大鳥のこと

【大鳥 山の人生】工藤友二さん 

通った大鳥小学校は今の自然の家の向かいにあった。今の自然の家の体育館のところが中学校。新制中学校って言ったな。そして繁岡の寺の下に繁岡分校あって。小学校三年生まで冬は分校、夏は大鳥小学校に通った。ただ鮮明に覚えているのは石板を使ったこと。硬くてな。石とおんなじだから中々減らない。それと、学級費が一ヵ月10円だった。兄弟が5人いるから50円掛かる。その金がうちさねぇんだやな。そうすると子供心に「忘れてきた。」ってごまかしたって言うかな。もう一つは配給。例えば長靴配給なってきたって。当時、クラスの同級生って多かったんだやな。36人いたから。36人なら36人の長靴とかカッパみたいな上に着るものも割り当てで来るんだ。そうするとクジ引きなんだや。男女関係なく当たった人が買い取るって。タダじゃねぇのや。ところが学級費さえも払うことができねぇから、クジで当たっても払う金がねぇなや。クジで当たっても、持って帰って来た記憶がねぇなや。カッパって言うか、マントっていう名前だったな。袖がなくてただ羽織って。恐らくミノグシとかもあったと思う。手作りのものは。それは各自自分の家でやるけども。配給なったものは贅沢品。金の無い人は買えない。親にも全然話しもしねぇし。そういう時代だったというのが小学校の記憶。

頭の良い人は別にしても、大体は小学校から炭焼きとか百姓で食ってたわけだ。うちは一年間食えるだけの米を作る百姓でもなかったけども、百姓もやってたんだ。小学校高学年にもなると長男は将来が決まってるようなもので、勉強っていうのは親から言わせると「学校行く必要ねぇんだ。」って。だから暇さえあれば「早引きしてこい。」殊に田植えの忙しい時期とか稲刈りの忙しい時期は学校休んでって。

余談だけども、中学校なってくると段々賢くなってきてな。勉強は嫌だっちぇ、誰でも。「早引きして来い、手伝え。」って、親に言われなくても授業嫌だって思うと勝手に早引きして。そのまま帰ると親父に取られるから時間稼ぎして。悪いことしたって記憶あるけども。マウリってわかるかな。田んぼの畔と畔を繋ぐとこさ少し広いところあって、そういうのをどこの農家も植えてたんや。秋、食われる時期になるとそういう人の家のものを…、仲間と一緒にな。今だば怒鳴られるんだろうけど。店で買うなんてことはなかったし、食う物何もねぇから。俺が上級生の時は、あの頃はカバン背負ったんだろうなぁ。後輩をイジメるために「ジャンケンして負けたやつ背負え。」って。今の河合橋も昔は木の欄干で当たるとヨタヨタヨタって欄干だった。そして弱い子供さ「この欄干渡れ。」って。何かかにか悪いことしながらやってきたんだな、ほんとで。

 

中学一年になるとクラスで俺が一番背高かったし、大人みたいなもんだった。そうすると牛使って田起こしやったり、稲を手刈りしたり、杭掛けした時代だから中学になると勉強なんてそっちのけ。一日でも忙しい時は手伝えって。うちの田んぼは山と、川向と、道路っぱたと。全部で約1町歩。今は転作田でゼンマイとかワラビを作ってる。ところが、1町歩の田んぼ作ってても当時は家族がものすごく多い。俺の兄弟5人だし、孫爺夫婦、親もいたし。9人もいた家族だから米がとにかく買わねば足りねぇの。今みたいに立派に実らない時代だから。

バッカとかマンガ(馬鍬)って言って、田起こしで牛使うのを中学校のうちにマスターしたんだやな。牛は一頭いて。牛も家族の一員で、ニワって広場があって、そこに牛のマヤがあった。その近くに流しがあってな。牛の糞の香りがするようなところで一緒に暮らした。百姓の家はどこだってそう。牛の世話って言うと、肥出しって言って藁をホックで出して。藁は豊富にあったから敷き替えして。牛の肥は家の後ろの畑の肥塚に運んで積み上げて。翌春になると、肥引きって言って雪の上を金ソリで引っ張ったんだ。雪は1m以下だと思うけども田んぼに積もった雪に穴掘って入れて。肥料なんて無いからそれで米作りした。あとは草を取ってくるのが一番でな。夏は刈干しって、田んぼ脇の広場の草を長鎌で刈り取って乾燥させて。それを“ツナゲ”で束ねて小屋に詰め込んで。“ツナゲ”ってのは藁の束ね方のこと。束ね方があるんだよ。それで一尋くらいに長くして、それで縛ったもんなんだや。冬にそれをオシギリで切って入れ物に入れて。米糠みたいなのを混ぜて牛に食わせてた。

当時は牛の子供も家で生まれて。牛の子は売るために取ったんだ。春だか、生まれて立派に歩くように1年くらい育てて。歩くようになったら馬喰って商売の人が買っていくんだっけ。当時で何万円もしたんだろうな。それが生活費で。種付けはな、牛が盛りの時に種付を専門にやってるところに連れて行って、そこの種牛と一緒に。それで上手くいくと牛のマヤで子供生まれて。小牛が足を出してくると古しいワラジを何足も束ねて、牛の足のほうさぶら下げて、出来るだけ早く出てくるようにやるんだっけ。最後にはみんなで引っ張って。

これも余談だども。子供の頃は山菜も食べたども今は山菜はほとんど食わねぇ。ワラビもミズも食わねぇ。ネギも食わねっていい。なんでこうなったかっていうと、俺子供の時は米粒がほどんとねぇ飯だった。米をいっぱい入れる余裕がなかった。そうすると、ミズだとか大根だとかそういったものを米の上にどっさり入れてかき混ぜて喰ったもんだ。それが段々に嫌になってきた。だから山菜全然ダメ。贅沢になったんだろうどもな。

 

うちの孫爺は山が得意で。魚釣りは名人って言われた人なんだやな。ただ、俺が魚釣り一回もやったことないっていうのは、親父が「せっちょうごとは絶対ダメだ。」って孫爺と喧嘩してるんだっけ。この辺ではあれもこれもやるってことを“せっちょうごと”って言うんだ。例えば釣りもやる、鉄砲も撃つっていうのは、昔は贅沢だっちぇ。遊んでるって感じだろ。それが孫爺たちは釣り竿持たせると名人で。ダム出来る前はな、この辺まで鱒登ってきたなや。鱒が大きくなる前の魚をイオって言ったども、それはものすごい賢い魚で。その魚は釣り方によっては全然釣れない人もいる。それをうちの孫爺は名人とまで言われた人。だからここに赤川の事務所があって、理事・監事集まって20数人が来るって言うと、魚釣り頼まれてやってるもんだけどな。

鉄砲は俺も40何年持ったけども、親父もずっと持ってた。鉄砲持って撃たせると親父も孫爺も天下一品だった。当時は双眼鏡も勿論なくて。目が良いんだろうな。この家から山見て。ウサギの足跡見て、「あそこさ行くとウサギ寝てるから行ってみろ。」って。ウサギ獲りは大体仲間で行くっちゃ。有害とかは特に。ところが孫爺は誰とも行かねぇ。たった一人。どこまでも。というのは、一匹取ると自分のもんだって。ウサギの寝場所とか付き場所はみな覚えているんだな。だから他の人とは行きたくなかったんだろうな。

前は櫛引の丸岡ってところの人が毛皮買いに春に必ず来てたんだや。イタチでもテンでもウサギでも。ウサギ一匹でも釘で張り付けして。イタチとかテンはハサミで獲ってな。その頃はイタチ一匹獲ると毛皮でスキーが買えた。数何百円だろうども。若い頃から罠かけて獲ってスキー買って喜んだとかな。冬内でかなり獲るから良い金なったと思うんだ。でもな、大鳥でも獲れる人と獲れない人がいるわけや。だからそんなことはしてもダメだから、「せっちょうごとはダメだ。」って家の中で言ってんなや。そういう事で飯食うとか贅沢だったんだやな。うちみたいな貧乏はそんな余裕もねぇから、俺は親父がやらなくなってから始めたし。

 

炭焼きの手伝いもやった。百姓と同じで中学校の頃から行ったことある。片道3時間の山の中さ窯小屋があってな。そこはうちばっかりでなく、4軒が炭焼きしてて、俺と年が近い連中も一緒手伝い行ってたな。8時頃に家を出て、11時頃に到着してすぐ昼間の準備。ちょっとした汁を煮て、メシ食って。それで、我々の仕事ってのは炭焼くんじゃねぇんだやな。炭は親父が焼くから、木を伐ったり、割ったり。今みたいにチェンソーはなくて、窓鋸って、所々空いたようなノコで切ると楽だなや。3時なると炭一俵背負って帰ってくると。場合によっては二俵背負った。それが俺は嫌で嫌で嫌で…。どんな悪い天気でも毎日。親父は泊まりっぱなし。そこは、冬は行かなくて。春の雪の上は行って。夏は百姓もあったろうし、真夏は暑くて炭焼きしなかった。秋も10月なると稲刈りもあっしナメコも植えるから炭焼く暇がほとんどねぇ。11月頃にまた山さ行き始めて雪降る前まで。12月、雪降られた記憶もあるし。

学校上がってからは赤川土地改良区の仕事。10人近くいて、常勤みたいにして雪降るまで仕事があったんだ。杉の木は大きくなると何十年伐期って言って伐り倒したなや。当時の値段で一石3,300円くらいしたのよ。一石は一尺×一尺×十尺で。だから、柱一本で3,000円もしたって。凄く良い値段したなや。伐った後は植付けもしたんだ。鎌でそこをキレイにして杉の苗を一本ずつ植える。そういう仕事や。1日330円の手間賃でな。大鳥トンネルを下っていくと右手に立派な杉林ある。あそこはみな俺らが植えたんだ。10代の頃だから70年経ったな。

赤川辞めてからは高萩パルプって会社がブナの木を伐ってたんだ。俺は測量の手元で働いて。日当は500円くらいか。エガケ沢で2,000ⅿくらいのワイヤー張って、パルプ材を“飛ばし”かけたなや。左京渕の堰堤は営林署直轄でやったんだ。あの堰堤が出来た時にポールを持って行って、水が落ちているところに測量しねばねぇってことで、ポール立てさせられたんだ。その後もあちこちやってたけどな。そうしているうちに今度は企業局の発電所の仕事が始まったんだ。隧道掘ったっちゃ。用水路。そこは熊谷組とか大林組とかが掘って、発電所を作ったんだ。そこさ加賀山組って言うのが来て寿岡で隧道掘ったわけだけども。泊まり込みで山形から来てる人がいるんだっけ。ここも日当500円で、24時間交代だった。

そして、その年の冬。出稼ぎの話があったなやな。大鳥で誰も行かないときに俺含めて3人、11月に岐阜さ出稼ぎに行ったんだ。19歳の時。隠れながら。当時は炭焼きしたりしてみなやってるわけだども、俺は炭焼きが嫌で嫌で。なんだかんだ言われながら行ってきた。岐阜の御母衣ダムってところ。当時は白川村って言ったんだやな。今は集落を観光地に作ったっちゃ。そこでも隧道で仕事して。トンネルの中でボーリング。一ヵ月も経たないうちに盲腸になってしまってな。病院は50人も入院患者がいたけども、土方だったからか喧嘩とか怪我の入院ばっかり。そこで1か月余り入院して。一ヵ月稼いだ9万円で入院費用払わねばなかったけども、会社で保険を掛けてくれたんだやな。助かったっけ。本当はうちに帰りたかったけども恩義があったから帰られなくて。「今度は奈良県さ来て。」って言われて行ったんだやな。そこも1か月も経つか経たないかの時、やっぱり隧道だったからな。中に入ると痛みだすんだし。医者さ行ったば、「盲腸が痛みだすっていうのは、内臓移動する場合がある。」って言われたなや。当時、俺の親父の兄弟が大泉鉱山の変電所さいて、そこさ手紙を書いた。「『母危篤、すぐ帰れ。』って電報打ってくれ」って。そうしたら昼過ぎ頃に工藤さん電報きたって持って来たっけ。「工藤さん今日のうち帰るか?明日帰るか?」ってな。あとは出稼ぎ行かねぇで、25まではいろんな仕事したと思う。土方っていうか。

最終的には役場職員になったんだ。大鳥小中学校で製パン工場。旧朝日では給食始まったのは大鳥が一番早かったなや。当時の校長に呼ばれて。こういう話だったんだやな。「来年の4月なったら製パン工場の給食関係も役場の職員として採用する。」って。それが条件で、最初は臨時で働き始めたんだ。その時は月8,900円だったんだやな。で、色々差し引かれてうちに持って帰るのが3,000円だった。その時も高萩パルプで部落の人らが請け負いで稼いでて。その連中は1日稼ぐと2,000円だぜ。当時“シトビュ―”って言って、米一俵4,000円の時代。連中に会うと馬鹿にされてな。「いつ戻って来る?」って。金欲しかったら何もそんなとこさ行かなかったよ。もっとも、俺の親父も稼いだんだから金欲しくて行くあんでねぇって気持ちあったし。それに採用ってのが魅力だったんだ…。俺は学校さも泊まったんだやな。先生がたも泊まってるんだから毎晩ドンチャン騒ぎしてるんだっけ。ある時、校長が酔っぱらってみんなの前で俺を呼んだんんだ。「うまくなくなった。4月から採用が出来なくなった。」っていう話で。「なにー!」と思った。だから、「悪いけども明日から俺辞めます!」って言った。採用することが魅力であって、給料が安くてもいいって思っていたから。そしたら他の先生がビックリしてな。「製パン工場から直接2万円出す。」って言われた。だども「2万出そうが10万出そうがやる気ないから辞めます。」って。そしたら校長が泡喰ったわけや。パンは食い物だろや。1日や2日で簡単に出来るもんではねぇだろや。何か月もやって何とか慣れてきたときに辞めるってなって校長も困ってしまって。なんとか調整したらしく、俺を採用したっけ。

製パンは13年やった。13年目に大泉鉱山が閉山なったなや。中学校はその前に朝日中学校と合併なって。小学校はしばらくあったけども、大泉鉱山が閉山なった後に大泉小学校に合併なった。じゃあ俺はどうなるんだって思ったら、今度は総務課で運転手として。当時マイクロバスが1台あったなやな。で、俺より先輩で村長直属の運転手がいて、俺には大型免許取らせてマイクロバスの運転手を3年やらせたっけ。その頃は本郷の人が村長でな。田沢の人が収入役だったんだもんだから、俺が大鳥から車で行って収入役を乗せて役場まで、夕方はまた乗せて帰って来てた。その後は大鳥の人が村長なってな。そうすると役場でも俺を村長の運転手したほうが便利良いってなった。村長ともなると会合も多いし、帰りの時間がわからねぇだろ。そして“長”っていうのは酔っぱらった姿を他人に見られたくないんだろうな。役場の車で来ておいて、大鳥までは俺個人の車で来るあんだからな。仕事は役場まで届ければいいんだから。運転手は23年。製パンと合わせると役場は36年だな。

 

結婚した時は、かかぁ18歳の時、俺が25歳。25まで結婚しない人ってこの集落ではいねぇなや。遅いほうだった。その前にも色々あったよ。「この人だば良いな。」と思ったら羽黒さ行かれたとか。なんにもこの人の顔見たことねぇ時に、昔は本家の家とか親方とか付き合ってる人は、反対とか絶対できねぇ。本家の孫爺が口利きして「こういう子いたから友二に貰わせろ。」ってなって、自転車で倉沢まで行って。見たこともねぇ、初めてかかぁに会ったなやな。それだって俺も親に対して嫌だとか言えない時代だし。仲人からは「2人でお宮行ってこい。」って。どうもなんねぇ。二人で行った。その時に「今ここで『嫌だとか、そういう気がありません。』とか言ってくれ。」ってかかぁにハッキリ言ったなや。俺もどんな人とでも一緒になる気はなかったから。見たこともねぇ初めての人と一緒になるなんてとんでもねぇ話だっちゃ。あの時「『嫌だ。』って言わねっけねか。」って未だに言うけどもな、それを何人か待ってたけども向こうからも何もねぇんだし。松ヶ崎の孫爺の家さ、「結婚したくねぇ。」って言われなくて手紙書いた。けども、中々言い出したら昔の人はそうだろうども、「そうか。」ってことはなかったんだやな。あと段々に話が進んでたんねぇ。いつの間にか…。良いとか悪いなんて時代じゃなくて。

だども、かかぁはよく頑張ってきたなって思ってる。勿論、百姓なんて当時は機械あるわけでねぇんだし。田の畔で仕事してると、若いんだから走ってるんだっけ。これは何とかなるあんだかなって思った。かかぁも赤川土地改良区さ、仕事あるんだからそこで働いたり。縫製会社さ行ってなんだかんださせられて。それから上野土木の縫製会社でもやったことある。その時は俺が会計やらせられて。縫製会社でもだいぶ稼いだ。今考えてみると、本当はな。よくやれるなっていう風に、縫製会社いったって上に立ってやらせられて。小言を言いながらよく我慢してきたなって。かかぁが今いないからちっとは褒めておくけども。

工藤友二さん 昭和14年9月19日 84歳
聞き取り日:2023年10月7日
文責:田口比呂貴