【大泉・朝日 山の人生】 鈴木二三男さん
出身は上名川。実家が貧乏屋でな。親父が病気でやられたんだろうけども。生活保護世帯だったなや。子供の頃は家の手伝いで焚き木を集めたりはしたじゃんな。カブラを植えたりするために※カナ焼きだでら。田んぼはなかったな。前はあったらしいどもみんな取られたなや。まぁ、取られたでば、売ってしまったんだろ。生活しねばなくて。
※カナヤキ:焼き畑のこと
親父は戦争さ行った後、抑留されたなや。終戦なって家さ帰ってこられると思ったば、シベリアさ連れて行かれてや。それで、俺が3歳の時に生きて帰ってきて、肺病になったんだ。血吐くようになってな。隔離で秋田の療養所さ連れて行かれたんだっけ。それで中学校上がるまで家さ来ねぇんだよな。親父はあばら半分ねぇでやんな、手術で切って。外で仕事されなかったでやんな。だはけ母親があっちゃこっちゃ土方したり、田植えだでら稲刈りだでら行って稼いで家族の飯食わせてたじゃん。ジジババもいたども。生活保護で飯食わせてもらったんだよな。だはけ肩身が狭かったって言うか。
俺は高校さ行けなくて。中学校上がってすぐ何か仕事しねばねぇってことで、大工。職人としても、大工の方が格上だろうって思ってな。最初、上名川で大工の見習いしたけども、一年しないうちに大網さ行ったんや。住み込みで大工の見習い。まぁ、弟子だわけや。大網で 5~6年大工やった後は鶴岡の大工、工務店さ行ったり。徐々に自分で仕事を貰うようになってな。最初は一人親方で。“鈴木建築”って会社にしたのは倉沢に来てから。平成元年だな。やっぱり若い頃は何でも怖いもの無しっていうような感じで。これだば組織を作った方がいいなって考えがあったわけや。一人親方でやってたって他からも認めてもらうのも容易でねぇし。公共事業も入られる。そういうことも考えてな。大工歴は59年になった。朝日全般仕事廻って、鶴岡も。とにかく大工っていうのは寺の檀家と同じようで。昔は「うちはこの人だ。」っていうのがあったんだ。新しく創業すれば大変だった。だはけ俺の場合はめいっぱい働いたんやな。朝早くから夜遅くまで稼いで1日の手間賃しか貰わねぇ。それが評判になってよ。すごい働くって、噂が噂を呼んでっていうか。仕事見て「この大工さ頼みてぇな。」って。そういう話が段々広がっていったんだな。
弟子の頃、出稼ぎは毎年行ってたな。大網さ大工見習い行った頃から横浜のほうさ。アパートの内装だでやな。まずほれ。鉄筋コンクリの建物さ、ボード貼ったり。その後の仕上げの貼り物は表具屋がやるんだはけ、そこまではしねえどもな。やっぱりな、出稼ぎ行っても俺は見習いだじゃん。で、一丁前の大工でも、見習いでもマンションとかアパートの一世帯なんぼって請け負うわけだ。俺でも一丁前より稼ぐときがある。そういうのが面白かったんだ。だども、どうしても敵わねえっていう人もいるんだっけ。見てっとな。ほんげバタバタと稼いでねぇなや。要領よく稼いでんだやな。あぁいうのは見習わねばねぇ。こっちで大工するとキチっとしねばねぇ。その感覚で向こうでやるんだはけ手間かかる。出稼ぎでやってる人など、丸のこでドンって言わせてモサモサって目方つけて終わり。こっちではノミでピチッと合うようにするじゃん。向こうではそんなの必要ねかったんだな。
倉沢に来るキッカケはな、大網さいた時なんやな。青年団の集まりがキッカケで倉沢の八月の祭りさ来て、今の奥さんにちょっかい掛けて…。奥さんは 四姉妹の末っ子だろ。姉たちは嫁さ行ったんだし。嫁さ出すと跡取りがいねぇわけや。なんたって、譲られなかったわけやな。俺は次男だろ。短気だもんだはけな。「しば、俺婿行く。」って。その言葉が俺の運命を決めた。
で、倉沢さ来てすぐ鉄砲持つ勘定でいたなや。倉沢さ来た頃はな、大工の現場が藤島だったんで毎日通って。ガソリン代だでら通勤時間考えたらや、「こんなところ住んでいられねぇ。」って思ったんだっけ。でも、ここから出るったって親もいるんだし。それで、ここで楽しまれるものを…と思って。鉄砲早く持とうと思ったんや。だども、その前に飲み屋で喧嘩してて…。警察さ所持許可の申請行ったば「おたく喧嘩したんでねぇか。罪にならねぇにしてもそういう行為をした人はダメなんだ。すぐ申請を取り消せ。」って。諦めたじゃん。だはけ、32歳まで鉄砲持てなかった。若い頃は暴れん坊で。お宮でケンカしたり。酒飲んだ席で「婿のくせに。」って言われるんやな。若いときはパーン!って。とにかく負けず嫌いなんだやな。育ちが育ちだはけだろな。馬鹿されるのが一番頭さくる。けど、根は落ち着いてるんだや。
小学校の頃からウサギ巻きは行ってたんや。勢子で連れて行ってもらって。ウサギ分けてもらって食料に。そういうの好きだったわけや。獲物を獲るってなが。子供の頃から自分で弓作ったりして。あと、田の畔さ来るスズメを獲ったり。枝立ててスズメ入るところをパタンと落とす仕組み作って。籾でも餌まいて。うちの俺の孫じいさんが好きでな。魚獲りでドウ掛けたり。自分で作るんだっけ。そういうの見てきたはけな。ただ、大工の見習い入ってからは、獲物を獲ったりの時間がなくなったわけや。一所懸命仕事しねばねぇ。覚えねばねぇ。
それで、鉄砲持てたのが40年前、33歳だな。その頃はまだウサギがいたんだ。その年は巻き狩りして28羽だったかな。前年までは一巻きで 30羽獲ったとか。その後は巻いても10羽締められるかどうか。そうなって段々減ってきたな。一頃、あれ病気で。ゲルグドってお玉じゃくしの卵みたいなのが腹さ付くあんだな。今もたまにあるかもしれん。あと、一番はキツネやテン。昔は皮売れたんだはけ獲る人いたんだけども、今は誰も獲らない。天敵増えるばっかりじゃん。するとウサギが増えれねぇ。
ウサギ巻きはまず、「この日に巻こう。」って決めて巻いたなや。一巻きで1つか2つか獲るし。逃がすのも何匹かいたし。場所は「ここさウサギ付くだろう。」っていうことで決めて。天気塩梅でどの辺さ付いたろうなって。とにかくうちからすぐ側の山、家の方まで足跡あったなや。だはけあの頃は「まずウサギはいる。」っていうのがあった。付く場所も大体決まってるんだよな。同じ場所さ付いてるわけや。とにかく逃げられる場所さいるんだろうな。雨降りみたいな時は峰元ってか高いところさいるしな。雑木林とか杉林の外れって言えばいいかな。あと、雪が平らで綺麗なとこさや、雪の塊がモコンとなってることあるわけや。掘ってるんだろうか。ちょっと高くなって。そこさ寝てる時あんねや。なんとも思わないでそこ通り越してや。足跡もねぇんだ、雪降った後だしな。それでフッと見たら今度は足跡あって。そういうこと何回かある。ウサギは賢いんだよ。ちょっとした穴さ入って、耳ばっかりピッてなってるわけ。で、ウサギを見ながら弾詰める分には逃げねぇんだや。ウサギから目を離して弾詰めるとバーっと。何回だかあるもの。目、落としたらピョンってして。追っかけたども追っつかれなくて。ちらっと見えるども離される。
ハクビシンはいたはいたんだ。前はそんげ数はいなかったろうけど、増えた。狩猟免許を取った頃は、先生が「ハクビシンって輸入したやつが野生化している。けども、こっちさはいねぇはけ覚えなくていい。」って。それからドンドン増えてきてたんだよな。今の猪みたいなもんだ。だども、鹿はそうは増えれねえな。
俺が猟友会入った頃はな、銃を持ってから3 年間は有害駆除に参加出来なかった。で、熊獲りに行くようになってから 7 年間は一つも熊撃たねぇんだやな。山知らねえんだはけ、タチメェの熊こねぇとこさ立たされるわけや。で、ちょっとずつ行きながら山を覚えていくわけだ。ウサギ巻きでやる山とまた全然違って、巻きの大きさも全然違うし、自分がどさいるか分からねば迷子になるっていう。そういう心配もあるし。やっぱり最初は山、わからねぇんだはけな。とにかく誰かから遅れてそれこそ自分一人置かれれば迷うはけ、その辺は必死だった。熊獲りはまず亀井一郎さんから連れてってもらったっていうのはあっじゃんの。凄いのはやっぱり与一さん。山は凄い。とにかく山、あの目つぶっても分かるような人なんだな。孝治もんだけどもな、熊の動きを把握するんだや。そこさいた熊だば、もし追って、撃ったとしてもどこをどう行くっていうのはみんな分かってる。その通りに行くんだや。その辺がやっぱり凄い。それ分かれば先回りして、熊行く所さ行けば獲られる。だはけ、俺も最近からだども、無線聞いててどっちゃ向かったって、どうなったかっていうのは大体把握したら、あとはダーッと下がってそこさ行く。
大鳥の、いつも行く山で、一番上で俺撃ったなや。かすって、逃げてや。朝男さんの前さ行ったり、無線でワーワーって。ブナ林登って沢さ降りるとこあるろ。この熊は必ずそこさ来るなって思って。一の上げから戻って待ってたなや。したら中の窪みのところさ降りてきてや。俺の前さ来てな。なんとか締め上げたじゃんの。熊があちゃこっちゃ逃げて。まず逃げるルートを行くわけだ。そこで誰かから撃たれるとルート替えるわけやな。そういうなを無線で聞いて、これはどっちゃ向かうなっていう判断がな…。やっぱり長年、そこさ何回も行ってるはけ。とにかく熊は人から見えねぇとこに行く。自分撃ったところもんだし。だはけトリキリが大事。上から見えねぇとこに行く。去年だっけか。俺、10ⅿぐらいで撃ったっていう。あれはあの一本松さ向かって来るとしてもこっちゃ行かれるかもなと思ってな。すぐ走られるとこさいたなや。ここさ来ても撃たれる。こっちさ来ても雪あって走られる。ああいうのはやっぱり経験で。大体どの辺さ来るかっていうのは常に把握してねばねぇ。上に行かれるのはメェカタから教えてもらわねばわからねぇぜ。下手に動けばこれバッと戻られるんだし。だけど、「あの縁に行くぞ。」って言われればシャッと出はるしかねぇ。モタモタって足音だかし感づかれたら終わり。
待ってる時は、「熊向かってる。」って言われたら絶対動かねぇな。足、雪さカチンといわせて。動けば戻られる可能性ある。ただいつでも撃たれる格好しててアンテナを。どこさ出はってくるか目を配って。最初の頃は黒いのがちょっと見えた時にすぐ撃ってしまう。それだと逃すんだな。撃ち手が泡くってるんだし。大体マトが小さい。そういう経験もある。だはけ、向かって来てても、俺に気付いて引き返しても撃てるなって思うところまで我慢してから。完全に上がってきて対峙したらや、恐らく熊は気付いてはいると思う。「あれ?」って。おっかねぇものいたって思うと思うんだ。とにかく脇さ行こうとしても、その前に撃つ。まず、自分が動かねぇ限りは戻らねぇ。熊見えた時に鉄砲動かしたりすれば戻られるども、黙っていれば。熊が来て身体が完全に上がったなって時にやれば。こっちに気づいても2発は撃たれる。ツラがパッと見つけた時は撃ってしまえば、逃げられる。撃てたって一発だろ。当たる可能性も少ねえし。
俺が初めて熊撃ったのが大鳥だったんやな。有害期間が終わる頃でな。5人くらいしかいなかったなや。かなり遠くの山。時間かけてタチメェ立って。メェカタもいたんだども、正規に立たないでやろうってことになって。タチメェは征勝さんと俺とマサオと、メェカタが与一さんで、勢子が孝治か。孝治がずーっと回っていって。俺が立ってるとこの向かい尾根さ熊がひょこんと頭出したわけや。でも、斜面を降りて来ねえんだ。一回、ピョコっと出てきて、引っ込んで。またピョコって。そのうち、意を決したようにググっと降りて来たんけ。その沢は結構広いんだやな。雪でベロッとなってて。そこさ来たのを撃ったば、当たんねぇわけや。50mくらい。散弾銃のブローだな。で、酒呑みの時、朝男さんが「当たらないときは一回筒先を雪さ下げてから上げてやると良いんだ。」って。それ思い出したなや。そうやって撃ったら当たった。大きくねえけどな。60kgないかもしれない。熊獲り行くようになって7年目。それから毎年撃つように。運もあんだろうしな。
ライフルは持って10年以上経ったな。昔は猟友会で3丁までだって決まりあったなや。そのルール無くなってからみな持ったじゃん。その頃は俺、「巻き狩りさ、ライフルはいらねえ。」って言ったんや。立ってるとこさ追って来すんだもん。近づいてくる熊を撃つんだし。したら秀勝と松沢山を上がってて、俺はその脇さいたんだ。二百何十メーターのやつをパッと撃ったわけや。コロンといったっけちゃな。それからだもん。「ライフルってのは凄いな。」と思って。それから欲しくなって。
昔の巻き狩りっていうのは、タチメェを配置して出来るだけ一の上げに上げてやるように勢子が追って行くっていう。逃げていくのを撃つのはトリキリとか。だはけ、タチメェや二の上げやる人はライフル必要ねえって感覚だったわけな。近づけられるだけ近づけた人が、それこそ“たっちぇ”んだしな。トリキリは行くまでが大変だはけ、孝治がしょっちゅう行かされたのやな。「孝治行け、孝治行け。」って。俺も志願して行ったなやな。大変だども、面白い思いもした。
だはけ、昔とは獲り方も全然変わってきた。当時から見るとや、やっぱり獲れる確率がグッと下がったと思うんだよな。今年だって何頭見たや。十何頭みても中々獲れねぇろ。前だば見出しで一つ見つければうす暗くなるまで見てて、どこさどうなったか大体確認してから降りてきて。そして次の日に巻きに行く。巻きだってちゃんと配置つけて勢子に追わせる。そういうルーティンが決まったわけや。だはけ獲る率が高いと思うんだ。摩耶山の場合なんか、見出しに行かれる人が行って。昼間前に見つければそれ見ておいて無線して。鶴岡で仕事しててもそこからすぐ駆けつけて来るわけや。午後1時2時、3時頃なっても、締められる。今はライフルもあるんだろうども、見つけるとそれをいきなりやる。昔みたいに見出し行って巻き狩りしなくていいっていう。道具も良いんだか。大体自分でわかるわけだども、確率が少ないやり方だわけやな。もっとも人も少ねぇんだしな。おらほだって今は4-5人しか行かないときが多いもんな。
まぁ昔からの山の長で、蔵治さんのやり方を与一さんが教えてもらって、見て覚えて。その後、朝男さんがいたじゃん。ずっと受け継がれていんなやな。常男は今メェカタする。して、常男の場合はメェカタが山を下がって勢子を兼ねて鳴らねばなかったりするろ。そのために与一も朝男も常男を連れて行ったわけや。そういうのが足しなってるわけや。今だって常男さ付いて行って覚えている範囲で教わっていかねぇと。あと全然“我流の巻き”なってしまうわけやな。
鈴木二三男さん:昭和28年生まれ
聞き取り日:2025年10月22日
文責:田口比呂貴