大鳥のこと

【大鳥 山の人生】三浦義久さん

学校は大鳥小学校さ行ってた。前は自然の家の道路向かいさ建ってたんだや。グラウンドはその脇。狭くてな。中学校は今の体育館のとこさ小さく建てたんだっけ。俺の場合は中学校2年まで入った。入んねぇ人もいたどもな。俺が小学校1年生の時に大泉鉱山が操業してな、部落の人は鉱山の人たちとも仲良くやってたみたいだっけ。まだ戦時中だはけな、朝鮮飯場ってあって朝鮮人が何人も来たんだ。枡形にも寿岡にもいて。子供もいた。でも子供は学校さ入らねぇんだっけ。終戦になったら帰ったどもな。

子供の頃は山さ入ったり木さ上がったりして遊んでたや。まるっきり山遊び。山菜も採ってな。同級生が一杯いるんだからな。松ヶ崎の同級生がヘビ獲ったんだっけ。一匹はマムシだし、一匹は青大将。俺が「どっちいい?」って言ったら、「マムシがいい」ってマムシを貰ったんだっけ。マムシはその頃も金になったわけやな。この辺の人でも誰でも買ってくれたんだ。昔から薬なるって言ったんだからな。マムシを粉にして飲むと本当に体に良いわけや。マムシはな、ワラビが生えているようなところにいるんだや。だからワラビ採り行くとよくいるんだ。マムシの色はワラビの色みたいで危険だはけ、気を付けて。黙ってワラビ持つとポンッと来るからな。杖棒もって歩いてや。
ワラビはまず自然に山にあったんだやな、昔は。どうしてかっていうと、ナギノって言うども、焼き畑したんだや。して、豆でも小豆でも撒いたわけだ。その畑を辞めた後、ワラビが一杯出るんだや。それが良いワラビなんだなぁ。あと、昔は杉植えるわけだ。子供の頃から杉植えてたんだからな。杉が6尺くらいに育つまでは下草なぐんだやな。そこさも良いワラビが出るんだやな。採りたてなんねぇくらい。今はほれ、田んぼとか荒らしたところさ植えてるな。田んぼだって昔は今と違って悪かったわけやな。そんなに収量が取れなかったわけや。まずそういう生活をしてきたな。

ぜんまい採りは…、んだなぁ。小学6年生頃から爺さんに連れて行かれた。学校休んで奥山さ。林道もなかった頃だ。それこそ山越えて。春、道がねぇとこ。俺ばっかりじゃねぇ。寿岡の人たちもゼンマイ小屋あるわけやな。山を分けてるから人の山さは入らねぇようにしてな。採鉱さ行くと山がずっと見えるな。あそこがゼンマイの出る山。北向きの山な。南向きの場合は山はない。ウドとかはあるけども。その頃は80貫とか100貫とか採ったんだっけな。ゼンマイ小屋の前には広い干場があって、乾燥させて。それを持ってきて売るわけだ。農協でよく集めたんだな。ぜんまいは一番値段が高くて収入になるわけだ。

そして、学校上がってからは炭焼き。夏と冬は炭焼いてるわけや。ゼンマイ採る時だけは窯休めて。大鳥はみんな、一軒一軒窯造って炭焼きしたんだもの。冬に桧原峰三俵背負って上がるのも楽でねぇぞ。だはけ重労働だ。空身だばなんぼでも歩けるけど。後になると共同のほうが良いってことで共同製炭になって。営林署からも国有林払い下げてたわけだ。だから、みなで一括で払い下げて、10人共同で窯を作って炭焼きやってきたわけだ。始める前に営林署の担当区が来たんだっけ。その人が新潟の妙高高原さ連れてって、そこで共同製炭の視察に行ったわけや。ほんとであれだっけ、おらほではそんなこと考えるもしねぇけども、ワイヤー張って、木でもなんでも索道で運んでや。でも、あそこは山が良いところなんだからな。なだらかで索道張るには良いわけや。おらほの山みたいに険しくねぇ。だども、昭和40年頃には炭焼きは終わった。営林署で用材にするためにドンドン切ったんだはけな。伐り過ぎたから、なかなか伐る木がねぇわけやな。

炭焼きが終わって“出稼ぎが良い”ってなって東北の人たちは東京方面さ冬に出稼ぎ行ったわけやな。俺は平成元年まで行った。最初は神奈川の綾瀬さ会社あるんだっけ。それから今度は大型ダンプで首都高速を走ったり。横浜の磯子区とか行って仕事したもんだ。その会社辞めてからは静岡さ行ったんだ。浜松の近く。その時は8人の人夫を連れてな。セグメントって言う、コンクリで地下鉄だかしみな、まるっこくやる。それを造ってた。12枚を組んで、押していくあんだ。これが、海の底までみな、地下鉄でもやってるんだろうや。失業保険貰えるようになるまで春まで稼いで。でも、最後は俺の爺さんも婆さんも年いって、「出稼ぎ行かねぇでくれ。」って言われてな。家の仕事もしねばねぇんだし、田んぼもあるんだし。出稼ぎ辞めたんだ。「あとのしょ行ってこい」って言ったら、あとのしょも「あと行かねぇ」ってなって辞めてしまった。

まだ出稼ぎで千葉さ行ってた頃の話だども。「鉱山も人が足りなくて容易でねぇから来てもらいてぇ。」って。出稼ぎ先まで話しに来てな。「ここまで来て入ってくれっていうあんだば入んねばねぇ。」って入ったわけや。5年間、枡形の坑内さ手用夫で入ったわけだ。そうすれば、厚生年金かけて貰えるんだし。俺は削岩夫やったども、「削岩でもまず、一番やれるな。」って言われて。上とか横とかで、横押しだって坑道を切るのも上手い下手があるわけや。俺の師匠は坑内で一番腕が良いわけや。その人に聞いたから何でも案じるように起こされるっけ。上手でねぇ人は坑道だって上の方までガバリ起こすろ。そうすると運搬夫が大変だわけや。それを積んで出さねばねぇんだ。パチッとおこせねぇとな。
下は2番坑、上は13番坑まであってな。それが30ⅿでハシゴ掛かってるから時間も掛かる訳やな。そして、トロッコがあって坑道を横に押していくわけだ。坑道の中は真っ暗いところでや、ランプ一つで何でも一人でやらねばねぇんだ。掘ってると鉱石が見える見える。銅が一番。あと鉛。それこそ鉛色で。シンセイヒだと亜鉛と鉛。“新しい”って書く。“ダイドウヒ”は銅坑。銅の鉱脈あって、この沢には鉛とか亜鉛が凄いだとか。たがくに容易でねぇほど重たいのがデロデロと出るんだっけ。それをスラッシャーって機械のワイヤーで鉱石を引っ張って寄せてトロッコさ積んで。坑内を歩いてこようとすっと大変だろ。電車でこねぇと。なんだから、坑内には保線夫とか機械屋とかがいるんだもの。あと、坑内で坑道を切っていくときは人の手でや。太いスコップでな。重労働だわけや。若い時しかできねぇ。それは運搬夫だどもな。やっぱり、坑内では削岩夫は一番上だわけや。んだじゅんだ。鉱石を取るのが一番なんだからな。
鉱山さ稼ぎに来てた人は、そうやって一年中稼ぐわけだ。秋田の発盛とか立又とか、あと北海道は鴻之舞から来たんだやな。その人たちは坑内で仕事終われば休んで家さいるわけや。そういう人が珪肺かかってな。俺たちは暇なく中で仕事すれば外でも仕事したわけ。雪道の送り迎えとか、雪堀したり。だはけ珪肺かからなくて。楽して酒飲みしてる人は珪肺かかって亡くなったな。鉱山は昭和54年に終わったども、2年くらい後始末の仕事もしたな。

うちは代々熊獲りなんだ。孫爺さんはマエカタで、父親は熊撃ちの待ち手でな。だはけ、おらいさは前には鉄砲が何丁もあるんだっけな。最初はスズメだかし獲った。村田銃よりは良い銃だったな。昔はウサギ輪っかも投げたことあったな。孫爺さんが教えるんだっけ。俺が二十歳頃までだろうな。大体直径30センチくらいか。柄が尻尾みたいについているわけや。それを兎寝てたら足跡でわかるだろ。近くまで行かないで、ワッカを投げるわけや。3~5本くらい持っていってるからや、それをいくつか投げる。そしたら兎が穴に入るわけや。木があれば、穴を掘って、寝てるわけだ。一回やっただけだと、ぴょこっと出はってくっけど、出はってきた時また投げてやっとや、タカだと勘違いして入るわけやな。三つくらい投げれば入るな。そしたらケエシキで掘って、(兎を)手掴みでとるなや。ケエシキってのはスコップみたいなんで、大きいので幅30センチはある。スコップより一杯すくえるだや。おいら子供のころは食糧もねえ時なんだからや、ウサギのモモ肉だがしみな捕って、それを醤油漬けしておくもんだっけ。そうして食わせられたんだ。なんでも買われないわけや、戦時中は。飯だって、ご飯さ大根の葉っぱ入れたりして。大根の葉っぱはいいもんだっけ。大根はあんまり飯しても飯がビシャビシャとなってな。

40歳くらいから俺も熊獲りさ語るようになってな。その頃は13人くらいいた。俺はマエカタをやってたんだ。だはけ、やたらと山では座られねぇんだや。昔は無線がねぇんだもん。座れば、マエカタのほうで合図したことを”わかった”ということになるから、やたらに座られないんだや。それと、笠でもミノでも使って、それで合図するわけや。熊が動いた方向と同じ方向に笠やミノを引っ張っていく。ミノを手にもって雪の斜面の下に降りていけば、熊が下に降りたという合図。肩越しにミノ・カサを振ったら、熊が峰を越えたって合図。そうなれば次の日に探して。熊とおんなじ動作をマエカタはするんだ。だから、マエカタは滅多には鉄砲ぶたれねぇんだ。ぶとうとすると熊逃がすんだし。上手く、巻きさ上げてやるようでねぇば熊獲られねぇわけや。だはけマエカタは山覚えねぇばダメなんだ。

俺がマエカタしてた時な、太いナラの穴の口に熊いたんだっけ。寝てたわけや。熊見つけたし、一人をナラの木の下さ回してみたら、クマが見えなくなったわけや。「必ずそのナラの木さいたはけって、見ろ。」って言って見てたわけや。なにかで穴あけて、木でつついたわけや。そしたら出はってきて、ぶたせて。すぐ傍が川だったども、落ちなくて良かったっけ。これが100万もする胆のうだったんだや。遠いとこまで行ってたんだはけ、この時は帰りが夜10時にもなったっけな。山で野宿もしたことあってな。あの時はナイロンをぐるっと巻いて、中で火をたいて。そしたら寒くないんだもの。中で火をたけば中の熱が逃げないんだ。二晩ゲだっけかなぁ…。テント(天幕)は持って行ったことなかったな。懐中電灯はみんな持ってたな。なっても明るいうちに熊が獲れるってことはねえんだもの。おいら一番いがこいだ時は、帰ったのが夜。シシグラの向こうさ行って巻いたとき。あの時の熊は一頭だっけかな…。

俺ら炭焼きを共同でやってた頃にはや、舞茸採りの時に俺、木の穴口を見つけてたんだ。穴口をかじった跡あっけもの。そして、2月の天気の良い日だったな。松ヶ崎の親方がおれの炭焼き窯さ来たんだっけ。俺が獲ったウサギをゆずってくれって言うはけ、「やるやる。」って。そしたら、「熊の穴見さ行こ。」って言うはけ、4~5人で行ったんだ。熊穴の近くで昼間なったんだはけ握り飯食っててや、おら懐中電灯持って穴覗いて見たばや。黒い熊がデカンっと見えるもんだっけ。「あ!いたいた!」って俺言ったばや。一人がいてもたってもいられなくて、握り飯を投げるもんだっけし。穴の下の方の雪をスコップで掘って出して、柴を取って、穴の入り口に1~2本仕留め木を立てて。熊というのは、木を立てておけば必ず引っ張るんだ。でも、何もねぇばドッと出はってくるわけや。そうすると危険だろ。だから立てておけば、それを引き込もうとして鼻出した時にバンっと撃てばいいんだや。ほんでねぇと、危なくて。下の穴の出口で親方が構えて。木の上の穴から枝でつついたわけや。そしたらそっから出はってきて獲って。みんな大喜びや。

三浦義久さん:昭和8年4月3日生まれ 聞き取り日:2023年9月23日
文責:田口比呂貴