誉谷集落 ―大日如来坐像に守られた、無火災村。―
誉谷(たかたに)集落は、大鳥地域の他3集落から少し離れた北側に位置する。上田沢集落から県道349号の山道を車で走らせていき、荒沢トンネル・笹根トンネルを越え、荒沢ダムを右手に見ながら深いカーブをいくつか曲がると、”誉谷”の案内標識が見えてくる。今は車で簡単に行けるが、1950年代に荒沢ダムが完成する以前は、大鳥川沿いから50mほど斜面を登ってこなければ村へは辿り着けなかった。二階に上がるようなところに巣(集落)があることから、かつては”二階巣(にかいす)”と言われ、大鳥では訛って”ニケス”と呼ばれている。また、山々に囲まれた村なので、”すり鉢村”とも呼ばれた。
集落に入っていくと右手には田んぼが広がり、左手には廃校になった誉谷分校がある。坂を上っていく途中に家が密集し、さらに道なりにいって田んぼを抜けると花戸林道へ続いていく。大きな川沿いにある繁岡・寿岡・松ヶ崎集落に比べて誉谷には大きな川がなく、水資源に乏しい。それ故、先人たちは遠い沢から水を引くために全長約1kmの山腹水路を作ったり、溜池を干ばつ時の農業用水に使っていた。わざわざ傾斜地に家を密集させた理由は、狭い平たん部を田んぼや畑に当てるためだったのかもしれない。
集落の始まりは、工藤大学一族が繁岡集落で繁栄した後に、共に落ち延びてきた鍛冶屋が良い土を探し求めて誉谷に住居を構えたことからと言われる。その後、誉谷の北西にある大日山(※1)の山頂には大日堂を構え、その中に大日如来坐像(※2)が安置していた。
この大日如来坐像は別名”火伏せ如来”とも呼ばれ、800年以上前に村が開かれて以来、一度も火災が起こらなかったと言い伝えられている。また、像の中には闇浮檀金(えんぶだんこん:金の塊)があるそうで、ある時この闇浮檀金欲しさに乞食が大日如来を盗んで行ったことがあったとか。盗人は山を越えて関川(越後国という説もある)へ行き、フイゴで真っ赤に焼いて金槌で打ったがどうにもこうにも硬くて取り出せなかった。その他、持ち出そうにも大鳥地域から出るとズッシリ重たくなってしまって運べないとか、ただ像がにっこり笑っているばかりで気持ち悪くてこっそり大鳥に返したとか、金の玉が飛んで屋根に上り、その辺一帯を飛び回って関川集落を全焼させたとか…。ざまざまな伝説が残っているが、大鳥にとって、工藤一族にとって大切な像であることは変わりない。
また、誉谷集落の入口近くに地蔵堂がある。脇にはお堂の由来を書いた板があり、そこには「大日如来とともに故郷で崇敬してきた地蔵尊を祀ろうと、京の仏師陳和卿(ちんわけい)に刻ませたのがこれである。身体堅固、息災延命、家運長久の守護仏なり。」とある。この地蔵様には特にアカギレを治す霊験があり、明治時代まではとりわけ海側から参詣に来る人が多かった。また、アカ(赤んぼう)ギレ(切れ)という意味もあり、これ以上子宝を授からないようにと女性の参拝もあった。
人口減少に伴い誉谷集落は現在、自治機能を消失。山頂にあった大日堂は取り壊されている。
※1 大日如来は闇浮檀金(えんぶだんこん)の御厨子に納めて、創村当時は工藤左京が堂守として奉仕した。
※2 大鳥開村の祖、工藤大学らが伊豆国から繁岡集落へと落ち延びる際に、相模国(神奈川県)田中の杜から守り本尊として持ち出してきたと伝えられる仏像。大鳥では”大日様”と呼ばれている。
※大日山は古くから女人禁制とされ、それは誉谷集落がなくなるまで守られていた。