大鳥のこと

『蟻能巣 尾浦橋一見之記 ー寛政2年(1790年)』現代語訳版

この古文書は江戸時代に名勝であったとされる尾浦橋を一目見に行こうと鶴岡城下から歩き、道中に見聞きした村々の様子を書き記している。安倍親任の『筆濃余理(1866年)』によると、尾浦橋は慶長年間に上杉氏の重臣直江兼続が朝日軍道を切り開いた時に作られ、それ以前は綱渡り・筏にて通行していたそうだ。別の文書でも尾浦橋の近くにある杉の巨木は橋の架け替えのために伐ってはいけないとか、橋を架け替えた記録など、尾浦橋については記録が比較的多い。大鳥紀行にも尾浦橋の絵が描かれていたが、渡るに恐ろしいほどの険しい岸壁の上に橋がかけてある。現在も鉄筋コンクリートに姿を変えて残る尾浦橋から水面を見下ろすと当時の人たちが感じた様子がなんとなく想像できるだろう。
文中は主に村の家数、石高、寺などと共に、名所や歴史にも触れられているがこの著者は純粋に旅を楽しんでいるように感じられた。尾浦橋から魚を眺めたり、遠回りして上名川や三栗屋の橋に立ち寄ってみたり、宿で焼き鱒などを食したり。自身の感じたことも含めて旅の記録を書き残しておくことは現代人がスマホで写真を撮ってテキストを添えてSNSにアップする行為と重なるようでどこか面白い。

※この古文書は鶴岡市郷土資料館に所蔵されている『蟻能巣』の原本を元に、歴史ロマン愛好会の佐々木勝夫先生に読み下しをして頂き、僕が現代語訳をした。
※文末の赤字は翻訳がうまくできなかったところ。
※原文コピーのPDFはこちら 前半 / 後半
※佐々木先生の読み下し文PDFはこちら

蟻能巣 尾浦橋一見之記

尾浦橋は慶長九年(1604年)、上杉家の家臣、越前守本庄繁長によって尾浦城が攻められた後、会津から山林をまっすぐ切り開き、下田沢村の難所に差し懸かった際にすぐに大木などを切り倒して作られた橋である。峻嶮な岩の上、水底は百尺(≒30m)もあり、気を失ってしまいそうなところで豪傑な熊でさえも後ずさりするだろう。観光地とはかけ離れている場所である。

尾浦橋までの道のりは、鶴ヶ岡城下七軒丁口より出て約八丁(≒872m)で茶屋・海老島がある。家数は10軒ほど。どこも商店があり賑わっている。それより約一丁(≒109m)で道が二手に分かれる。西の方へ五~六丁(≒545~654m)行くと下外内島村で、家数20軒ほどの小さな村である。石高202石4斗2升4合9勺で、禅宗の常福寺がある。村を出てすぐ東に戸隠大明神の霊社がある。西の方には大切にされている藤の古木があり、花盛りの頃は絶景である。それより約一里(≒4㎞)で上山添村に入る。ここは駅場で、城下からは一里半(≒6㎞)のところにある。家数は48軒、石高875石4斗3升4合3勺で、禅宗の高見寺がある。村は裕福に見え、家並みも揃い、商店、茶屋もあって賑わっている。そこから二十丁(≒2.1㎞)余行くと西荒屋村・分河原村がある。家数12軒、家の作りは揃っていない。土地の高低もバラバラで、それぞれ離れている。ここらから徐々に片田舎になってくる。一歩進むごとに素晴らしいのは、小沢が流れ、歩き石に当たり、カキツバタが優美である。この村の蝋燭屋の先に梅の古木がある。睦月頃には雪ように白く咲く白梅として有名な珍木である。

この辺りから内川の上流を左に見て進んでいく。川原村から半里(2㎞)ほどで片茎村という家数40軒ほどの村がある。石高は263石1斗2升9合3勺。ここは漆林が多い。そこから三~四丁(≒327~436m)行った雑木林の中に水無川という石がゴロゴロした川がある。母狩山と湯ノ沢岳の沢合から流れてきて、豪雨の際は水勢が強く、洪水を防ぐのが難しい場所と言う。そこから間も無くして熊出村がある。城下から三里(≒12㎞)、石高606石7斗1升9合で、家数は10軒ほどである。家並は揃わず、村の入口から外れまで一里(≒4㎞)程もあるという。瑞龍院という禅寺がある。

・この村の東の川端の雑木林の中に江口と言う大きな水門がある。幅は四間二尺(≒8m)と強固で、右八間半(≒15.3m)、左六間半(≒11.7m)となっていて、八尺(≒2.4m)ほどの丸太を立てて貫通させ、丸太の大梁を掛けている。水口平から少し上に、めた木と言って八尺(≒2.4m)の木が横に三本打ち渡してある。これもまた、周囲八尺(≒2.4m)程の大木である。洪水の際には、この三本のめた木が水を止めて、洞の中に水が入らないような仕掛けになっている。素晴らしい工夫がなされた水門と言い伝えられている。水門守は二人いて、一人は1石7斗5升6合が毎年免除され、もう一人は水門下流の村々から割合をもって給分を貰っている。

・江口から三丁(≒327m)ほど上流に大築地というところがある。去る、午年七月三日の洪水によって八間(≒15m)の土手が切れてしまった。70年来の大洪水によって御家中屋敷にも床上四尺(≒2m)余りも浸水したほどで、その秋から翌未(ひつじ)年まで八組の延べ十万人余りが普請をした。近年にない大普請となったそうだ。出来上がった土手は幅十間(≒18m)ほどで、馬踏は四間(≒7.2m)。水表を打ち廻り、十間(≒18m)強のかけ出しが一ヶ所、角出しが二ヶ所ある。その辺の景色はとても綺麗である。

・熊出村の外れに落合というところがあり、家数は50軒。川端にあり、熊出村の分村である。ここは大鳥川と八久和川が落ち合う場所である。右手の山の中腹から石を夥しく切り出してあるのは熊出石の産地だからである。大きな川の端に来ると、あちこち奇石、麗石があって驚かされる。庭石になりそうな石も見つけたが、大きい石といっても広い場所なので小さく見えた。ここには茶屋惣左衛門という綺麗な家がある。
落合から右に曲がると本郷村に着く。本名は櫛引通というところである。石高440石7斗8升8合と聞き、家数は70軒以上。八カ村に分かれ、大庄屋は昔から少し西寄りに家が建てられていて、当時は井上万吉が住んでいた。安養寺と言う禅寺もある。村外れの山側に神社と共に建ち、そこはとても広く、樹木も生い茂っている。

河内大明神の本社は山にかかり、拝殿は二間(3.6m)離れてある。切り石段、鳥居がある。一丁(108m)程離れた所にある高殿はとても古い鳥居で、額上に『河内大明神 新田末裔源義純謹書□□』とある。この神社の前には大鳥川の急流があり、数丈の崖がある。ここを和田渕と言い、大明神の御手洗とされている。秋の雨水もこの渕を避けるそうだ。社地の手前、左に清水がある。また、本社の前の拝殿の後ろにも清水がある。

・本郷村と砂川村の間には芋古川というところがあり、板橋が掛かっている。砂川に差し掛かる所に四寸の道と言われる場所がある。近くには茶屋があり、崖は深く、小岩がある。四寸の道はその脇を通る道なので、気を付けていないと通り過ぎてしまう所である。行き交う人に四寸の道を尋ねてもわからず、興味深い所である。砂川村は裕福なところである。家数70軒、石高163石6升1合で、宝勝庵と言う禅寺がある。村より先に一軒、離れ茶屋があり、ここの庭には珍しい菊菜がある。赤い大和さんけと、白い京さんけと言う。それより先、戸田川という小さな川がある。そこから間もなくして大針村が西山に沿って開けている。石高103石4斗6升4合2勺で、禅寺がある。林初流という川渡し場がある。それより四~五丁(≒436~545m)先に猿子渡の場所がある。それより先は川上村である。石高176石3斗1升6合、大針は両村を合わせて家数70軒ある。入合の村立ちである。慈雲院という禅寺がある。

川上村と下田沢村の間に尾浦橋がある。橋の架け場は二ヶ所ある。以前に見た時は、今より百間(≒180m)ほど下流にあった。その時の橋は幅九尺(≒2.7m)、長さ十八間(≒32.4m)、高さは水際まで十二尋(≒21.6m)、水際から水底まで十尋(≒18m)あった。現在の橋は文化11戌年 (1814年)に作られ、巾九尺(≒2.7m)、長さ二十四間(≒43.2m)ほどである。ただしこれは、橋のたもとからの距離である。橋のたもとの高さは一尺五寸、水の深さは四間四尺(≒8.4m)。これは平水時より水が少ない時である。さて、橋の架け方については柱が立っていない。大木を渡し、その上に更に渡し、更に渡して右の大木を板金止めしている。その上に橋を置き、これをまた板金止めをしている。大変珍しい工事をしたのである。板金の大きさは一尺(≒30㎝)くらいである。
尾浦橋は言わずとも有名であり、とても見事である。そしてこの辺の川の様子には驚かされる。鱒や石持等がとても多い。橋を見ていたらあっという間に時間が過ぎ、下田沢村の肝煎、佐太郎という者の旅宿に宿泊した。家の造りもよく、何一つ不自由なかった。文政十一年(1828年)五月七日のことだった。夕食には菜汁に鱒焼が付いていた。翌朝は味噌汁と、平皿にニラフキが2つ3つ、竹の子が5本ほど付いていて、辺地ではあるが塩梅が良かった。銭一貫文を宿賃として支払った。

翌日は砂川まで戻り、砂川の渡場から科沢へ行き、山を越えた。山は高くなく、半里(≒2㎞)あまりだった。木立などが美しい道筋である。砂川から一里(≒4㎞)ほどにして下名川がある。北村を下りると三栗谷の橋がある。川幅は十四~十五間(≒25.2~27m)もあり、橋の上流も下流も共に深渕で、恐ろしい景観である。川端には岩石がそびえ立ち、祠にも行けない。橋の長さは十六間二尺(≒29.4m)で、二段に掛け渡し、盤石の上に弁慶倉があり、五間一尺(≒9.3m)と十一間一尺(≒20.1m)で、倉の上が中間地点である。周囲八尺(2.4m)ほどの柱を二本掛け渡してある。中間近くになると橋は揺れ、下は深渕、水際まで一丈六尺(≒5.1m)、橋幅は三尺(≒90㎝)に満たない。恐ろしい景色である。橋を渡るのに十二時間も掛かったようだ。この辺を見物した跡に熊出村に出て、来た道を戻って鶴岡へ帰った。近郷の古跡を以下に記しておいた。

・熊出村の西、二丁(≒218m)ほど山合いに“鞍り滝”という滝がある。幅六尺(1.8m)ほど、十三段に水が落ちる。岩の間の空洞に水が落ち、鞍の音がする。この滝の近くに熊野権現の社があり、滝ノ沢村への行く道沿いにある。

・白糸の滝は滝沢村の西、湯ノ沢岳不動尊の地中にある。惣助の糸を乱しているかのようだ。高さは三間(≒4m)余りある。それより左に湯が出るところもある。一段高い所に不動尊、外に小さな祠が3つある。

・東大鳥村肝煎半三郎という者は、工藤左衛門祐常の末裔で、古い書物などもある。

・椈平村は薩摩守忠度の書物が持ち伝えられている。この村には工藤・三浦を名乗る者が多いと言う。

・大鳥池は、東大鳥村より巳午(南南東)の間にある池である。池の広狭は、天和元酉年(1681年)の早春の頃に測量し、東西十九丁五十間(≒2.1㎞)、南北二十四丁三十間(≒2.6㎞)とした。ただし翌戌年二月に御国目付保科主税様、阿部八之丞様の命で改められたのである。

・二階巣村の間には高くそびえた岩山がある。河内大明神がいる古跡という。時々天燈が降りてくる。この辺りはジャコウ草がある。ウルイのようである。これら3つの村は大鳥村の枝郷である。

・大平村は川上村の東にある。山の中にある辺地で、人が住めるような所ではないと思われ、老人もヨソの村の者も知らないところであるそうだ。家数は22軒、下田沢村より山道を二十丁二十四間(≒2.2㎞)行く。その村から城下の方角を見ると鳥海山が見えて絶景である。
この村は多郎右衛門が持っていた古記弓法の書物や蟇目の法などもある。その他、免許状を口伝、伝文で写したものが多い。星図もある。書画はそれぞれ紙の半切で、状態が良くない。継ぎ目がバラバラになっている。他にも一通、古い紙で筆跡も強く、あちこち穴が開いている。中にはしっかりとした物もある。「小笠原美洪入道 巣 後守光勝』他に持ち伝えた鞍もあるが、残っているのは綱だけである。右の物は年号等もわかるので一度見てみたいものである。なお、詳しく見たほうが良い物もある。追って承合し、書き記しておくべきことだ。田村堂と言うのは村中にある。道の良い社である。
阿部貞任の木像は、下田沢村から来た道の左手にある社に安置されている。村から二~三丁(218~327m)のところにある。昔阿部貞任が住んでいたところと言われている。なお、これは田村堂の社地である由縁である。
六郎右衛門という者が田村将軍の持っていた弓や箙、その他短刀等を持っている。この村は寒気が強く、養蚕はできないところである。

・小繋村は石高239石1斗9升8合5勺で、家数30軒、安養寺と言う禅宗がある。川上村へは渡場がある。それより二丁程上に綱渡りがある。洪水で舟渡りが出来ない時に綱渡りをするのである。

・行沢村は石高101石3斗9升8合9勺で、山へ半里(2㎞)行けば上名川村に繋がる。

・三栗谷は橋から半里(2㎞)上流に行くと、大網村への綱渡りが二ヶ所ある。但し、打ち渡してあるだけで、縄は十九尋(≒2m)である。綱の下の水際まで三十尋(≒54m)位で、水底十六尋(≒28.8m)位である。

・家数12軒 越中山の小名   三栗谷村
・家数3軒  山中に段家が住んでいる。
・      越中山の小名    莇平村
・家数7軒  越中山の小名    立岩村
・      越中山の小名    谷口村
ただしこの村に藤次郎(大舘藤兵衛のことか?)と言い、近郷中では大きな百姓がいる。

・家数60軒           東岩本村
この村に本明寺という行者寺がある。昔いた本明海という行者は、元は御徒(下級武士)で富樫何某と言う者だった。若い時から行人になることを心がけており、湯殿山に参詣した際に、誤って転び、御垢を口に入れた。右口に入れた者は山の法に従って麓に下ることが出来なくなるために、家は断絶してしまった。その時代の御触れはそうだったのだ。帯刀の者は湯殿山参詣を禁じられ、富樫氏は本明働となった。優れた行法を行い、多くの人は拠り所とした。
ある時、御前様がご懐胎された。その時に、男子が生まれることを祈っていたけれど、何とも女子が生まれそうな占いがでた。本明海は笠小屋に山籠りし、男子が生まれることを祈られた。結果、男の子がお生まれになり、このことがキッカケで御徒の後の身分が確立し、今に続いている。本明海は入定して7年目に掘り出された。入定から文政八酉年(1825年)まで145年間が経ち、鼻などはよっぽど痛んで見える。酒田海向寺の即身仏は本明海の実の叔父である。またとないご縁があって行者を遂げた事である

・黒川村の宮を四所宮と言う。一説には新山権現という寺社略儀が四所大明神である由縁だという。

右の通り、書き増して終わる。

※本庄繁長が庄内へ侵攻したのは関ケ原の合戦以前のことで、年号に誤りがあると思われる。また、会津から山林をまっすぐ切り開き…は朝日軍道のことだと思われる。
※石持:イシモチ カワアナゴのことか?