【大泉・朝日 山の人生】 安達一春さん
生まれは温海町の五十川。父親も母親も朝日出身だけど。五十川炭鉱って大きい炭鉱あったのよ。そこで親父とおふくろが炭鉱で働いて。選鉱場みたいなのがあって、女性の仕事もあったし。親父は中に入って掘る。小学校 2年生になる春まで五十川に住んでいた。子供の頃は長屋生活。炭鉱だから長屋がいっぱいあって。 近くに幼稚園もあったし、映画館も病院もスーパーもあったわけだけども。長屋生活なので目上の人が結構リードしてくれて、遊びとかも含めて魚釣りとか海近いから連れて行ってもらった記憶はあるな。目の前が映画館だったからタダで観れて。それが最高。あの映画で見る長屋風景だよな。プライバシーってあんまりなかったんじゃないかな。共同浴場は二つくらい。トイレは屋外に。五十川に小学校もあって。炭鉱って九州とか北海道からも集まってくるから。小学生も大勢。ひと学年で120~130人いたかな。でも、その後も残ってるのはほんの数人だけどね。ただ、親戚が朝日にあるわけだから。農作業とかで母親は随分来てた。父親が炭鉱専門。でも、親父が落盤事故に遭って、だいぶ大変な思いはしたけどな。ミイラみたいに包帯でグルグル巻きにされて。一歩間違えれば死ぬよな。落盤事故があったり、石炭が石油に変わっていったし。いろんなことで炭鉱が閉山なったんだ。
朝日に来てからは落合に東北電力の社宅があって、それを譲ってもらって。引っ越して来た時は鍋と釜しか持ってなかったっていう話。朝日の小学生はみな、学生服。襟や袖がテカテカ光ってるくらいの服を着てたっけな。俺が炭鉱から来た時は学生服を持ってなくて、チェックのシャツ着て。田舎の子ではないんだな、着てるものが。当時の写真見ると俺の周りはみんなこの辺光るくらいテカテカとこう。 で、俺はぼっちゃん刈りなの。坊主ってしたことないんじゃないかな。
卒業後は朝日中学校で、もちろん野球部。美術部に入りたかったけども。絵好きだったからな。高校の時も「美術部入りでな。」と思ったくらいだから。でも、一つしか入れないじゃん。それで野球部に入部。中学の時はセカンド、高校ではピッチャーやったんですよ。試合に弱い学校だったから。市営球場で随分叩かれましたよ。直球とカーブしか投げれないんだ。簡単だよな、サインはな。
高校は櫛引の山添高校。高校では、まぁ彼女とまではいかないな。友達は多かったから。遊び友達というか。悪い友達もいっぱいいたけど。片思いはもちろんしたけど。まったくモテなかったですね。これだけは自信持って言える。でも、もう一回あの時代をやりたいくらいだなぁ、高校生活。野球やってたから、ほとんど部活。あと、同級生に酒屋の家があったから、そこに入り浸って。ばぁちゃんがお酒出してくれるので。随分仲間が集まった。楽しい思い出だよな。冬は帰るのめんどくさいから泊まったり。でも、良いこともあって。そういうところに集まって…。なんつうの。彼女に振られたとか、そういう話するじゃない。それはもうよかったよな。
俺って、多分中学からだと思うけど、地図帳見るの大好きでや。地図帳ばっかり見てた。だから今まで地図がものすごい集まったな。結局、40年前に火事で焼けたけども、今も地図関係だけで相当あるよ。地図オタクだもんな。だから自転車旅行を一人で。部活、夏休み中とか練習あるじゃない。で、周りに自転車旅行をしてるような高校生はいなかったから。そんな事例もないし、「ダメだろう。」ってみんなからは言われたけども、朝日から秋田の本庄まで、1日で往復したんだな。 朝2時か3時ころ出て、夜中に着いて。そんな体力あったんだな。 で、その時に駅長から、“折り返しましたよ”ってサインもらって。職員会議に出したの。担任の先生も良かったんだよな。「何かそういうことしたら?」というような形で言ってくれたから。それ提出したらOKもらって。初めてじゃないかな。その、当時サイクリングで旅に一人で行っていいっていう許可が。好奇心旺盛だったんじゃない。だから必然的に地図の読める男になったわけだけども。地図見ると土地感とか大体覚えちゃうし。今もその癖があって。ナビ使うことはほとんどない。あと時刻表も面白いじゃないですか。時間だけじゃなくて、安いチケットとか…。昔のあの時刻表ってそうだよね。 時刻表、随分買ったような。
いろんなとこ行ったな。高校生の時は自転車で東北一周。青森まで行って福島まで戻ってうちまで。2週間くらいだったかな。旅館は泊まらず。泊まり方がよくわからないというか。お金出せばいいってのはわかるけども。だから、ほとんどお寺と学校と橋の下と…。あとは駅の待合室。昔は二十四時間で泊まれたから。学校でも宿直室に泊めてくれた。でも、学校とお寺は絶対ダメだ。おっかなくて。だって、トイレなんか大体端っこにあるじゃない。お寺は本堂に寝せられることが多いし、ほとんど寝れなかったな。お金なかったからな。 まず、高校生って自分のお金あまり持ってないじゃない。 僅か小遣いを持ってる程度で。ユースホステルも泊まれなかったもんな。だから、どうしても人のいないところ。一番安心して寝れたのは駅前のおまわりさん宅の軒先。それは安心して寝れるんだよ。 寒くても寝袋に入れば。 気持ちの問題だ。橋の下でも寝たな。高校時代は本当で夢の世界だもんな。とにかく一周するのが目的だったんだな。だって毎日地図見てるんだし。授業中に地図帳開いて、楽しいに決まってんじゃない?まったく地図オタクだよな。
ヒッチハイクも随分したよ。北海道はだいぶ行った。タクシーをヒッチハイクしたこともあるし。前の車に手を挙げたんだけど、後ろのタクシが止まってくれたから。「金ないんです。」って。北海道で初めて登った山は羅臼岳。知床の。あそこに岩尾別ユースっていうのがあって。その時は電気が入ってなくて、ランプだったんだけども。そこから“ホテル地の果て”ってとこまで送ってもらって。そこから羅臼岳に登るんだけども。いい山だな。何も持ってなくて、ジーパンで、あとリュックは持ってたかな。ああ、山登り楽しいなって。東京帰って山の道具を買ったんだもんな。それは大学生の時な。
大学は拓殖大学の政経学部の政治学科。他はみんな落ちたけども。工学部の建築とか。物理とか全然わかんないのに受験したからな。建物の絵描くの好きだったんだよな。
高校生で東北一周した頃の先生が川村勝夫って言って。校長先生したり。元々日体大の体操選手で。その人が3年間担任だったんだな。なぜか、大学入学を進めたんだよな。勉強はできないのはわかってたけども、できないやつがまず大学に行けというスタンスで。で、俺が自転車で旅行したりを見てたんだ。こいつは高校の中では収まらないというところがあったんじゃないかな。「大学行け。推薦書いたから。」って。俺以外に何人も。だから、その世代は大学に行った連中が異常に多い。そういう風な声掛かんなかったら行けないだろう。お金もなかったし。
大学の4年間、時間もらえたっていうのはすごく嬉しかった。時間が自分で使えるなと。旅が一番だったな。自転車も多かったし。あと歩きも。ただ度胸なくて。本当は稚内から鹿児島まで歩く予定で計画は作ったのよ。ところが自分独りで出来なくて、友達誘ってリレー形式で。あの時10人くらいだっけかな?フロンティアジャーニーって愛好会作って。もちろん庄内も歩いてったよ。俺はここは歩かなかったけど。自分が一番かっこいいと思うゴールを。岡山から鹿児島まで。あれも大変だけどな。一日五十何キロ歩いたけど、もうあと足が水ぶくれで。泊まる場所もなくて、金ないのに旅館に泊まって。そこで女中さんから水袋破ってもらって。次の日、十キロも歩けなかったなぁ。痛くて。懐かしいよな。歩いて色んな人からカンパもらったり。岡山から鹿児島まで、二週間くらいじゃなかったかな。ずっと歩いてきてるから。夏出発して、12月にゴール。俺が一番最後で。あれは冒険だったな。あんなに辛いと思わなかった、歩くの。自転車の何倍も辛かった。でも、見える景色が全然違う。だから断然バイクより自転車の方がいいし、自転車より歩きの方がいいし。
印象に残ってるところは。自転車だとやっぱり北海道。積丹半島に美国っていう街あるのよ。そこにチニカ山荘ってのがあって。そこにハマってしまって。卒業してからも随分行ったなぁ。景色は最高。雰囲気がいい。おばさんが一人でやってて。ペンションなんだけども、昔お父さんが生きてた頃はスキー場もあって、目の前スキー場なんよ。ちっちゃいスキー場だけどもその錆びたそのリフトが残ってて。その後、随分行ったな。社員旅行でも家族旅行でも行った。そのおばさん、うちに何回も遊びに来てくれて。親戚でも何でもないんだけども。すごく仲良くなった。チニカ山荘は高台にあって。小樽から船で新潟まで行く船あるわけだけど、船がずっと目の前っていうか、見えるんだよ。その船に鏡で合図して煙をボコボコ出してくれたり。泣けてくるよな。
僕の旅は、ただ知らないところに行ってみたい。それと、現地での人との出会いっていうのがやっぱり面白いです。で、なんかよくわかんないけど、良くしてくれる人が出てくるんですよ。アイヌでも鮭1本もらったのを忘れられない。旭川の近くだったかな。帯広の近くだったか。 「一本持っていけ。」って言われて、どうやって調理するかわからなくて。で、ユースホステルに持って帰ってアイヌの人から貰ったんだって言ったら、そしたら潰して、あの軟骨とかネバネバ状にして食べるってなんか入れたのかな。 すごい野性的な料理だなと思って。
大学卒業してからは荘内銀行の行員。でも、2年くらいしかいなかった。ちょうど就職難の時代。卒業が51年のオイルショックの時代。銀行入ったらもう羨ましがられるぜって言われた時代。でも、合わなかったね。あんまり面白くなかったな。ゴルフしたり、麻雀したりする生活は。銀行員という肩書き、あんまり合わなかったな。
銀行を辞めた理由は、朝日村に帰って来たかったから。朝日村で生きていきたいというか、それが強かった。その頃から大鳥とも連動してくるけども。青年団をやりたかったんだよな。その頃は青年団組織が結構終わりに近いんだけども、盛んだった時代は。同級生らはほとんど青年団に入って集まってるんだっけ。大学時代、夏休みで帰省しても「今日青年団の集まりだ」って公民館に集まって、長男長女の結婚問題からその地域おこしの話から。それを横で見てきたわけや。『これはいいぜの。』って。それで、役所に入りたかったんだ。自分が育ったところで仕事をやれるって。これ以上の生き方はないと思ったな。だから銀行に退職願に、自分の育った場所で生きていきたいってことと、青年団活動したいって書いたんだな。うちの親も反対しなかったからな。でも、役場には入れなかった。試験も受けたけども、実力が無かったこともあり入れないって途中で分かったんだ。
青年団活動は研修会とか。優性保護の問題だとかをテーマにして研修会したりしてた。それだけじゃないけどね。呑み会の方が多いかもしれない。 銀行を辞めてから社会教育指導員になって、青少年教育を担当したわけだ。20代後半だな。青年団を再生させなきゃいけないってところで、青年団を大鳥にも大泉にも作って。朝日村の連合青年団をやったんだよな。当時、青年団組織が無くなってる。人がいなくなってる。危機感というか。自分が育った場所で、地域の課題を自分たちの力で変えていこうって。すごく良く見えるじゃない。だから役所の仕事がすごく良く見えたのよ。消防の災害関係だとか。素晴らしい仕事だぜなって。でも、俺はできないから、青年団だったら自由にできるじゃない?自分たちやりたいこと、イベント的なことも。
大鳥ふれあいジャンボリーって聞いたことあるかな。今になって思うとすごいイベントだったなと。すんごい人が集まった記憶があってや。山の中の集落に1,000人では効かないと思うな。勘違いかもしれないけど。朝日全部から来たね。地元も、若者も、年配者もいて。踊りを踊ったり。花火がメインだったけど。
あと、ジュニアキャンプ。あれは50年くらい続いたんじゃないかな。 俺が大学卒業した頃が一回目だから。最初は大鳥の猫渕沢の橋の上で。今は木がいっぱいだけども、前は木がなかった。一回、車流されたことあってな。夜、雨降って増水して。子供たちのテントも張りっぱなしで、夜に避難。あっという間だったよな。7月か。昔、ジュニアキャンプの場所から以東岳まで登った時代だからな、子供たち。大鳥池まではみんなで行って、元気なやつは以東岳まで行こうって日帰りで。よく行ったよな。大人の方が大変だったかもしれないな。大鳥のジュニアキャンプ、最高だったな。猫淵から左京淵の上に場所変えて。ワイワイビーチっていう。あそこも楽しかったなぁ。青年団、社会教育指導員をやって。あと青少年育成推進委員ってのがあって、最終的に俺も会長になったけども。青年団そのものに関わった時代はその頃までだな。20年間くらいか。
その後、2~3年くらい大鳥自然の家でお世話になったんだ。冬も雇用してくれたからな。物作ったり、ナイフ使って竹とんぼ作りとか。ここで小刀研ぎを教えてもらった。プログラムは今みたいには多くなかったな。松平山のコース作って。グリーンアドベンチャー的な遊びがあったし。あと、昔は桧原行ってたからな。山越えて行ったこともあるけども、車で行けたから。泳ぎとか雑魚しめとか。6~7月頃だと普通に魚獲れたれたから。あと、カヌーやったり。魚のつかみ取りはやってたな。自然の家のログハウスは間伐材もらって職員が作ったんだ。玄関にある木彫りの太陽モニュメントも。タキタロウの大きな看板も。だから、関わった大鳥の人いっぱいじゃん。“大山一升のばぁちゃん”とか。自然の家に初めて来た時、最初の一言が忘れられねえな。「おら、ふでぇ人来たこと。」って言われて。デブが来たってことだろうなと思った。すごい酒飲みで。飲ませられたな。大鳥の人からも随分山に連れて行ってもらった。高い山じゃないけど。桧原とかスーパー林道とか。山菜とかも教えてもらった。大鳥って、良いよな。良いっていうか、人間関係というか。受け入れてもらったというとオーバーだけども。 親しくなったっていうのはすごい。これだけ集落の人と知り合ったって言うのはないかな。いろんな事を体験し、学ばせてもらったなぁ。
その後は第三セクターの仕事もやったんだ。月山あさひ博物村。今は振興公社になったけども。オープンは平成 3年7月。その時は役場の人が4-5人常駐して。スタートして 2年くらいで道の駅に指定されて。俺はバンジーの仕事ばっかりやってた。マイク握ってバンジージャンプの歴史喋ったり。あそこに棚を作ってたからな。観覧席みたいな感じで。俺でさえも8回くらい飛んでるからな。いろんな人が飛んでるからな。
そして、平成13年の年末に商工会を辞めた人がいたんだな。村会議員に立候補するために。商工会の事務局長が空いちゃって。「来ないか。」っていう声があって。それも面白かったよな。来る条件としては、国際交流の仕事を半日やっていいからって。嘘みたいな話。当時の俺は、タイに子供たちを連れて行ったり、成年祭とか、鶴岡単位のイベントやってたから。庄内国際交流協会ってのがあって。国際村ができてたからな。で、半分はその仕事やっていいからと言われて。でも、地域振興の話が話題になっていた時だったから。六十里越街道。これはアルゴディア研究会を立ち上げなきゃって。これは天職だなと思って。
その後、経済産業省の全国展開地域支援なんとかって事業をやって。その時に作ったのが岡本太郎のポスター。他にも地図を作ったり、ビデオ作ったり、ガイドの山船頭人を養成したり。いろんなことやりました。反発多かったけどもな。 「商工会でなんでこんなことしてるの?」ってだいぶ言われたよ。でも、大事な仕事だと思ったな。観光振興って。だって、観光に関わってる事業者が多かったから。
ずっと関わってきたけど、観光はベースが崩れていってしまった。ベースというか、時代の流れで。月山ダムとか高速道路ができた時点で湯殿山ホテルから民宿からみんな無くなってしまい、人の流れがもう完全に変わっちゃったからな。 観光客は高速道路だし、米の粉の滝ドライブインなんか大きな影響を受けました。
六十里越街道を歩くのも素晴らしいんだけども、起点へのアクセス面で全然バスがなかったり。近くまでもなかったりね。やっぱり関係機関が基本的に同じ方向性を向いてなかったのかもしれない。湯殿山詣では車で来ればいいんだっていうか。そうでなくて、熊野みたく歩いて。生まれ変わりの聖地になるわけだから。そういうところも価値見いだして、歩く。月山も西川町もあれだけお客さん来てるんだからな。
俺も六十里街道をやり出した頃はモニターツアーやったり、仙台からお客さんを誘導したり、あとバス会社の営業行ったり。中々成立しなかったな、バス会社でも。 それはハード的な設備が整ってなかったり。受け入れ体制の問題もあったろうし。でも、文化的なものというか、すごく大事だってかな。それを誇りにできるかどうか。その価値観が生まれるかどうかで、地域の見方がやっぱり違ってくるし。
社会教育指導員やってた頃、オールナイトウォーキングという事業をずっと。何年くらいやったかな。 マラソンの距離を夜通し歩く事業。すごい面白かったな。インパクトあったから。これだけ歩かせるって我々も歩くあんぞ。苦しいわけだけど。 高校 3年生を対象にして。で、卒業生の青年団の連中たちが仕事しながら駆けつけるわけだ。仁賀保駅と木ノ浦駅の両方でやったことだけども、高校生たちは待合室で出発を待ちながら、踊りを踊ったり、歌を歌ったり。で、サポート隊も焼き鳥やいたり。夜中だぞ。で、その年に卒業する高校生連中が、「いやー、朝日村最高だ。」って言ってくれる。 これ、すごい大事だぜなと思ったわけ。人間関係を作る事業というのは、ただのおもしろおかしい問題ではない。風景だけではないんだな。気持ちが繋がるっていうのはすごく大事な事だったな。そこで感じたっけな。
この間、選挙あったじゃない。俺も手伝いで動いたけども。候補者と一緒に2日間回ったけども。俺も落合の自治会員だけど、実際家に行くと落合って知らない人いっぱいいるんだな。したらな、ある家でお母さんが出てきて。「安達さん。」って声かけられて。俺わかんないのよ、全然。「大鳥ふれあいジャンボリー、すごかったなー!」って。俺初めてだ、あんな風に言われたの。何十年も経ったけど。そんなお母さんいるんだと思って。いやー、その熱。すっごい嬉しかった。それを言って貰えるっていうのが。生きていく中で、そういうことってすごい大事なことだからな。 それが一つ、自分の地域への誇りになるし、生きる力になっていくと思うんだけども。
そういうのが、何も無かったら寂しい村になっちゃうなって。そういう場が少なくなってきてないかなぁ。ジュニアキャンプもな、あぁいう高校生とか中学生のエネルギーをどうやってこう出させていくかなっていう。ジュニアキャンプって村の小学6年生の授業で、そこに高校生と中学生、少し社会人が関わって。それを50年間も続けてたっていうのはすごい事業だと思う。どういう形に変えていくか、課題はあるけども。残して欲しいなと思ったっけな。夜、肝試しすんなさ。 枝を投げたりして。翌日見たら全部漆の木で漆かぶれになったよ、とか。いろんな面白いことがあったけど。中学、高校生の関わり方そのもの、人間関係を作る上では理屈じゃないと思うんだよね。これは本当に共有できる体験だわけだから。
でも、山登りは一人のほうがいいぜ、俺。旅もだし、ずっと一人なんだよ。朝日の山は登ってるやん。湯ノ沢岳だとか摩耶山。大鳥以東岳から、六十里もそうだし。湯ノ沢から金峰までの縦走。登山ルートがあるところは全部行った。山、なんだろうなぁ。 やっぱり北海道の羅臼で見た風景が。頂上から見る風景って言うのかな。すごい雄大で、気持ちもスカッとする。登るまでは嫌だけどもな。当日の朝にすごい憂鬱になる。苦しいのがわかるから。でも、登ってしまうとたまらなく良い。 そのギャップがなんとも言えないじゃない。大体一人行くわけだから。日出も夕日も見れるし。クマとも会うし。いろんなことがあるじゃない。知らない人と出会うっていうことも。観光の仕事をやってきたのに人見知りするというか。一人になりたいっていう性格なんだな。自分自身をいじめる時間というのは貴重だと思う。
安達一春さん:昭和27年生まれ
聞き取り日:2025年11月11日
文責:田口比呂貴