大鳥のこと

【大鳥 山の人生】工藤利夫さん

私が大鳥に来たのは満で23歳。昭和33年の3月18日。すごい雨降りの時での。途中はものすごいどしゃ降りで。ハイヤーで来たんだ。お父さんと俺と、3人乗って来たかな。農家も景気良い頃だからな。あの頃は農業全盛時代だなぁと思って。新聞だかし見るとアメリカのメリケン粉を売らねばならなくて、パン食は栄養が良いとか体さ良いとか言ってだいぶ宣伝したんだから。米の消費がかなり落ちてきて。米はどんどんと余って来た。『パンを毎日食べましょう。』なんてスローガンで。アメリカはその頃生産量が多すぎて余って、戦争当時は食糧無かったけど、アメリカのメリケン粉で助かったといえば助かったわけやな。

実家は農家での。あの頃は米作単作地帯って、米だけやっていた。集落は55軒くらいあって、多かった。うちの親父は長男で生まれて、ずっと農業してきて働き者だっけ。俺を高校さ入れなかったんだ。カエルの子はカエル、百姓の子は百姓って、高校さ入れる気ねぇんだっけ。母親は小学校4年生の時に亡くなったんだ。親父は継母をもらって。俺は次男坊での。上さ姉と長男がいて。下さ5つ、6つ違う妹がいた。今は千葉さ行っていたけどな。生きているのは今は3人になった。

子供の頃はガキ大将で、「兵隊さんになって部隊長となる。」って幅きかせて歩いたんだ。だから自衛隊さ行くかなと思ったんだ。中学校上がりで自衛隊に入っても下っ端がいいとこなんだし、定時制でも出れば高校だからって、18歳から4年間入ったわけや。朝仕事して学校から帰ってくると、クラブも無かったからな。部分的にはあったども、スポーツといえば野球とバスケとバレーと。そんなもんだっけ。陸上なんかは大会はあったけども。朝はそれこそ早く起きて。夕方はたまには遊ぶけど、帰って来て働いて。田植えと稲刈りは休み無いんだっけ。うちは農家だったから農業クラブ、農業科を専攻したんだ。

農業が好きだったんだ。小さい時から手伝いさせられてたから。ただ、米作は行き詰まる時期が来るなと思ってたんだ。その当時は林業がすごくよくての。大鳥の家は両方あったからな、婿先さ選ばせてもらったんだやな。山もあるし田もあって、ここで暮らされると思った。やせ腕で力もねぇけれどもに頑張れば将来林業と両方で生活出来ると思って来たなや。かかぁとは見合いはしたけども、なんていうか彼女に惚れたわけではねぇし、惚れられる俺でもねぇし。生活環境っていうか基盤っていうか。暮らせるし。将来子供を大鳥から高校さ入れようと思えば下宿なんだし、山の木でも売ったりすれば入れられるって自分の考えであった。

 

俺は山も好きなんだっけ。高校の夏休みの頃、部落では運動会が凄かったんだやな。農民運動会、町民運動会、それから青年団もあった。夏のうち、昼間も各部落単位で練習するんだっけ。兄貴は青年団、親父は大人。そこそこの家で駆り出される。それで、実家でも湯田川の奥に山持っていてな。終戦後の食糧増産だかで台地で良い山を開墾するために伐採して。その後の手入れが大変だったんだ。そこさ1週間くらいか。「泊まり込みで杉の下刈りやれ。」って親父が。俺はやんだと思ったけれども、学校へも無理して入れて貰ったんだから4年間は頑張って卒業してぇと思って。運動会も行きたかったけども、山さ泊まりに行った。70年も前の話だから、くず屋根の山小屋みたいなので。座敷はあったけど、一番ビックリしたのは、ネズミ落ちてくるやら蛇が落ちてくるやら。蛇がネズミをぼっかけたのか。夜中寝てた時に落ちてきてビックリした。部落の人は朝4時起きして働くわけや。俺は4時半とか5時だったども、認められねばならないと思って4時起きして朝鎌を研いで。小屋から山まで15分くらいと近かったからみんなと一緒に出かけた。山の中は朝露がかかって身体にしみて。それを着干し、着たまま干して。親父としては、婿でどさ行くかわからねぇから山も覚えた方が良い、ということが頭にあったのではないかな。高校2年の時から3年間やった。

高校卒業してからは実家で農業してた。まず、耕運機があったんだな。バッカとかは経験ねぇわけや。大鳥来てからも牛も飼っていたけど、馬耕はやれねぇって。やったことないし、「やれない。」と言った。だからか、大鳥さ来た翌年に耕運機買ってくれたっけな。あの頃で20万くらいか。耕運機は、なんていうか昔“つかみ”って、木と木を繋ぐ、かすがいみたいな物で。婿に逃げられねぇように、耕運機を“つかみ”にしたって。耕運機買ってダマかされたんだって笑われたもんだ。当時は大鳥でも珍しくてな。田んぼを手で耕す家があったから、そういう人たちの田んぼ、起こしてくれたんだ。そして田植えと耕運機で結をしたんだ。

 

大鳥さ昭和33年に来て、34年の年に大水害あったなやの。堤防って昔は石垣積んだばっかりだったんだ。そこさ土木工事入ってきたんだっけな。熊谷組や大林組、酒田の林組だかし、大きな会社。人手が必要なんだはけ、初めて土木工事に出た。そして、熊谷の下請を大針の人がして。そこさ10日くらい稼いだんだ。まず力は人なりにあったからな。そしたら「事務やってくれ。」って。「俺は事務はダメだ。口は達者かもしれないけど事務はダメだ。」って。ただし、忙しい時に出面を手伝ってくれ、「誰も適当な人いねぇはけおまえやってくれっちゃ。」って。そして出面処理したりして。そのうち段々に儲かってきての。

昭和36年には寿岡発電所の工事かかったなやの。それも熊谷組はトンネル請け負ったんだっけ。俺は農家が主だから毎日は出れねぇけども、時々出はられるからって使ってくれたんだっけ。導水道って水の通るトンネル掘って。部分的に悪いところは巻き立てって、コンクリートで巻くわけや。それさも引っ張られてたのや。型組みは夜間だから引っ張られて。巻き立ては6人で一組なんだなやの。それも人が足りねぇ時があるんだ。何かかにか容易でねぇし。上の天板はネコって言ったんだ。それは右と左とスコップ使える人は最高良いわけや。俺は幸いにも右手も左手も同じように使われる。疲れねぇしな。それで、出来たらネコ締めをやれって。トロッコは手で押したなや。一人一台ずつ。ネコ締めってなると祭りみたいに親方お神酒たがえてくるわけ。トンネルの祭りなんだっけ。親方が高いところに上がって、右右、左左って合図して。狭いところさ入れねばねぇわけや。そのうち段々、夜番の助手もさせられて。保安帽に赤線一本もらって。そうして稼いだ。トンネル工事は3年掛かったども、俺は2年しか働かねぇ。トンネルは続ける気なかった。土木って金は獲れる時はいっぱい獲れるども、体が大事だから。誘われたんだけどそこさはいく気はなかった。

出稼ぎは昭和39年からだ。その頃は生活が変わって来たからな。米価は下がってきたし冬は仕事ないんだし、現金収入ねぇば暮らされなかった。そうして、何年か熱海に行ったなや。大舘組って、土木関係で。擁壁の工事やってたっけの。あの頃からノリ面切るのはバックホーで下から削ってな。その後、2~3年は鍛造会社で。自動車部品を作る。埼玉の草加さあって、東京精密って会社だっけ。そこでは3トンのエアーハンマーな。油圧ハンマーは1000トンだっけな。一工程で製品出来るんだやな。タイロットとか、車のスリーブってベアリング入ったやつ。あと大型のドラピンって楕円形の。部品会社っていうのはあっつい商売でな。鍛冶屋で炉を使ってるから。冬にいっぱいストックを造っておく。真冬でも夏バテするんだや。水飲むんだ。肌着きてジャンバー着て面被って。

そこでは昔社長が住んでだ空き家みたいなとこさ住んでたな。昼は給食あったけども朝夕は自炊だった。ご飯はプロパンで炊いて。おかずは、あの頃の埼玉あたりは白菜が良いのがあるんだ。それを2~3個買って来て、4つに切って大鳥から一緒に出稼ぎ来てた仲間と分けてな。夜にタライさ漬ければ朝食べられるんだ。毎日朝夕食べたんだ。あと缶詰と。それから、農家はどこの家も味噌漬けがあったから、それでご飯。白菜漬けはこの辺ではあげな美味しい白菜は食べられなかった。それも安く売ってて。

 

昭和45年からは営林署に入ったんだ。年は30なんぼかでな。入った頃は西大鳥の自然の家の隣に事務所があったんや。主任がいて、俺が事業課で、造林関係の経営課の人とで3人。俺は毎日1人でツルハシとスコップを持って林道の補修。大鳥林道、泡滝線。そのうちに桧原林道。枡形林道もやった。当時は営林署の仕事で伐採とか造林もやってて、林道が必要だわけやな。道路壊れたって大変な時は応援頼んだりもしたけども、基本的には1人や。だども、毎年安定してるから土木より良かったんや。大鳥の事務所は昭和50年頃まであったんでねぇかな。その後は本郷へ。あそこで4つの担当区あったんだ。大鳥、上田沢、鱒渕、田麦俣担当事務所。合理化なったっていうか、あと造林も土木もみな一緒なってしまった。そして、それは造林さ行ったり。造林のほうが手間よかったども、容易でねかった。でも下刈りとか経験があったし、少しは若さもあったからな。

 

昔、二冬くらい鉱山人夫を枡形までの送迎頼まれたことがあって、だいぶ歩いたな。桧原の奥に索道の中継小屋があっての。それさ行く途中に雪崩でやられて。あれは12月だな。松ヶ崎登ってくと台地があって、右手さヒラ(※傾斜)があって。そこからあまり行かないうち。ずっと平地歩いてたら、右側から来たんだはけな。送る人が4~5人いて、あとお客さんとで10何人。みんな埋もれた。その日は油雪って言って、歩くとバックする。茶色の雪で。歩き悪いなぁって。雪と雪の間が滑るんだ。そういう雪質。笠は被ってたけどもケェシキ持って無かったから、戻ってケェシキ持って来て。「今日は油雪だの。こういう雪は危険だから危ないところは歩かれねぇんだ。」って。人から聞いたことがある。先達が大鳥の年寄りでな。俺は雇いで。歩いてたらヒューっと風がなり、雪のヒラにヒビ切れてるんだやな。雪のヒラに向かってケェシキを目一杯刺した瞬間に雪被って真っ暗になって。体を動かしてみたら少し明るくなってな。「あれ、これは生きられる。」って。そのうち出はってみたら先なった人は僅か早くに出てて。あとは誰もいねぇわけや、みな流されて。それも50ⅿできかねぇくらいかな。走っておいて、着てた物が見えるはけな。掘って。全員助かったんだ。一服やってたらや、なんか叫ぶ音するわけやな。やっぱり、鉱山から迎え来たんだっけ。「今日は雪質悪くて戻ったから、こっちも戻れ。」って。全層雪崩はこの辺では“地なだれ”と言ってな。あの深い谷いっぱいなるのや。

 

大鳥来て一番褒められたのは米作りな。当時の大鳥は、金肥はあまり使ってなかった。作物の三要素ってあっちゃや。窒素・リン・カリウムって。それをチッソは何だか、リンは何か、カリウムは何か、いつやればいいか、どのくらいやればいいかって。肥料の配分っていうか肥料設計っていうか全然やっていない。稲の芽出しもな。苗代さ蒔く、その辺に関して部落の人と一緒にやったっていうか。だから何年か、この辺の十何軒の種から芽出しをしてくれた。だから失敗するわけにもいかねぇ。真剣になって。上手に芽だせば良い苗できるし。良い苗だば良い米ができる。今まで稲が短かったのが長く育って。部落全体で単収が上がったわけやな。褒められたもんだ。「大鳥の米は違う。」って。検査しても米質がよかった。繁岡も段々収量上がってな。一等米も入るようになった。松ヶ崎、寿岡の女の人とか年寄からは稲見てくれって言う人もあったもんだ。「重太は里から来たから何もできないが、稲作りはうまい」って調子の良い事を言われたんだ。そういうことがあったもんだから、山の仕事はゼロだけども人の見方って変わるし、部落さ溶け込んだ。手前味噌だけども、婿だなぁって認めてもらったんだ。

聞き取り日:2023年12月2日
文責:田口比呂貴