大鳥のこと

【大鳥 山の人生】大滝清策さん

俺は次男だども、親父から「わねだどっちかの内、家さ残ってくれ!」って言われて3日間酒飲みして。兄貴は「彼女いるから彼女と一緒になる。わね残ってくれ。俺は絶対大鳥さいねぇ。」って言うっけもの。若い時にそういう話で。その時は兄貴はまだ山形大学さ入ったとこで、学校の先生になるって言ってなかったんや。でも、俺だってここ出たくて東京さ一回出たわけや。でも、誰かが残らねばねくて。だから俺が帰って来たんだ。兄貴と約束して、約束は約束だから。

俺の爺さんは、『俺は鶴岡さ行く。』って。そんなこと言っちゃわりぃども鶴岡さ家建てて妾つくったんだや。バンバは大鳥さ一人でいて。自分は漁業組合の組合長になって金いっぱい貰って、別のおなごの家建てたんだや。すさまじいんだや。親父は郵便局一本で。農業は全くしねぇ。どこさ田んぼあるかわからなかったや。大鳥さ郵便局が建ったから、あっちこっち旅行招待されて。ナメコを一回背負うと6万円になった時代、親父は郵便局の保険とかで給料50万も貰ってた時もあったんねぇか。バイクも一番早くでっけぇやつ買って、車はローレルを2年に1回買い替えて、家は5軒建てたんだ。鶴岡にも郵便局建てて。そんな親父だもんだから田んぼはお袋がしてたんだ。お袋は隣の家から来た人でな。稲刈りとか田植えも何人かの“めらし”に頼んで。昔は“めらし”って言ってな。泊りがけして働いていたな。奉公みたいな感じか。一年間ずっとなんだ。雪掘ったり田んぼしたり草刈ったり。俺たちと一緒メシ食いしてや。あと、俺ら兄弟4人も手伝って。だから俺らの時代は“百姓休み”ってのがあって、田んぼ手伝えってのがあったんだもの。川向うの小太郎淵ってところさ田があるけども、あそこから稲を背負って来たんだ。家の上の蔵まで背負ってきて、冬にそこで脱穀したんだ。

子供の頃はとにかく食べるものねぇろ。おらいで豚飼ってて学校の残り物持ってきて食わせたりしてたんだ。ヤギも食べるために飼ってな。ちっちぇぇの買ってきてや。7,000円くらいだっけかな。乳は絞ったことはねぇ。春に農協かなにかを通して買ってきて、秋に食うんだ。屠殺は奥の家の人さ頼んでな。とにかくここは街から離れているんだから、自給してあるもので食べたんだ。

その頃は年に一回、鉱山があった枡形分校でソフトボール大会してたんだ。こっから枡形まで歩いて行ってや。3時間もかかって。ジープがやっと歩くくらいの道路でな。7月15日は寿岡で鉱山の祭りがあって、花火をバカバカ上げて。焼き鳥屋があったり、映画館あったり凄かったんだ。鉱山と行ったり来たりで交流したんだ。おらいでは郵便局で貯金とかしてたろ。年に二回か三回、鉱山の人みな集めて酒飲みさせたんだ。みな集めて仲良くやったや。

高校は山添学校に行った。鶴岡の親戚の家に下宿してたんだども、そこから山添高校は遠くて通われねぇわけや。して、山添から鶴岡南校の定時制に移って、昼間は働いたんだ。山王町のカメラ屋とレコード屋。弟は鶴岡南校に入って、弟の昼間履いたズックを夜に俺履いて。帰ってきたら2人して風呂さ行って俺は寝るけども、弟は夜中3時頃に起きて勉強するんだっけ。これが新潟と中央大学と受けて…。後でアキレスに入って世界中歩いたろ。

でも、俺は大学行こうとは思わなかったんや。俺は兄弟の4人の中では頭良くねぇって考えで。俺が中学三年の時は成績は悪くなかったども、勉強しなくて毎日川さ行ってたんだ。魚獲り。昔は川の色が変わるくらい魚がいたんだ。毎日学校から帰るとすぐ川。川が好きだったんだやな。魚突きも負けたことねぇ。10人で魚釣りしても誰もかからないのに俺ばっかりかかるっけ。とにかくカジカからウグイ、イワナまで。凄いんだ。投網もかけてな。3つダップラ(※深いたまり)があって、そこから獲ってた。上から下までみな魚で。昔はどの家にも堀あって、クキとかイワナをみなそこさ放したんだ。

夜突きはや、長靴でなく地下足袋で。長靴なんかでは歩けないんだもの。カンテラとガラス箱、ヤス、テンゴをたがえて。ガラス箱の先にカンテラつけてセットするようになってるなや。イワナは7月15日から8月15日までが一番旨いんだ。その時が一番、脂がかかってるんだ。だはけ盆頃に3~4人で川行ってイワナを一晩突くと30匹も40匹も。テンゴいっぱいに採れるんだ。3時間も4時間もやるんだもの。夜は魚動かねぇわけや。それをみんなさ食べさせたんだもの。盆の料理。盆魚でな。あとドンジョ獲ったり。ウグイは11月から1月な。魚の種類で違うんだや。ウサギも熊も時期があるろ。そういうもんだ。自然の物は臭いが凄いんだ。自然の魚とかは臭いが付くときと付かないときがあるわけやな。

釣りもやったしな。大鳥湖で一晩に800匹釣ってきて、山形建設さやったことある。3人だか連れて行って。草わらさ行って、黒くてバチャバチャって…。秋になると一尺くらいなのが10匹くらい獲れるんだもの。餌はミミズ使って。ハチノコも使うども、ほとんどミミズだな。肥塚にいっぱいいたんだ。草置いたり、残飯棄てたり。そこをほじくってミミズ獲り。でも俺はな、獲るのが好き。食べるのは海の魚のほうが旨い。

荒沢ダムができて川はいがまったども、魚は20年くらいは繁殖すんだや。ダムが古くなると魚がいなくなるんだや。川をいがめて、新しい水で魚が繁殖して。古くなるといなくなる。鯉もトンネルの先のダムっぱたで釣ったことがある。今はいねぇ。そういうもんなんだ。ダムができると10~20年はいる。鱒はダムができる前は大鳥まで登ったらしいんだ。だども水がねぇと、これは言わねぇけども。ダムと水力発電所ができて川の水がなくなるとその村は終わりだって法則あるんだ。大鳥は今も水が流れてるどもな、川の水は何倍もあったんだ。今みたいな川は一つもねぇわけや。水は川がいっぱいになるくらい流れてるんだっけ。だから魚が繁殖したしや。

 

高校卒業後してからは俺は百姓して、ブル頼んで田んぼ大きくしてや。冬はほとんど出稼ぎだったな。あの頃は「大鳥から何人連れて行かねばねぇ。」って東京とか神奈川とか大阪から会社が来るわけや。大鳥はグループでバス借りてみんなで行ったや。大阪さ行った時のアパート暮らしは線路の脇で最初は眠られねぇけどもな。有名な橋あるところも行ったな。万博館にも行った。あと夜は呑み歩いたり。東京の時は富士五湖に行ったな。

嫁貰ったのが27歳で、その頃には出稼ぎ辞めたんだ。「冬に都会行っても遊んで金残らねぇし。お前東京さいてはダメだから鉱山さ行け。」って言われて。鉱山さ2年間行って免許取ったりして。そのうち「雪上車乗ってくれ。」ってなって、それもやったし。その後は山形建設が西大鳥のスーパー林道の工事やってて、そこでも仕事した。山建から「山形にも来い。」って言われたけども「行かねぇ。」って言って。最終的にスクールバスの応募があって、69歳までやったかな。あと、昭和53年に鉱山閉山する前に、国の補助もあって3,600万かけて、昭和52年に大鳥にキノコ工場を建てたんだ。5人くらい使ってシメジ栽培やって、東京出荷もやった。当時は国の補助で、朝日村でも放牧場とか山菜のウドとか、大鳥はシメジとか、10種類くらいあったかな。そういうのが全部一つの国の事業で、出稼ぎ対策でやったわけやな。

 

松ヶ崎の年中行事は春の七草やったし、サナブリも餅ついて。鶴岡からも兄弟みな来るわけや。田の神上げだ、ってなると子供連れてみな集まって。正月のノサカケは個人で今もやってるな。うちは稲荷様の脇の杉の中瀬さ掛けてるども、ほとんどの人は八幡様の神社の杉の木さ掛けてたな。八幡様の神事は部落でやる。あれはの。ごっつぉとか持ってきて神社で食べて飲んでを一晩やるんだ。夜籠りって言ってや。前はあそこさ同じくらいの大きさの社がもう一つあったんだ。八幡様と不動明王。それを今は一つにした。昔は12月14日って決まってて、アイスクリーム売ったり店屋も出してサツマイモ煮たり、大根煮したり、ジャガイモ煮たり。白餅も搗いてや。みんな持ち寄って神社で囲んでやったや。あと、ドブロク。酒盛りしたんだ。俺なんかは小学校6年生の時にドブロク飲んでぶっ倒れて意識無くなったことある。そのくらい村の人みんな夜籠りは楽しみで集まったんだもの。入る隙間ないほど集まったんだもの。今は12月の第一日曜か第二日曜。夜が大変だから昼間やってるな。

 

俺の爺さんの上の上の爺さんが昔、金光様の信者で、目が見えなくなって神様になって。すんごい人が来たんだって。その人があまりに偉かったためにそこさでっかい石碑が建てられたんだ。すごいんだな。だから俺たちは生まれた時から神様拝んでた。旅行いって泊まってきても、帰って来るとまた拝んで。俺が小学校の頃はあちこちから信者が来るんだもの。俺たちはそれ見てたし、俺たちも拝めって。学校さ入る前から拝んでるもの。だから神様の事は人の倍してるわけや。身体さみな入ってるなや。だからトンネル手前の地蔵様に雪溜まってても普通の人だば見ないけど、俺は見えんなや。雪掘んねぇといられねぇなや。そういう生活してきたから。年に二回はお供えしてある飲み物だかし、悪くなったのは棄てて。やっぱり綺麗にしてると気持ちいい。

俺と嫁は、地域のために村のことやって助けられることは全てやって。そういうことをやることで孫たちが幸せに伸びてくれって。人とこ助けねぇば大鳥では生きていかれねぇや。これは俺の考えだけども、大鳥は都会から来てる人がいたりして。みんなが一本化してみなで相談して地域を守っていくって考え方でねぇと。我が道でっていう時代はとっくに過ぎてると思う。一人暮らしが多いろ。雪の中で電気止まったってなると嫁と二人で東北電力行って。だから毎日地域を見て廻るなや。年寄で心配だなや。○○さんだって真夏の暑い時に笠も被らねぇで、やっぱりおかしくなって。あと玄関さいて動かなくなって。ほんで電話かけて「協立病院に行け。」って言ってやって。そしたら3日後に死んだっけっちゃ。△△のとこは書類関係でしょっちゅう行って。「これおかしいな。」って思って朝早くに行ったら、玄関から寝どこまでの散らかし方が凄いわけや。みな散らかして。それで息子さ電話して「ダメだ!すぐ来い。」って言って鶴岡さ連れて行かせて。そしたら腰の骨折って、あと寝たきりなったろ。うちのお袋も100歳で、次の日ゼンマイ採り行くつもりだったけど夜中に具合悪いから嫁に「近くさいろ。」って言ったら腰の骨折って意識不明だろ。俺はそういうの見てきてるわけや。この間、民生委員の会議で役場さ行ったんだ。「時計みたいなのでボタン押すと駐在員や民生委員に連絡つくようにしてくれ。」って言ったら、そしたら役場は考えてたって。「独り暮らしで腰の骨を折ったら電話機まで歩けない。」って。大鳥だけじゃなくてどこもそういう時代で。現実はこれだ。一人暮らし、大鳥にもいっぱいいるんだもの。俺だって役はいっぱい持ってるども、誰でもしいねぇわけや。面倒見ねぇと。年寄は面倒見てくれねぇばダメなんだ。見られるだけ見て、助けるところ助けなけてくれねぇばダメなんだ。ただ俺は、大鳥はこれからの時代は一本化でみな仲良く助け合って一つの組織作って。

もう一つ俺が言えるところは、楽しくねぇば絶対ダメだと思うんだや。俺みたいな70、80なった人が、「あと俺はダメだ。嫁も何もいなくておもしろくねぇ。」って…。その人を、人間を楽しくさせてあの世さやるってしていかねばねぇと思うなや。そうしっと生きてる時も死んでからも同じだって。「楽しかったな。」って言えるようにこの世を去っていけばイメージ違うっちゃや。そういうことをするべきだと俺は思うなや。ただ俺もヘラヘラって言われねぇども。でも俺はつっかかるところはつっかかるんだや。やっぱりよ。一番は楽しくねぇばダメだ。家庭そのものが寂しいとみな寂しくなるわけや。楽しくなるようにすればあの世さ逝っても最高だと思う。おもしろくなくて死ぬとあの世さでもおもしろくなくなる。んだろ。わねや、孫三人がハッピバースデー唄ってくれたぞ。孫三人唄ってくれたぞ。誕生日。俺ぐらいだぞ。ハッピバースデートゥーユー唄ってくれたぞー!

大滝清策さん:昭和22年7月15日生まれ 77歳
聞き取り日:2023年9月23日
文責:田口比呂貴