昭和・平成の写真から振り返る大鳥池、タキタロウ山荘と水門のドラマ
日本で数少ない縦走路として知られる朝日連峰の中腹に、大鳥池がある。深山の森に囲まれた山形県最大の高山湖、大鳥池には長年の干ばつと洪水に悩まされ続けてきた庄内人の悲願、水門工事から始まり、そこから始まる山小屋の歴史がある。登山者の足を休め、息をのむ原生景観や伝説の巨大魚タキタロウに心を奪われてきた多くの登山者たちの宿り地となったタキタロウ山荘。現在もその様相は変わらず、これからもそうあって欲しいと願いながらも少し、山小屋の歴史を振り返ってみるのもいいだろう。
大鳥にある旅館朝日屋のご主人で、タキタロウ山荘の管理人でもある佐藤征勝さんに御協力頂き、昔の大鳥小屋や大鳥池水門工事の貴重な写真を見ながらご自身のことや大鳥小屋の歩みを聞かせてもらった。
東京生まれ。幼い時に戦争の疎開先として親と共に大鳥へ移住。朝日連峰が国立公園に制定されたことを機に父、義三郎さんが旅館朝日屋を開業、大鳥小屋(タキタロウ山荘)の管理も始める。庄内交通のバスの運転手、朝日村議員、朝日村村長、鶴岡市議会議員を経て、現在は朝日屋の御主人とタキタロウ山荘の山小屋管理を行う。大鳥地域のマタギでもある。
聞き手:田口比呂貴
すごい雪だろ?
―これはいつの写真ですか?
平成8年の5月。この年は大雪なんだな。まだ(雪が屋根に)繋がってるもんな。
ほら、大鳥池もまだ凍ってる。これで5月19日だぜ。
―おー、本当ですね。こっちの写真では大鳥池の氷の上?で釣りしてますね。
んだんだんだ。岩魚がなんぼでも釣れる。東沢さ、池ノ上を歩いていかれる。トントントントンっと。でも、雪が吹き溜まりみたいに端に集まっててデコボコで歩き悪くてなぁ。だはけ淵みたいな高いところ歩いて行って。そうして歩いていくと沢の入り口は消えてるわけや。氷が薄くなってるんだよ。あれを落ちねぇようにしねばなくてな。あれさ落ちて雪の下にでもいくもんだば、終わりだぜ。
これは平成6年5月。小屋掛けをする時の七つ滝の吊り橋だども、平成8年の大雪になっと
こうだもの。ワイヤーが切れてな。
辺りは表層雪崩もあってな。すさまじい雪だもんだっけ。
これは大鳥川のスノーブリッジ。7月10日でまだこれだぜ。大雪だった。すごいよな。
―この橋も雪で壊れた?
これは昭和61年の七つ滝橋だ。ピンあったんだ。ピン壊したもんな。吊り橋になる前だ。丸太じゃないけれど、木だったな。
ちなみにこれは冷や水沢の前の吊り橋。手前の看板は大鳥小学校の子供らが作って、おらいの息子も作ったんだな。笑
大鳥小屋と制水門のこと
して今ここに出てる赤屋根の小屋は前の山小屋。右側に管理人室があって、その奥が物置なっててな。ダルマストーブ、薪ストーブ焚いてたっけ。トイレは外。ボットンだ。元その場所にあった小屋を拡張して作ったんだな結局。昭和8~9年の大鳥池の水門工事の時に初めて小屋を作って。あの頃ヘリあるわけでねぇから材料はみな背負ってきたんだろうな。それで作ったなや。
―そうするとこの写真は、水門工事の時に飯場仕事にきてた人たちですか?大鳥地域から大鳥池までコンクリート背負いもしたって聞いた事があります。
この写真は朝代と藤子だな。して、お前が言うコンクリート背負いと言うのは最初の水門作る時の話。昭和8~9年だな。干ばつ対策で大鳥池の河口に水門を作って水位を3m上げたんだな。その時に赤川連合から半強制的に頼まれて、大鳥の人はみな背負わされたなや。だから今の80以上の人はみな背負ったんでねぇかなぁ?女の人は半分。あの頃で一袋50kgでねぇかな。その半分だば25kgか。いや、60kgだったか…。それに山道も旧道だぜ、旧道。人ひとりしか歩けないような道幅でや、急でや。ほんとで、よく行ったもんだ。
そして大鳥池行く途中に七つ滝橋があるろ。あれを渡ってちょっと上がったところに今もコンクリートの残骸がある。当時の人たちはそこまで背負っていったけどもあそこで雪降られてしまって。屋根掛けておいたが潰れてしまって、あと固まってしまったろ。あれで請負氏が大損くらって倒産したとかって話だどもな。何百俵ってもんなんでねぇか。あそこまでいくのにどれだけ金かけて行かせて…。物語があんなや。
古い水門とウインチ小屋。制水門は灌漑用水源を目的として作られ、大鳥池の水位を3mかさ上げすることで114.2万㎥を確保した。
古い水門の上さは手巻きのウインチ小屋があってや。その中さデッカイ機械があったんだっけ。あんなもの背負ってきたんぜ。何百キロもはねぇかもしれねぇけど、100kg以上はあるぜ。今の登山道なら道路は平らだども、昔は山を登りに登って、ヨコマツさ上がって…。何せ道が悪いんだし。今みたいな良い道でねぇんだ。平らなとこだば冷や水から先な。それでさえもデコボコデコボコってな。よくあんな旧道…。柱だってデッカイ柱使ってるぜ。
―みな背負っていったんですかね?山で伐って挽いてもよさそうですが。
用材はブナでなく杉だからな。大鳥池には杉はねぇんだし。村から背負っていったんだろうな。明治の頃にも2回くらい水門を作ろうと計画立てて調査したらしいけども、険しい山岳地帯だから諦めたってな。して最終的に昭和8~9年に作った。
昭和初期の大鳥池調査の写真。大鳥池の河口付近と思われる。
して、その頃は大嵐になって仕事ができなかったんだろうな。大江町の警察の署長が新聞に書いてたんだっけ。その人が若い頃、鶴岡にいたのかどっかの駐在所にいたかよくわからねぇけども、工事を始めると池が荒れるもんだからって。その、ヌシっていうかなんていうか。して、ダイナマイトかけるってことで警察が立ち合わないとダメだってことで自分が立ち合ったんだと。そしてダイナマイトかけたば、それこそタキタロウと思われ、魚が浮かんで。それからあと、嵐にならなくなったってことが書いてあった。警察の署長が書いたんだぜ。それは水門ができる前だろうから、昭和6年だか7年くらいの話かな。
志田忠儀さんとの出会い、大鳥小屋の管理運営へ。
さっき話した昔のウインチ小屋だけどもや。昔はドーム型のコンクリートでな。そこにおらいの親父は物好きでな。そこで缶詰だかし売ってるんだっけ。工事の人向けじゃなく、登山客に向けてでねぇかなぁ。缶詰だかしみな村から背負い上げてだぜ。中には台があってや。ベッドみてぇなちょっと高くなった台の上に寝てるんだっけ。ここさ店出してるから、ここさ寝たんだ。俺も寝たことある。そうしたところに志田忠儀さんが巡視で回ってきて、「こんなに好きで来てるんだば管理人なってくれ。俺が推薦するから。俺一人では朝日連峰を回られねぇから」って。そう言われて、親父が県の自然公園管理人になったなや。
※志田忠儀さん:西川町大井沢で国立公園管理人をしていた。マタギ。
―親父さんは小屋の管理はいつまでしていたんですか?
新しい大鳥小屋になった平成元年以降は大鳥の人だども、その前は親戚の人を2人連れてきてや。それで4~5年ずつしたから10年くらいか。その前までだな。親父は60歳くらいから行かなくなったんでねぇかな。
熊狩りも、俺記憶あっけども、俺と2人で一緒に行ってや、ゲンダンサワまで行ってや、帰りあまり疲れて小屋の手前で疲れてや、へど吐いたもんだっけ。あの次の年からいかねかったかなぁ。
現在のタキタロウ山荘建設時。昭和63年6月6日撮影。
平成元年撮影。この年から新しい大鳥小屋で管理が始まった。
今の大鳥池の小屋は朝日村(現 鶴岡市)が管理しているんだ。以東岳より上は全部県で。して、今の大鳥小屋ができたのが昭和64年で、平成元年から使ってる。新しい小屋はみなヘリで資材を上げて作ったんやな。その頃に今の水門も作ったんやな。
昭和63年の水門工事。新しい水門は古い水門より下流側に作られた。
ヘリから撮った大鳥池
大鳥池の姿は昔も今も、きっと変わっていない。けれど近現代に人々の生活を安定させていく過程には、いくつものドラマがあったし、まだまだありそうだ。しかしまた、大鳥の人たちは昔のことをよく覚えているもんだなぁと感心する。わかりやすさを考慮した編集を多少加えたが地域の会話は至極具体的であり、繰り返し言葉にしてきたからこそ今も話の潤いが保たれているんじゃないかと思うくらいだ。数多の登山者の相手をするその小屋番にもいろんなドラマがあったろう。史実と追いながらそのドラマにも耳を傾けてみたい、と思いながら雪国の寒夜で過ごしたあたたかな数時間だった。
参考文献
・水と土 No180 農業土木技術研究会 深山に水源を求めて-大鳥池制水門の歴史
・ラスト・マタギ 志田忠儀・96歳の生活と意見 KADOKAWA/角川書店