大鳥のこと

【大鳥 山の人生】工藤定子さん

兄弟は4人。おれは長女。下の人は荒沢さ住んでたんだども仕事の都合で、おれの母親も叔父さんって足の不自由な人いたんだ。その人も全部静岡さ引っ越したなや。弟長男も病気して、70歳で亡くなった。静岡さは家はあるんだから奥さんは1人でいるし、近くさ長男夫婦がいるからそうやって生活してるみたいだ。末っ子は埼玉さいる。夫の兄弟と一緒なってるな。それも珍しいろ。下の妹が49歳で亡くなった。その子は荒沢が移転してから生まれた子。おれが小学校5年生の時に移転したの。それまでは寺の住職が先生だったな。小学校3年生まで荒沢の分校行った。荒沢に水溜まるっていって堰堤の下のちょっと小山のとこさ家移転したわけ。あと、酒田の黒森さいっぱいいったろ。堰堤の下さも10軒もあったんだぞ。

移転してからは大泉の学校さ行った。蓑帽子被って。スゲみたいなので作ったり。あそこから学校まで歩いて、鱒渕の同級生もいて。峠の地蔵様のとこで待ち合わせして。行ったり来たり。中学校の時は倉沢の山さ学校の山あって。そこさ下刈り行ったり、山さスキー行ったり。遠足もあって。小学校の時は池の平まで遠足行くな。歩いて。みんな部落毎で味噌汁作って。山菜の。春。ウルイとか椎茸とか油げ入れたりして。鍋背負って。子供だけで。

家では遊ぶ暇はねぇや。帰ってくると掃除。家の中の拭き掃除とか。親に言われるとかじゃなく自然とやったんだ。習慣だな。綺麗にはろくにされねぇども、モノ散らかっていると嫌だもんな。それがな、俺の叔父さんが生まれつき小児麻痺で。片足が動くは動くどもちっちぇんだや。短くて付かれねぇし。だから松葉杖たがえて。役場にも採用なったけども「追い付いて行かれねぇと悪いから。」って行かなかったらしい。それで家さいて、家のことしたんだ。なんでもしいる人。ご飯の支度から拭き掃除から機械から。おれの親が稼ぎ行ってる時も山さ行って。栗わらを長い鎌持って、松葉杖を脇に挟んで。外仕事もやったんだ。池の平まで松葉杖で登るあんだぞ。そうやって暮らした人がいてな。家の足しになった人や。ご飯の支度をしたり。その人と一緒に暮らしてたんだ。余計なものだとも思わないで、みんなしてヤンヤンって。

田んぼ手伝いもしたー。田植えだってしたし。沢あっとこに道あって、田んぼあったり。山さもあって、そこまで登って田んぼ作ったじゃん。みんな背中で背負っていって降ろして。中学校の時は夏なっと草刈ったのを集めて、背中で背負って田んぼの側さ置いて。堆肥にするために。でも「しろ。」って言われなくても自然としたような感じするなぁ。やりたくねぇっていう気持ちにもならねっけな。子供の頃に何して遊んだかはわからねぇ。泳いだりはした。畑は母親だかしがしっけ。親は炭焼きした人で、それも手伝ったじゃん。炭出しする時に連れて行かれっけ。窯さ入れて出して。また入れねばねぇじゃん。あと山から炭する木を竹ぞりで寄せたり。カヤで炭俵も編んだ。その脚悪い人も俵編んだりもしたぜ。縄はや、踏むとなえる機械があったんだ。太鼓みたいな形してて、藁を刺して踏むと縄になって。今は見なくなったども。

中学校卒業してから2年かと荒沢にいねぇな。就職もしねぇで鶴岡の方さ奉公さ行かせられたな。そこで農家の仕事も覚えたし。奉公人は1人だども、あと家族。そこの家の嫁と年寄2人いた。住み込みで。まず起きれば朝仕事出はらねばねぇな。あと前は田の草取りもしたんだし。田植えだけでねぇんだし。食事の支度はおばあちゃんいるんだし。休みは一週間に一回休み。駄賃貰って自転車で買い物行ったり。田んぼの仕事は里でも半年なんだはけ、冬は家さ来て。手仕事慣れたり、裁縫したり。着物縫うのを習いに田沢の寺さ入ったり。寺のかあちゃんが教えてくれたな。嫁さ来るときに持って来る物だかし縫ったじゃん。

 

大鳥には18歳で来た。大鳥さ来ても冬になると仕事無かったんだ。蘇岡発電所作ってた時に丁度来て。夏はそこで働いて。半年働いて失業保険三か月貰って。冬は、鉱山さ和裁ができる人がいてな。そこさ着物縫い習いに行って。寝間着を縫ったり。お客さん来ると必要じゃん。大鳥のおなごしょはみな行ったもんだ。俺の親も裁縫はする人だっけ。あと、毛の編み機買って。子供のセーター編んだり。裁縫、できれば楽しいんだし。着せられるろ子供さ。自分だってカーディガン編んでみたり。なしてそう農家のこともしねばなかったかと言うと夫が勤め人だから。夫の母親は婿取りでおとなしい人でもあっけども、ご飯を作るとかはあんまり出来ねぇような人だっけ。

子供は19歳で産んだんだもの。妊娠してる時も土方さ行ってて。で、叔父さんがそこの現場さ来ったなや。「あぶねぇはけ休め。」ってその人に言われて。ここの家では「休め。」って誰も言わねぇんだし。笑 土方は蘇岡発電所な。電気屋と機械屋と部門があんなや。それで俺は電気屋さつかせられた。手元だから楽だわけや。杉林道登って上水槽さ行ったり、トンネルさも入ったり。子育てしてっ時は、砂利屋さも行ったじゃん。落合の梵字川さプラントあったな砂利屋の。その後はマルミチも最初の道作りから行ったし。ベルトから降りてきたのをゴミ拾ったり。大鳥でも冬は炭焼き行ったことあっぞ。ここの家のおじいさんと行った。あそこさは4軒くらい行ったな。でもあれ、炭出しとか木出しとか、炭出して来ねばねぇっちゃ。そういう時かと行かねぇどもな。あとヨソの炭も背負って出さねばなくて。

田んぼは赤川土地改良区の苗圃あったとこのちょっと上さあった。そこでもな、土手の山手を草刈って干して。それを背中で背負って積んで、堆肥作り。春は苗代の雪消しさ行ったりや。角スコップで水あるところに投げてや。あとは牛の糞とか、藁敷いたものだかしで肥塚を作ったな。今度それを4月の節句頃、川の水出てこないうちにソリ引っ張ってだぞ。あとおらいは、東の取水口の上のとこさ田んぼあったな。道のそばだからリヤカー引っ張ったり、耕運機の後ろつけておいてそれさ乗ったり。この家が萱屋根だった時は蘇岡の奥まで行ってカヤ刈したり。広いんだし。カヤ刈は共同ってはねぇっても、みんなあるとこさいって刈ったろ。俺が昭和38年に来て、昭和40年で長男とこ産んで、その子が3歳の時、この屋根改造で瓦にしたんだ。だはけカヤは何年も刈らねかったな。

そういう仕事が当たり前やな。身体使ってコワイことしたんだし。朝仕事に山の田んぼさは20㎏の肥料背負い上げて。今度弁当作ったりしながら稼ぎさも行ってだぞ。だはけほれ、膝悪くした。人のしないコトしたじゅだ。バンドリ着ておっきいなテンゴ背負ってナメコを2回も背負い降ろしたり。茸植えもみな、朝男さんとみな共同してきたな。朝男さんだって企業局の仕事、夫が現役でいた時ゴミ取りしたり。だはけ朝男さんは兄弟みたいだって言う。

 

今度、夫が企業局辞めるってなった時、「企業局の仕事は無くなるってことねぇからこの仕事、自分でやれ。やったほうが良い。」って言われてやりはねたなや。その頃は入札も無かった。でも段々に何年か経ってから入札あるようになったろ。それで大鳥木工でやるようになったんだ。その頃はおれは縫製しったんだ。縫製やってたのは60歳より前だな。縫製だってな。ムニュムニュっていう人形を作る会社を大鳥の人が村長した時に作ってくれて、そこで働いたな。ネズミでもラッコでもパンダでもなんでも。最初は三瀬さ何か月も見習い行って。その後はアサヒニットにも見習いで行って。それから今度、熊出でニット服縫うのな。そこは4-5年はいたかもな。それから今度、大鳥木工でアサヒニットの下請けをやったわけや。まずはニット類、トレーナーとかポロシャツとかウインドブレーカーとか。ミシン使ってな。それもみんなそれぞれの部門があって、ロックミシン使う人、前立て、襟作りとか。でも何でも出来るようにならねぇばそれもできねぇわけやな。編み物は長いことしてきたども、田沢で習った編み物は縫製さは活きてねぇろ。好きだはけな編み物。でも今はや、したくねぇ。、考えてみっと、50-60年の間にいっぱいやってきたもの。

若い頃はあんまり山菜採らねぇんだし。採り始めたのは60過ぎてから。朝日屋で働く用になってからだな。ゼンマイ植えねばねくて。村長が、「わの家の山、あと山のモノはいらねぇからこの山みな根っこ採れ。」って言われて全部採って植えたんだ。山も。「こっから採れ。」って採らせてもらった。おらいの田も辞めてからはワラビが自然と増えたんだろ。植えたんではねぇや。あとほれ、川向うのおらいの田さはゼンマイ植えて。近所の人だった家のワラビも「採れ。」って言われておらいで採らせてもらってっちゃ。年なるはけワラビ最盛期なるとあげたりして。その後も塩蔵のワラビだかしちょっとずつやって、正月は餅やったりして。その山手さミズバショウあるとこで、リュウキンカとか。そうすっとそこさ熊来るなや。「昨日は来ていったなー。」とか。杉林近くの赤コゴミもヨソの家のだども、「採っていいぞ。」って言われてんなや。採るどもな、そこは雪遅く消えるんだはけ、タイミング合わねぇと採りさも行かれねぇし。赤コゴミはひとりでに増えたっけな。

工藤定子さん:昭和22年1月2日 77歳
聞き取り日:2024年1月7日
文責:田口比呂貴