってずっと植えていくんだ。その縄張りが大変だなや。真っすぐには張れるけども、それを山の上までずーっと。全部張れねばねぇわけ。まっすぐ登らないといけなくて。歩きやすい道を行けるわけではねぇんだ。縄張りが一番大変だった。終わったら撤去してまた新しく張るろ。杉植える数もノルマみたいなのがあっての。雪降るまでに全部植えて処理しねばねぇわけだから。場所にも依るけど1日は何本ってあるなやの。やっぱり道具から弁当から背負っていかねばねぇから苗そんなに背負えねぇわけだけどもな。

当時はの、造林してから8年間は杉の下草刈りって計画でな。それをしないと苗が草に負けてしまってダメだからって綺麗に刈ってくれる。下草刈りは年一回だけど、毎年造林してるからドンドンとやる場所増えて…。凄かったよ当時は。それに山道の草刈りもして。3月に入ると育った杉の枝払いもしたりな。枝払いは雪があるうち。当時は雪も今より多かったから、「冬なんぼ積雪あるや?」って聞かれて「4メートル。」ってのが普通の言葉だったのよね。3月なって、雪が降り止んで天気が良くなると長枝ノコで枝落とし。危険だから私がたは木さは登らなかった。そうやって毎日山さ行ってな。まいーにちだ。

杉は一間ずつ植えればまずいい塩梅に育つな。しての、手入れするにも丁度一間が良いなや。長い柄の鎌で下草刈っていくだろ。ちょうど一間くらいが仕事の範囲で。そういう感覚で下刈りもずっと上がっていくわけだ。杉が段々おっきくなると、根元のほうから枝が段々大きくなってくっさけ、混雑するからそういうのは全部鎌で伐っていく。大きい鎌だと切れるんだ。間引きっていうかな。見込みねぇ木は潰していく。だから最終的に、一反部あたり300本植えて150本育てばすごく良い造林や。植えてからは折れる場合も所々あるけども、若いうちはほとんど大丈夫。むしろ、植えてから8年間は下刈りするだろ。その時に鎌で伐ってしまうのが返って余計だ。草が結構おがって、どこさ杉あっかわからねぇくらいなるからな。だから植える時は一坪、一間に一本って計算で植えてるわけやの。雪害はある程度大きくなってからのほうが出てくる。一昨年の雪であちこち雑木も杉も折れたども、昔もそういう時はあったよ。結構折れる。春先、被害調査みたいなして。県に申請して雪害の補助貰ったり。一昨年みたいなことは、珍しいけどもな。杉はの、大きい杉の頭ちょん切ると枝からまたバーンと立つなや。だども小さいのはダメだし、下から伐ってもダメ。雑木の場合は、根っこ残ってるとある程度起きてくるども杉はダメ。まず、何十年も生きて見るといろんなことあって。

 

学校を上がりで赤川土地改良区の仕事になったのはの。私の親と孫爺さんが土地改良区の財産を守る監視人であったのや。大鳥さバスも自家用車もない時代だから、『財産を監視する役目の人が必要だ』という事で土地改良区から頼まれて。うちの孫爺さんはほとんど造林はしてなかったみたいだな。監視人はの仕事はね。山で見たことあると思うけど、境界標を守る、あと盗伐から守る。あと、土地の良い場所、焼き畑する場所でもなんでも部落の人がたは借りてやるわけだから、その手続きとか。そういう仕事で孫爺さんの時代から土地改良区と関係してきたんだな。だから私もあと学校上がってから。「まず仕事はあるから来い。」って。私は来たくなかったんだけどもな。その時代は、やっぱり長男ってことを考えねばねぇ時代だったんだな。守るよう帰って来いって。大した財産ではねぇんだけども。私は都会さ出たかった。自分でもしたいこともあったわけやな。本当は自動車関係の仕事で飯を食おうと思った。当時の自動車整備工なんて言うと凄く優遇された。やっぱり時期もあっての。そういう仕事で出たかったのや。だからってわけでもねぇけども、出稼ぎも結構したよ。結婚してからもしたしな。あの、ブーム的に出稼ぎの時代ってあったなや。オリンピックの前とか、出稼ぎ行かねぇ人がおかしいって雰囲気もあったなよ。だから、大鳥の人がたもほとんど行ったよ。

出稼ぎの時代も終わってきて、ある程度の年齢なってくれば、やっぱり地元さ落ち着かないとダメかなって感覚もあって、辞めようって。そして、鶴岡にヨロズ自動車ってあるろ。職業訓練校さ1年行って、3級整備士の免許取って、ヨロズ自動車さ就職したなやの。そうして2年くらいしたらや、「土地改良区さ稼いでくれ。」って言われて。高校上がってから土地改良区さ、臨時的ではあってもずっと働いてきて経験もあるし、現地もある程度把握してる。そういうことでお呼びが来たわけやな。相当悩んだんだけどもな。親も土地改良区の仕事してたけど、定年近くなってきて。そういうタイミングもあって、土地改良区さ引っ張られてしまったなや。今度は正式な職員になって、17~18年くらいで仕事したな。

職員になってからも、造林がほとんど完了する頃までは大鳥の事務所さいた。あと植えるところも無くなってきて、手入れだけになってからは、段々に鶴岡さ下がって来いって。あと車の時代になったから鶴岡さ通って仕事してた。夏も冬も。60歳まで働いたんだ。仕事しながら自分家の田んぼもやって。なんとか自分の家でも食えるくらいはあったから。あと休みってなれば田んぼしたり畑したり。だから休みってほとんどない。気分転換にもなったけどもな。

 

なして赤川土地改良区の土地が大鳥さあるかって言うとな。国有林を地元に払い下げるよって時代があったらしいのよ。だけども、地元では本当にお金無いわけだ。安い金だったろうけども、買うことは出来なかったらしい。その当時の人の話を聞くと、地元はそれまで国有林の中を自由に使ってた。焼き畑だろうがなんだろうが。木も伐ってたわけだな。そういう感覚もあって、「何もそんなもの買わなくても今まで通りできるだろう。」と。無い金出して買う必要ないって結論で、「地元としてはいらないよ。」って。断ったらしいんだな。それに目を付けたのが土地改良区で、「地元の水源涵養を売りとして求めた方が良いあんでねぇか。」って。それさもう一つ。当時、大鳥鉱山があったろ。その鉱山が採掘もしたし、製錬もしてた時代だから。膨大な量の木を伐って、溶鉱炉で製錬してたわけだ。今もそのズリが山になってるな。当時はダムも何もない時代なんだし。そうすると、土地改良区は「これは水源涵養林として自分たちの山にして伐られないように求めよう。」っていうのが発端だらしいんだや。それで1,300haを国から買い受けたわけだ。そして、境界標埋設していって、地元の人たちは制限されてしまって。田んぼのすぐ脇さ境界標埋まったところもあるわけだ。そうすると今度は財産を監視する人が必要になった。監視を助けるような人が各地区に一人、監視人って名目でいたな。一年に一回ご馳走もして、待遇したわけや。私の親とか孫爺さんも行って。私も正式に職員になってから監視人の待遇なって、結構遅くまでそれをやってたよ。

大鳥池の水門だって土地改良区で管理してる。山の監視はうちの親だけども、大鳥池の監視人も別で一人設けてたわけやな。昭和9年に最初の水門ができて、ずっと監視人を地元さ置いて見さ行ってた。大鳥池さ行く途中にコンクリートの塊があるろ。あれが水門の工事の時のもので、部落で人夫出してセメント背負って行ったり。色んな事したわけやな。当時は土地改良区の人たちは強かったらしくての。「大鳥部落として、みんな出てください。」って。いよいよとなると強気に出てたみたい。言い方は悪いけども義務人夫っていう言い方で。部落の駐在員が先頭立ってまず相談掛けて。「一軒の家から何日間は出なさい。」ってそういう話。ということは、『土地改良区の山で、地元でも恩恵受けてるでしょ』って、そういう感覚だったんでねぇかな。盗伐はダメだけど山菜やキノコは地元の人は自由にどうぞ、ってことだったもんだから。そういうことで働いたんだろうな。やっぱり山で生活してきたから、関係を続けてきたんだやの。私がたが働く時代になれば水門改修するったってヘリでモノ運ぶ時代で。地元さ応援頼まねぇばできねぇ、って時代じゃなくなった。関わりが少なくなってきたな。今も残ってるのは、木の払い下げとか。昔は炭焼きが盛んで、土地改良区の山も毎年払い下げしてたわけ。昔からやってきたことが今も残ってるわけやの。

私は猟も好きだったよ。10何年か鉄砲持っていた。でも、熊獲りには行ったことない。組には入らなかったんだ。でも、猟友会の会員ではあったんだ。当時、土地改良区でも野兎駆除って主催したんだ。当時はウサギ一杯いたから、野兎を駆除するって事業で予算を持って。結構何年もやったんだ。巻いたのは主が誉谷のほうな。ウサギは植林すると増えるんだ。野兎駆除って予算取ってまでやるのは、ウサギは植えた木の若芽を食うわけだ。だから野兎駆除は絶対必要だって土地改良区の方針があって。造林している時は特に。だからやっぱり、餌が豊富だったろうしな。だども、今は全然いなくなったな。減った理由も様々だろうども、私が思うには病気だな。野兎病。それさかかったウサギは食べれねぇんだやな。走ってる時はわからねぇけども、皮剥いて見っとガンみたいにデキモノあって。獲っても病気かかったウサギは食べれない。私が鉄砲持ってた頃は、ウサギはまだいたよ。膝痛めて山さ行けなくなった頃までは結構いたっけよ。それから野兎病が増えてきた。そうすっとガーッといなくなんなや。でも昔話に聞いたことあるけども、そういう繰り返しできたって。忘れられないのが。二人でウサギ獲り行ったことあったんや。その時はあんなに獲れるとは思わねっけもんな。どこいっても獲れるって。結局、4~5羽背負うと鉄砲当たらなくなるんだやな。重たくて。そういう時代もあったよ。

 

私の人生は、ほんとの。こうやって眺めても良い山なったな。私がみな手かけた山だなって。そういう感覚で眺めています。中さ入ってみるとや。うわーって驚く。そういう感じの山はいっぱいあるよ。自分が土地を綺麗にして苗木を育てて植えたってそういう感覚が。苦労した感覚があるから凄い山になったなって。眺めるところいっぱいありますよ。これからも残るだろう。今は保安林なったから、全部売ることはまずは難しいからな。

工藤廣記さん 昭和15年8月29日 84歳
聞き取り日:2024年2月17日
文責:田口比呂貴