大鳥のこと

手仕事は、日々手を使うことから。~ワラジ、アシナカを編みながら~|三浦キヨセさん、工藤ゑ子さん、大滝ちとえさん

2019年2月下旬の約1週間、毎日のようにおなごたちが集まっては、藁の履物作りにいそしんでいた。

きっかけはこんな風だった。寿岡に住む三浦弘堯さんのお宅で、奥さんのキヨセさん、息子の一喜さんと珍しいお肉の鍋をつつかせて頂いていた夜、昔話を聞かせてもらった。「戦争がやっと終わってや、義務教育になり始めたころな。喰う飯なんてなくて、とにかく稼がねばねかったんや。だはけ何日も学校いってねぇんだ。(鉱山の)販売所さゴム靴売ってたども、金なくてな。親父が作ったワラジ履いて、炭背負いで一緒に山歩いたんだ。冬はジンベわらじにアクドコウを巻いて歩いた。冷たくて足が真っ赤になっけ。」ほかにも、平野の農村と同じように、大鳥の生活にも藁は必要不可欠だったことを教えてくれた。次いで、奥さんのキヨセさんはワラジやアシナカを作ったことがあるそうで、作っている様子をぜひ見せて頂きたいとお願いしたら、翌日には藁を探し、息子の一喜さんが叩いて柔らかくしてくれていた。

その翌日から、隣近所の工藤ゑ子さん、大滝ちとえさんが加わって、3人での藁の履物作りが始まった。3人は、週2回の食品の移動販売車に買いにくる3人組で、ほっかぶりをして、ヤッケを着、台車にテンゴを乗せて集まってくる。買い物が終わればその場でゆっくり腰を落ち着かせ、30分そこそこ話し込んで、家々に帰る。そうした過ごし方を周りの人からも「良いもんだなぁ。」と言われているそうだ。弘堯さんが「最高の三羽烏なんだぜ。」と言うと、ちとえさんは「三バカでねぇか?」と言って笑わせた。

まずは草鞋の縁となる縄を藁から作っていく。4~5本の藁束2組を両手で挟み、シュッシュッシュッとリズミカルに手のひらをすべらせながら、手の中でねじられ、“※一尋半(ひとひろはん)”の縄になっていく。手のひらの自由自在な動きがあまりにも見事で、だけども早く、その細やかな動きを目で追いきれないでいた。なわれた縄は布でこいて毛羽が取られ、一本の綺麗な縄となっていた。

その縄で輪っかを2つ作り、足の指にひっかけて、3~4本の藁を手に編み始める。上下交互に藁を通し、藁が短くなってきたら藁束を足して、隙間ができないよう編み目を詰めながら編んでいく。鼻緒や“ワラジの耳”が少し難しく、やってみて、失敗してやり直して。3人であぁでもない、こうでもないと言いながら自然と笑いがこみ上げたりして。じっくりと編まれたワラジとアシナカは、久しぶりに作ったとは思えないほど綺麗に仕上がっていた。それは、昔の経験を再現したと言うよりも、日々の手を使った暮らしが、自然とそうさせたようだった。

「次はジンベも作ってみっちゃ。フカグツも作ってみっちゃ。『こうやってる作るんだ。』っていうのを残しておけば良いんだはけに。」と励ます弘堯さんに答えるように、次の日も、また次の日も集まって。いつの間にやら集落のおなご衆みんなが集まり、賑やかな “藁編みサークル”になっていた。「前はな、藁ぶち石ってあるんだっけ。その石の上で藁ぶったんだ。朝仕事にな。昼間は稼ぐんだし。」大滝ちとえさんが、自身の経験を話してくれた。「アシナカ履いて学校いったり、ワラジ履いてぜんまい採りいったりした。ワラジだと滑らねぇんだな。だども、ゴム靴が買えるようになってからはあと、作らねぇんだ。だって、干さなくていいんだし。草鞋は1日も履くと切れたり穴あくんだ。昔のことを思うと、今だば楽だっちゃな。こうしていられるもの。」そうは言うものの、ちとえさんの言葉は不思議と『楽が良い』という風には聞こえなかった。ただ、藁を編まなくなっただけで、代わりに畑や保存食作りなどで手を動かす機会を自ら増やしていったのだろう。なぜなら、僕が見た大鳥の人たちは、本当によく動いているから。

古きものが消え、新しきものに置き換わって久しい今でも、自分たちの手で作ったモノたちは、自然と家の中に残っている。3人は微かな記憶の痕跡を辿りながら、それを紡いでみてくれたのだった。

※アシナカ : 鼻緒のついた小さな草履。
※アクドコウ : かかと当てのこと。布で覆う。
※ジンベワラジ : ワラジに藁の突っ掛けを付けたような履物。
※フカグツ : 藁で作った長靴。
※縄ない : 藁などで縄を作ること。
※一尋半(ひとひろはん): 両手で広げた長さ+その半分の長さ。

※草鞋の耳 : 縁の部分にある、縄を通す穴

取材日:2020年2月21・29日

文・写真:田口比呂貴