大鳥のこと

【大鳥 山の人生】佐藤征勝さん

小さい時はあまり記憶ねえども、俺は戦争の疎開で大鳥さ来たんだや。一番初めは鉱山の長屋さ住んで。3棟か4棟あったんでねぇかな。そこさ3-4年くらいはいた。おらいの親父鉱山で働いて。俺の親父は肉体労働したことがあまりねぇんだ。百姓なんだども、あまり稼ぎたくねぇんだな。親父の実家は農家もだった。ある時、脱穀機さ手ツッコんでしまって、人差し指がちょっと曲がってるんだやな。だはけ戦争で甲種合格ならなくて戦争行かなかった。それで大鳥の鉱山さ。あの頃は軍事工場だろうからな。疎開もあったろうけども。長屋から今度は寿岡の小屋みたいなとこさ移って。そこから小学校通ったな。ちょっと玄関の前にのれん掛け降ろしてな。忘れもしねぇけども、細い風船でグニュグニュってバルーンアートのやつ。あれを親父が東京から仕入れてきてなんぼか儲けたって聞いた記憶ある。

戦争終わって、小学4年生の時に一年間、大江町の左沢さ行ったな。おばあちゃんの実家さ。親父は一人で東京さ行ったなや。また仕立て屋やるつもりだったんだろ。親父は結構商売好きでな。「東京である程度目途ついたら呼ぶからな。」っていう話で行ったなや。だども、昭和28年に大鳥池が国立公園になったのや。松ヶ崎の爺さんがの、「ここ国立公園なったし、釣りや登山でお客が来るから、旅館やって間に合うんでねぇか。」って話があって、親父が朝日屋を始めたんだ。俺が10歳の時だ。

あの頃から釣りのお客さんって来てたんだな。なしてかっていうと、俺が22歳で庄内交通入るまでの間、高校終わってから4年くらい冬あるわけやな。その頃は出稼ぎ行ったなや。2~3年目は叔父さんの家に行ったけども、最初の年は俺と弟とミカンもぎ。世話してくれた人がおらいさ神奈川から釣りで来てた人で。弟はまだ中学校終わって15才だぜ。足柄上郡って富士山の裾野や。行って見たら別天地でな。自然はあるろ。水もいっぱい流れているし。一ヵ月に2日くらいしか雨が降らないんだやな。そして、1時間も電車乗れば都会さ行くろ。こんな良いとこあるんだかやーって思ったけども、そこで住もうとは思わねぇ。心は動かねぇもんな。ただ、こんな良いところもあるんだなってくらいで。今でも忘れられねぇのは、よくよく中学校くらいでねぇかな、バンバから連れられて。土建屋から宿代の集金。旅館で泊めたってすぐ金で貰えるか貰われねぇかわからねぇ時代だった。おらいの親父が全然そういうことしねぇ人だもんな。俺が用心棒みたいにして。でも、やっぱり大鳥さ土方仕事はあったんだな。護岸とか堤防造りとか。

 

庄内交通で稼いでからは、朝日村の議員やったんだ。松ヶ崎の人が朝日村の村長になった時、村長は「俺が村長だから大鳥から議員はいらない。」という話になったども、村長と議員は違うという意見があって、当時の駐在員とかに説得されてな。「親父はダメだ。」って言っていたども、周りから押されて。選挙出てな、やることになった。その後は村長やって、鶴岡市と合併してからも二期やった。

80にもなると時代の変化っていうか、本当に俺が言ってることなんて時代にそぐわないと思う。家族のこともそう。今は年取って動けなくなればすぐ施設だろ。使い物にならないんだから。施設なんて言うけども、悪い言葉でいうと姥捨て山なんだや。そんなこと中々言われねぇけども。だから大反対だなや。時代的に仕方ないと思うどもな。やっぱり自分の親がだぜ、俺を生んで育てて。それまで頑張って動いてきたからこそ動けなくなるんだ。だから子供が親の面倒を見るのは当たり前の話なんだやな。それをしないで良いなんて考え方はオカシイと思う。色んな事情があるから施設はいらねぇとは言わないけど、それが蔓延してきたら親の有難みも無くなってしまっての。世の中これで良いのかなって。時代変わったって言って良いのかなってつくづく思う。そう思いながらも時代は進んでるな。

 

冬は、若い時は毎日だほど山さ行ったもんだ。俺は何も鉄砲上手くなくてな。寝てたウサギ撃つんだから。川向うの山際さ堀あんだや。そこさウサギ獲り行ったんだどもな、堀からカモが3匹飛んだわけや。それをダンダンダンって撃ったば、3羽落ちたわけや。こういうのを“ミョーバチ”って言ってな。大鳥振興さ行ってな、「カモ3羽飛んだのを3発で獲った。」って鼻高々と威張ったわけや。そしたら当時の社長が「わねぶったカモ喰ってみてぇっちゃな。」って。「おぉー、かせるかせる!来い。」って言って。何人も来てカモ汁喰ってや。当時は集まればホレ、シロクをやったわけや。それがな、わが開いたんだはけ、俺はそんなに勝たなくていいなや。ところが当たって当たって。サイコロ伏せればシロクで。これが『カモがネギ背負って来た』って言うあんだかなって。それでかなり勝った。それ以外はどれだけ負けたかわからねぇ。生涯で俺は3回くらいしか勝ったことねぇなや。

大鳥は冬が長いし雪の量が多いから、暮らすも何するにも大変だなや。12月から3月いっぱいは、どこでもは歩けないわけだ。それが春になってきて、ずっと冷えた日はどこまでも雪の上を歩いて行ける。その解放感っていうか喜びというか。そういうのがあって。「大変だし危険な熊狩りになんで行くんだ?」って思われてるかもしれないが、それでも行かなきゃ一年が始まらない感じがする。

 

熊狩りの時は杖は絶対手放せねぇな。あれが微妙に自分の体重を、あの杖に半分以上移して足には体重をかけないようにして歩いているんだ。傾斜を歩くときな。足に全体重をかけてしまえば足がベロッと行ってしまうぞ。だから半分以上杖に掛けているわけだ。だから足がかたっぽ滑っても、体は滑らないわけよ。杖はうまく出来ているわけや。杖無かったら歩かれないもん。だども杖と金カンジキあってもおっかねぇところがあるんだ。俺らが熊狩り行くときはや、氷の所はほとんど無いんだけどもや。“アオゼェ”って言ってや。場所によっての、氷なってるとこあんなや。そういうとこは金カンジキが刺さらねぇわけよ。我々の金カンジキは3本爪で太いからな。んだはけ富士山みたいに凍ってるところを、8本とか12本とかのアイゼンだと先尖ってて効くんだろうけど、我々のは太いから効かないだやな。あれ怖いんだや。昔は熊いなかったから稜線歩いて相当奥まで行ったんだ。俺だはしょっちゅう八久和の方まで行ったわけよ。あそこさいくとアオゼェどこ渡って行かねばねぇんだや。

若い時は良く歩いたぜな。熊がいなくて。倉沢の人と俺とで獲った熊は横松のナラの木。熊は最初は西の尾根のガンクラさいたなや。おらだ横松から見てて。したば西の組がウグイスから越えてきての。あの人らも同じ熊見つけて、無線でやり取りして共同でやることになって。して先輩からの、「若い者、こっから跳ね降りて西の俣行って影廻ってガンクラの上さ行け」って言われてや。西のしょらは沢下って来るんだっけ。すごいんだな、あの頃はダンダカと跳ね降りて。ガンクラの峰に向かって上がって行くと、木に上がってた熊が降りてきてや。左側さ回って行くんだっけ。俺が先なって歩いてきたんだから、「熊、熊。ぶってみるか?」「うんうん。」って。7~80ⅿもあったかと思うどもや。あの頃ライフルもねぇ時で。それでダインと撃ったらドカドカドカって落ちてきたんねぇ。ちょうど俺と二人でいたところに雪が切れたところあったんけ。ちょうど俺だの前さまくれてきて。

倉沢の人の一番目の子なんだか、かかぁが腹ふっとくしててな。当時は『かかぁが腹太い時は熊が死なねぇ』って言うんだっけな。熊獲られねぇからそういう時はあまり熊狩りさ行って良いって言わないんだっけな。あの時だって一週間も泊まってや。歩いたどもいなくてや。熊隠れていねぇって。みなには黙ってたども俺のせいでねぇかって気にしてたなや。「本当は俺かかぁ、妊婦だなや。」って。だども熊、獲ったろ。おもしがってや。そして西の組と一緒なってもう一つ獲って。西の俣と合うところで2つ割いて分けてや。すさまじいもんだ。

俺が20代後半か30代前半頃は、熊獲りで野宿もしたことあってな。山の稜線近くだっけ。尾根だけども広いようなところでや。なだらかなとこさ張ったっけ。テントじゃなくてナイロン。棒立てておいて、グルーっと回りに透明なナイロン張ってや。一枚のやつでな。そして真ん中で火焚いて。屋根はねぇぜ。俺は寝袋持って行ったんでねぇかな。恐らく天気も見て行ったろ。もう一泊はグルっと回って降りて、横松のナラの木の下のあたりだっけな。あの辺さ一泊したな。やっぱり遠くさ行きたいから野宿したんだろうな。

ウサギもクマも昔は皮や熊の胆がお金になっての。して肉は貴重だろ。家族が一番喜んでくれたんだ。そのために山に行く、狩りに行こうって思ってた。ただ、75も過ぎてからは、ウサギを獲ろうってあんまり思わなくなったんだ。なんだか可哀そうで。昔は経済的にも喜んでくれたが、今は若い孫、特に女の子は血だらけにして嫌われるんだよね。そうすると意欲も湧かなくなっての。年もあるんだろうけどな。だから命を貰って可哀そうだってことが心の中で大きくなってしまって。

 

かれこれ15年以上前だどもな。大鳥の鉄砲ブチが冬山で遭難してな。あれは12月頃だろか。1月頃だろうか。ウサギ巻行ったんだ。そしてそんな奥でもないけどな、待ち手いるあたりのもう少し奥だな。そこでお昼したんだってよ。してまたちょっと奥にいって巻き始めようと思った時に一人が無線機、飯食ったところに落としてきたな。「忘れてきたなぁ。」って言って自分一人そっから無線機取りに戻ったらしい。「集落の近くの下流に行っておいてそこで合流するから。」って言って別れたきり、あといなくなった。そして、あの日はちょうど3時頃からかな。すごい雪。もう先が見えないくらいの雪。俺も一人でちょうどウサギ狩り行ってたんだ。ちょうど3時頃に山から降りたけど、すごいんだ。先一つもみえねぇ雪降って来て。これ降りてきて良かったなと思ったら真黒くなってや。俺は歩いて帰ってきて。

そして夜6時頃かな、7時頃かな。「無線機取りに行ったっきり帰ってこねぇ。」っと。ウサギ巻き、6~7人行ったんだからな。探したらしいんだや。「合流する。」って言ってたのに合流しないから。みなで探したらしいんだけど、すんごい吹雪なってきて。探したけども中々わからなくてうす暗くなってきたから、多分帰って来てるかもしれないって思いもあって帰ってきたなや。けど来てなくて、我々にも連絡来たわけだ。みな集まって、「どうするや」と。「『どうするや』って、この天気だから、明日の朝まで置けば間違いなく死んでしまう。だからまず、その飯食ったとこな。そこまでだって可能性が薄いけども電池つけて行こう。」って行って。7~8人くらいで行ったっけかな。大きい声出したりして行ったんだけど、何しろ吹雪が凄かったんだや。して、結局何も見つけられなくて。12時過ぎに帰ってきたかな。それから毎日探したけど全然見つからないわけよ。あれ、何百人ほんとで探したかわからないよ。

いよいよ見つからなくて困ってしまっての。ヘリでもかなり捜索したのよ。全然見つからないのよ。俺だって4~5日も行ったしよ。埋まったかって穴も掘ったしよ。あのよく巫女みたいなあれ、ハッケオキ(占い師のような)っていう人がいる訳だ。ああいう人に聞いたばの、「青い葉っぱの見える所に埋まってる」って言ってそこ掘ってみたり。いろーいろやったんだ…。そして3月頃なってからだどもな、最後に「もう一回ヘリで探したい。」って話になったんだけども、防災ヘリって亡くなった人は探さないのよな。乗せもしないし。生きている人であれば防災ヘリ出動するけどもな。まだ死なない可能性があるうちは探すけれどもな。だけども、もう3ヶ月も4か月も経ってからはダメなんだ。ところがその人は鉄砲背負ってたわけだ。それで鉄砲というのは非常に危険なもんでな。放置できねぇわけや絶対。それで、「警察さ行って来い」って頼まれてや。「鉄砲持ってるから鉄砲探すためにもヘリ飛んでもらえねぇか。」って鶴岡の署長さ頼みさ言ったな。「我々は勿論近いところを探すけども、もう少し範囲を広くしてヘリで見て貰いたい。」って。

そしてヘリ飛んで貰って、我々探している上をヘリドンドンと飛んでたのよ。だとも見つからねぇのや。これでもダメだかってことでほぼ諦めたのよ。ヘリも諦めたども範囲を大きくして回ったらしいのよ。そしたら見つかったのよ。それが考えもしない、中山を奥に奥にと行ったのよ。尾根伝いにかなり奥まで行って。そしてあと力尽きたんだろうな。その人は山知らない人でねぇんだよ。そこ昔は田んぼ作ったりしてな。自分の庭のような人なんだよ。山から右に降りても左に降りてもの、降りれば川にいくんだや。真ん中の山だから。それが山沿いに奥へドンドンと行ったわけや。だから、白狐から騙されて、キレイなお姉さんから『こっちおいで。』って言われて引っ張られて行ったろうなとしか言いようがねぇんだやの。

俺もあとからその場所に水揚げ行ってきたけどもな。凄いとこだっけ。尾根の崖のとこで線香上げてきたけどもな。だからあぁいうことが山って起きるんだろうねぇ。考えられないことが起こるわけや。


佐藤征勝さん 昭和18年2月11日生まれ
聞き取り日:2023年12月3日
文責:田口比呂貴