【大泉・朝日 山の人生】 大滝小一さん
ここが俺の生まれた家。建物はこのまんまだ。元々はクズ屋根だったんだけど、俺が小学校 6年生の頃。昭和34年か 5年頃かな。2階を改造して瓦のっけて。昔は蚕をやってたんだな。三階造りで中二階ってあるんだ。だから二階上がるのに階段2つ上がらねばねぇ。三階が広くて、そこで蚕を飼ってたらしいんだな。俺は見たことねぇけど。
瓦にした頃は馬飼ってたんだ。その馬の管理が中学から俺の仕事だった。馬は農耕用に使ってて。藁敷いて汚れると、藁を片付けて小屋さ運んで積んで。それにいろんな草を混ぜて堆肥作り。馬の肥出しって言って、週に一回ぐらいずつ藁を取り替えんねや。糞とか混じったやつを。堆肥は盆過ぎになると、草刈って干したやつを山から大量に運んで堆肥小屋さストックしておいて、堆肥出したやつと攪拌させて積むわけよ。して、 3月頃なると田んぼに運んで。俺んちの田が下田沢にもいっぱいあったから大変だったんや。春先の硬い雪なっと堆肥をソリさ乗っけて運んで、穴さストックして。馬ソリで運んだりもしたしな。雪消えてから田に撒いて。それから馬耕、馬で土起こすわけよ。だはけ、秋のうちに田んぼの堆肥を置く場所には稲杭を立てておくんだ。雪で埋もれてもわかるよう目印で。
山さは草刈り場ってや、うちの山に木植えねぇで草を生いるようにしてある場所を取ってあるわけや。そこを薙ぎ倒して、集めてまくって背中で担いで家まで持ってくるわけや。その仕事が夏休み頃。水浴びしたい頃に草刈りさ連れて行かれて。中学生の遊びたい盛りに。で、馬なんてあとほら、俺さなついてるもんだから。夕方帰ってくると、『外さ出せ』って合図して。わかるんだ。それで外さ出して。『背中乗れ』って乗せてくれる。そして水浴びさ、連れていくわけや。して水場近くの高いところさ止まって、『降りれ』って。ちっちゃいから降りれねぇことがわかるんや。俺学校から帰ってくっと散歩したくて。なついて。めごいもんだっけな。
山の草刈り場にトリカブトって結構あるんだよ。あれだけは絶対混ぜるなって言われてや。あと殆どの草、柔らかいのとかドンドン混ぜたな。カヤもなんぼかはあったかもな。俺はほれ、堆肥さ混ぜるから馬の餌は田んぼの畔から刈ってたんだ。毎朝草刈りして。縄 5、6本持っていって1日分。夏は青草食わせてる。冬期間は取っておいた藁を刻む機械で刻んで貯めておいて。あとはふかすとか米糠が混ぜて冬期間は食わせてるわけよ。配合飼料みたいなのも農協で売ってたんだよな。冬期間に混ぜて食わせるやつ。だから、馬屋のタライって言って、弁当箱みたいなデカいやつがぶら下がってるわけよ。それさ餌やると喜んで喜んで。餌食いたくなると、それ咥えてガタガタとやったり。田の畔の草は貴重だったわけや。んだから、明日はここを、明後日はここって順番に順繰りに刈って。草刈り機なんてねぇから、手鎌で。束になると縛って、背負って持ってくるわけや。 やせ馬みてなやつで。田んぼの畔の草も限りがあるから予定立てて、一町ぐらいは田んぼをぐるぐるとサイクルで回って。おらいの下田沢にあるもんだから、下手すると夜泥棒で草刈ってくれる人いるわけよ。
俺が中学校 3年頃は、もう農家の後継ぎだという頭なもんだから。完全に家で働くっていう意思が強くて。高校さ、行く気なんて全然ないわけや。農家やんねばねぇという頭で。まぁ、農家の倅だからというイメージで。あの頃は進学する人、うちさ残る人って、学校でもハッキリ分かれてて。英語教科ってあったじゃん。中学2、3年は英語。だども、俺が中学 3年の頃は英語はもう習わねぇあんや。して、農業部門って畑作の勉強して。後継ぎ部隊は畑作って。芋を植えたり、サツマイモ植えたり、カラドリ植えたりや。学校の教員宿舎みたいなとこさ畑あったもんだから、畑作りして。
まず俺らの年代がや、農業の一番変わり目さ生まれたと思うんだよな。馬から耕運機になって田植え機。苗は水苗作ってこしゃこしゃ洗って配って、手植えした時から田植え機になって、今度乗用トラクターになって、乗用田植え機。馬からずっと歴史全部学んだような感じする。作ってた堆肥も化成肥料なって。だからうちの親父、「機械の時代になったから。あと俺はついていけねえからお前さ百姓は任せた。」って。18歳ぐらいからあと全部一人でやってたの。全くの引退で、親父はあと田んぼさ構わないんだっけ。全部任せられて。だか番俺は、昔の百姓のやり方から今日の百姓まで全部習ったような感じするんだよな。
何が変わったって、一番は人を頼まなくても出来るようになった。田植えだって5~6人も集めて植えてもらって。自分のうちだけでは賄い切んねえんだし。農家でねぇような日雇いのようなお母さんたち、お爺さんたちが。して、支払いは米なんだよな。だから、春頼む分の米ってストックしてあったんやな。昭和 38年頃は1 日サツキ頼んで米 2 升ぐらいだったか。やっぱり米っていうのは結構価値があったんやな。俺が 昭和38年に働き始めた頃、営林署の仕事に出るわけだ。下刈りとか杉植えとか。そして日当が350円かそこら。そう考えると米 2 升って、なんぼなるあんだやなって。
とにかく部落の中で行ったり来たりしながらの会話とか会合とか、意思疎通は失われたよな。農機具が流行ってきてから。昔はみんなが競争みたいにして人集めて、人より早くとか負けねえようにとか競走みたいにしてやってたけれども。今の農業は品種もやり方も違うし。あの人が仕事できたから俺、遅れてる、って感覚がねえんだよな。 あそこの家はいつも仕事が早いし上手だもんなーとかっていうのが昔だったんや。稲刈りでもなんでも全部そうだった。今はもう、家ごとの段取りだからって関係ねぇんだやな。
だから、他の人への関心がなくなってきた。自分の仕事を守るというような感じで。同じような品種を植えてる後輩たちは、おらいさもしょっちゅう来てどうすればいいとかってやってっけども。話もできねぇような農業をやってる人もいるわけや。 人の融和というか、親睦というか。コミュニケーションを図りながら、村の中でワイワイやるという形は少なくなってるな。 とにかく農家も昔は五、六人集まってやいほい、やいほいって世間話しながら田んぼさ集まってやってたけど。ああいう姿っていうのが今は全然見えなくなった。
俺の場合はほら、親父から農家の倅は後継ぐもんだという意識を強く言われたからやったけんども。農業情勢があぁいう状態だったもんだから子供らに倉沢で生きていくことを教えたりすることはできなかったんだ。農業やれなんてとても言える状況じゃなかったんだな。今年の値段だば、御の字でやれるなや。それまではもう最低だった。1俵1.2万ぐらいなった。
昭和49年の春、 鉄砲持ったんやな。26歳だな。俺と近しい先輩が二人いるけども、ちょうど三人が三バカだったんや、倉沢で。あの頃はな、俺の場合はそもそもがやりたかったんやな。でも、まだ早えかなと思ってたら、先輩二人が知らねぇうち鉄砲持ったんだっけっちゃや。「よし、じゃあ俺も持つ!」なんて言うんだろうな。ここさ暮らしてて、狩猟というのが楽しみだがったんだな、冬。子供の頃はイタチ獲りして小遣い稼いしてたんやな。ハサミでイタチ獲って親父から剥いてもらって、板さ張って。その皮売って小遣い稼いにしてた。親父も昭和50年頃まで撃ったかな。60歳ぐらいで辞めたんじゃねえかな。狩猟文化というのがこの辺では日常茶飯事で。ウサギぼいとかは俺、中学校の頃から行ってたはけな。カンジキ履いて握り飯持って。そういうのをやってみたいなって子供の頃から。
銃の片付け、あれが鉄砲撃ちの基本なんや。とにかく目をつむって。見当してる暇がねえよ。片付けさえしっかりしてれば獲物見てれば当たるようになるんだ。それは先輩から教えられたんよ。俺の遠い親戚だんけども。射撃も好きて、鉄砲も修理もみんなやる親父から。「小一、家さ行ったら座布団さ立って、自分が思ってるとこさ、鉄砲見ねぇで片付けして。その後、見当して見て合ってるかどうだが。片付けして両目開いてその点を記したとこさ見て、合ってるかどうだが。目をつむって見当しなくても合うように片付けの練習をせ。100回でも200回でも良いからせ。」って言うわけ。10mでも15mでも、あのモノをっていう時、鉄砲を見ねぇで片付けして、後から狙った場所さ見当付けて狂ってるか、狂ってねえか。その基本さえ覚えれば、獲物などみな当たるって言うわけ。それを仕込まれたわけや。だからあなたがたにも伝授したくて俺言ったんや。鉄砲は片付けが基本だぞって。鉄砲の銃身なんか見えるわけねえんだから。獲物しか見えねぇんだから。だからいつも同じ格好で、自分が目で撃ったところで当たるように。基本を。
熊狩りは狩猟を始めて2年目だったかな。会長から、「若いもんだし、大鳥さ熊狩り行こう。」と言われて。酒、2升だか持っていって入会させてもらって。当時の大鳥の親方は蔵治さん。蔵治さんは炭焼きもしねえ、狩人一筋で生活してきた人だはげな。冬なると※バンドリ獲り。野宿して。山奥まで泊まり込みで木の根っこさ泊まってバンドリ撃って毛皮売ってきた人だっけ。俺は倉沢の亀井一郎さんから可愛がられて。俺、酒呑まねぇもんだから運転手でしょっちゅう蔵治のうちさ足運んでたんやな。そこで俺、熊の胆の干し方、蔵治さんから内密に習ったんや。あれは人さ教えねぇんだ。熊の胆の干し方なんか。特殊な技術を学びや。で、熊の胆干しは職人手間なんや。蔵治さんの奥さんが、俺の弟が婿いった家と親戚だんけ。だはけ俺の方も一目置いて、「遊び来い、遊び来い。」って俺を可愛がるんだっけ。して大鳥の山さ若手で行ったもんだからや。「お前は足も速ええし山も機転効くから、工藤与一さんさ、ぼっかけてマエカタ習え。」って言われたんよ。でも、俺だっていつまで熊獲りして遊んでられね。大鳥さ、春先 3年ぐらいしか行かねえな、俺。あと忙しくてや。
※バンドリ:ムササビのこと
蔵治さんは面倒見、良かったでな。やっぱり親分だったな。グループを完全に取り仕切ってるんだ。あの人の言う通りに動かねばねぇ。だから、蔵治さんは与一さんのことをほんと面倒見てるもんだっけ。そして与一さんは山も詳しいわけ。なぜかというと、夜遅くなって暗くなっても安全なルートを、みんなの安全に戻ってくるまで責任持てるのは与一さんだった。もっとも、蔵治さんもどこさどういう木あるか暗闇でわかるだけの人間だし。そういう風になれねぇば親方は預けられねえと思う。だからタチマエっていうのは※一ノ上げ、二ノ上げ、上トリキリ、下トリキリってあるわけだ。してクラがあって、ここでマエカタが指示役して。どこさ誰立ったかみな確認とって。勢子がいれば勢子の動向もみな見ながら合図しねばねぇじゃん。その役目を興奮しねぇように。勢子でもタチマエでも興奮させねえように。うまく心理をつかんで喋る人にならねばダメだというわけ。与一さんはその点、上手くやるもんだっけ。 慌てさせねえで、人の気持ちを高ぶらせねえで、落ち着かせながら。それを俺が目の当たりにして。ふた春習ったわけよ。蔵治さんが俺に「与一さんの跡継ぎはおめえだからよく習え。」って言うんだけどもや。俺は仕事が仕事だし、熊狩りはずっとは来られねえから、「俺は前方はダメだ。」って断ったんだ。でも、蔵治さんさ遊びに行くと喜んでな。蔵治さんの家の堰さアヒルいるわけや。 20匹ぐらい。ガァーガーってアヒル野放しで飼ってんだ。寄ってくるとだんだん調子良くなってきて。 アヒルの卵を持っていけてくれるんだっけ。
※一ノ上げ・二ノ上げ・上トリキリ・下トリキリ:タチマエ(射手)の配置場所のこと。一の上げ、二の上げは概ね峰に立つ。そこへ勢子が熊を上げて獲らせるが、そこから脇に逸れた熊はトリキリがカバーする。
熊の心理を読んでるんだな、蔵治さんは。一回だけ、見たことないようなでっかい熊に出会ったわけ。蔵治の言うことは、「この熊は獲れねえ。なんぼ勢子行ってもジャジャこくはけ出てこねえ。あの熊は我々の手ではお手上げだ。」って。俺その時近くさいたんや。「この熊は捕れねえ熊。授かんねえ熊だ。巻き解くと必ず出てくる。」って言うわけや。して、勢子がみんなタチメェまで上がってしまって、そしてお昼だってことになって、「あと終わりだ。」って巻きを解いだわけ。みんなそれぞれの所で固まって。俺は蔵治さんとマエカタでいたんだ。して、「弁当だっつって水取る時は、こういう天気良い時は雪を掘って角にこう取って弁当の殻置くとそこさ水タツタツと落ちるはけ、飲み水はこうして作るもんだ。」って。雪穴を掘って角にこう雪切って、そして弁当置くとタッタッタッタッタッタッて水落ちてくる。飲み水確保する方法習ってや。して、「そろそろあの熊出てくるぞ。」って俺さ言うわけや。「ほら出てきたあれ。」それが一の上げの下のビンソーカブからニョイっと出た時、立った足跡が見えるわけや。相当脚も長い。でっかい熊で、「おそらくあれは大鳥のヌシだ。」って。追っても出てこねぇんだ、隠れて。行き過ぎるまで。あんまりでっかくてや。「授かんねぇ熊だ。」って蔵治さん言うんだっけ。そして、言った通りに出てきたと。蔵治さんも慌てて握り飯のけて、「ほれ見ろ!」って。そういうこと一回あったっけ。不思議だども、言った通りのことが起きたんだ。あの熊は授からねえ熊だ。今頑張ったって獲れねえ。隠れて、巻き終わって解くと出てくる。その通り出てきた。そういう人なんだっけ。
カモシカの皮なめして手袋を作って、親指と四本指を入れるように手袋を作って。紐で吊って首さぶら下げとくわけ。寒い時はそれさ手入れてあっためてや。急な坂上る時は鉄砲しょって四足で歩くわけ。手ついて、手袋のカモシカの皮はめて。すごいもんだぜ、あの山。急なとこ歩く時だば、蔵治さんすごいもんだっけ。杖は腰さ、刺すんだよな。あのカモシカの手袋あって四つ足で歩く。本当のマタギだんだあの人は。
一緒に猟行った頃は恐らく、蔵治さんは七十ちょっとぐらいだったかな。ヨボヨボ爺だもんだっけ。うちの親父がたの年代の人、昔の先輩たちは 60 歳ぐらいでみな辞めてんだよな。暗黙の了解で。だはけ蔵治さんは特別。あの構え見てもや。蔵治爺さんは 100頭記念だって、一回酒盛りしたんだっけな。いや、自分が全部撃ったわけではねぇ。自分が山さ行って獲った数が 100頭でねぇかなと思ったっけ。
俺が大鳥に行かなくなってからは熊獲れるようになったんや。湧いてきたほど熊獲れたんやな。でも、羨ましくもねぇんだし。俺も倉沢の熊獲りは行ってたし、そっちでも獲ったもんだからや。昔は熊獲ってくると、祭りや。熊持ってきてや。みんな見さ来て。山奥で獲っても、倉沢さん丸まんま持ってきた。あれはみんなさ、獲ってきたぞっていうのを見せたかったんじゃねえかな。こういうものがいるから山は気をつけろという意味もあったろうし。熊狩りっていうのはこうして獲って来るんだってこともあったろうし。そうするとそのおばさんたちが血飲ませてくれって来るわけよ。 あの頃は皿さ醤油持って、「食え食え。」って。あったかいうち削って喰わせてや。生で。俺らだってあの頃は熊、腹いっぱいなほど食ったぜ、刺身で。それで線毛虫というのが流行って、刺身食うなって言われて。寄生虫だな。秋田で亡くなった人が続々出て。それからは刺身食わねーもん。あと脂は凍らせてや。凍ったやつをスパスパ切ってわさび醤油で。 脂など最高美味しいなやの。二枚ぐらい食うと丁度良いあんや。俺は脂をこう細長く取ってラップ巻きして凍らせてや。やっぱりあれだな、熊肉はビニール袋の厚いやつさ、ストンと入れてまいて。それからあの幅広いラップでぐりぐり巻いておくと一番いいな。冷凍焼け絶対しねぇ。2年経ってもしねぇ。
猿やら熊やら騒ぐ世の中だども、こういう世の中に将来なるって言うのは、俺が猟友会長引き受けた段階でみんなさ言ってんなや。「とにかくこの猟友会は無くされねえし、猟友会員がいなくなれば村崩壊する。将来的に一年中鉄砲は放されない時期が必ず来るから。これから養成して若者も集めていかなければダメだ。」ってや。俺、15年ぐらい前に俺喋ってたんや。とにかく猿が蔓延してくるやん。イノシシとかシカなんかもチラホラなってくるし。銃を持った人が村さえいねえとのさばってきて。猛獣がな。生活圏奪われるっていうイメージが強かったんや、俺もな。栗林でも何でも、猿とか熊でダメなってるろ。だから、保護団体だかなんだがが、「村から 200m以上離れたとこは鉄砲撃ってはダメだ。」とかや。ほんでねえろって。1㎞離れようがなんぼ離れろうが、栗林というのはそこの住民の生活の源で収入の源なんさ。熊は泥棒だって言ったんや俺。俺も会議で言った時ある。「そんなこと言うならあなたがた守ってくれ。」って言うと、「私たちはそういうところには入りません。」って。して獲って悪いっていうわけ。だはけ、「獲るな。」「行くな。」そういう厳しい時代があったんや。そんなこと言ったら生活圏さ入ってくるなは泥棒だって。人間だって果樹や山菜採れば捕まるんだ。野生の動物だって駆除しねぇわけいかねえ。春熊猟は、我々は予防駆除だんやな。この生活圏を守るために頭数を削減して民有地さ入ってこねえようにというのが我々の猟友会さ与えられた任務なんや。それを『面白おかしげに楽しみながら熊狩りしてる』っていう一般の声が。それ聞くと我々も燃えてくるものがあんだよ。
猟を辞めると村が崩壊するんだ。我々がや、チョッキ着て軽トラで、猿さおっかない人だよということを教えてるからうちさ入ってこねぇあんや。だからかかぁだかしさ山さ行く時チョッキ着せてやる。そうすっと、「あーやばい人来た。」っていう認識がしてるわけや、連中も。だから部落みんなで中山間で赤いチョッキ買って配った時もあんねんよ。とにかく俺の軽トラックなんか見れば200m、300mで「あと逃げろ!」と合図出すんだ。だから、別の人の車でいると猿はなんぼでも来る。とにかくこの生活を守るためということが、我々の猟友会、鉄砲撃ちの今は宿命みたいになって。
昔は鉄砲撃ちなんて“贅沢な遊び”っていう感じで取られて、村の中でもう馬鹿されてるわけよ。『家の仕事ぶん投げて熊獲り行って贅沢な遊びしてる。』という時代があったわけよ。肩身の狭い思いしたんやな。それが「近い将来、絶対に鉄砲撃ちが住民の中さ、いねえ限りは村が成り立たなくなる。だから鉄砲撃ちは絶対無くされねえ。」って、俺会長なった時にそう挨拶したんだよ。猟友会もまた盛り上がってきてほしいやん。盛り上がってほしいわよな、これな。俺だってもう 80なるもんだもん。もう一回か書き換えできっか、できねえかまで来てるもんだ。
大滝小一さん:昭和22年生まれ
聞き取り日:2025年10月30日
文責:田口比呂貴