
【大鳥 山の人生】佐藤ゆきさん
兄弟は7人なんだや。男が6人で、おれは末っ子。私と長男で10も離れてるな。おらいの長男はの、身体が弱い人だったなや。心臓弱かったんだな。高校ったって、鶴岡さ下宿だわけや。鶏飼う家での。日中は鳥飼いして、夜は鶴岡南高さ通って。金はねぇんだし、夜間なんだもの。今度病気なって。心臓やっぱり弱いんだはけな。働いてご飯食っていってたんだし。次男も鶴岡さ泊まって夜間の工業高校行ってたな。その後、東京の建設会社さ入って、上なったんでねぇ。海外さ出張行って、病気なってきて。身体悪くして死んでしまったな。その母ちゃんも死んだし。子供2人しかいねぇな。今も付き合ってるどもな。
だども、当時は高校に入られるのは珍しくてや。夜間でも入られねぇなや。私も高校行かなかった。三男は、おらいの親の兄弟が本郷さ行ってるわけ。それが子供いない人で、三男はそこさくれたなや。それが中々上手くいかなくての。貰い子なんだから…。それで東京さ出はって行って、向こうで仕事して。ずっと帰って来なかったな。そういうなや、昔なんだはけ。あの頃は中学校上がればすぐ集団就職や。俺のすぐ上の兄は東京さ行って、自動車の部品作るとこさ行った。四男は家で働いて山の仕事。大鳥で山師とか木伐りとか。
おらいの母親はな、本当は家継ぐ人でねかったなや。母親さ兄貴がいて、その子は特別出来た子でな。“二宮金次郎”ってあだ名貰って。それがな、本を離さない人。稲背負ってもずっと本を見て歩いてる子だっけとや。学校も出て、鶴岡の市役所さ入って。その頃炭の検査する人になったんだっけ。だはけ、本当はおらいの母親が後継がねっていいあんだども、兄が家出はったもんだから母親が家継いで。やっぱり優秀だったんだな。子供も5人ずーっと鶴岡南校入ったなや。子供しょも大学さ入って。兄弟4人が男で、1人女の子がいて。それは「お前は北高でいいぞ。」って言われて北高さ入って、大学さ入らねぇで銀行さ入って。今は70もなったからな。花の先生やってっどもな。
学校は大鳥小中学校さ。でもの、小学一年生の頃は西大鳥まで通うのが大変だからって冬は分校があったなや。今の水上神社の鳥居あっとこに脇に集会所があったんだ。その頃は「物忘れてきた。」って言うと「村一周走って来い!」って先生から言われて。それもちゃんとした先生でねぇぞ。まず、部落の中でちょっと出来た人が冬の間教えるとか。和尚さんが教えたり。本校はちゃんとした先生がいてな。当時はやっぱり遊びもしたろ。同級生もいるんだし。お手玉だかしはした。あとクルミの投げっこ。家からクルミ貰ってきて、穴掘って、クルミ投げて入っと自分のものになる。何か所も穴掘って、狙って入れるなや。ペンチもしたぞ。メンコな。あと、冬は雪穴掘って、歩いて行ってドンと落ちるようにしたんだっちぇ。落とし穴だな。そういう遊びや。何もねぇんだし。あとはソリ乗りとかスキー乗り。スキーは後ろの山から。今みたいなスキーじゃねぇぞ。長靴履くスキー。だどもフカグツも履いたもんだぜ。夏は普通のズックだどもな。
学校あがりとか休みは、やっぱりうちの手伝いだや。小学校の時はわからねぇども中学校にもなれば田んぼの手伝いやったり家の掃除をしたり。一所懸命うちのこと手伝いや。親の教育ってば、私がたのことは「頭が悪いば一所懸命働くことなんだ。」って言われて。そして一所懸命働いたっちゃや。金もなくて学校さ行かれる時代でねぇんだもの。
うちは8反部くらい作ってたんだ。実家の父親が誉谷から婿で来た人での。婿になる時に貰ってきた田んぼもあったんやな。稲刈って運んだり、稲こいたり。耕運機は無くて。牛飼ってたんだ。“キニュー”って言って、牛の肥入れる小屋もあった。俺はやんねぇども、ナギノもやってたな。カブラだかし蒔いたじゃん。新潟地震来た時、親たちはちょうどナギノしてたな。「地震来た!」って、山が揺れっけとや。見たばダムの水が凄かったとや。ダムの水が揺れたとや。原木ナメコの菌植えもやったよ。朝日屋さ嫁なってからも植えたし、採りさもいった。その頃はすんごく採れたんだや。お金貰ってキヅケ取りの手伝いして。だはけ「ナメコ採って嫁衣裳くれられた。」って言ったもんだ。採った分は農協で買うからみな持ってきて。そこでキヅケ取って。そこさ缶詰工場あったんだ。凄かったよなぁ。あと椎茸も作ったぞ。冬仕事で椎茸工場って作って。
中学校卒業した後はうちの手伝い。夏は百姓して、冬は針仕事習って。西大鳥さ、鉱山さ千葉先生って裁縫教える先生がいたんだもの。その人の旦那が鉱山で働いて、自分は裁縫できて。それみんな習ったんだもの。だからまず、縫い物はそれで縫えるようになったんだよ。私は浴衣縫ったり、ちょっとした着物縫ったり、綿入れのハンチャ縫ったり。重ね着みたいにするやつ。冬はそういう針仕事したんだ。私たちみたいな若い人たち、10何人もみな習ったぜ。やっぱりそれ覚えねばなくて習ったんだ。普段家で着るんだし。寝巻も縫ったしの。綿だかしは買って。服が簡単には買われねぇなや。金ねぇば買われねぇんだし。だから親は習わせたくて、素材を買ってくれるわけや。私がたの年代はみんなやってる。私は裁縫が得意、って言うか好き。今はみな忘れてなにも縫われねぇどもな。そして、朝日屋のお婆ちゃんは何でも出来る人なんだ。編み物は出来る、頭は良いもんだし、敵わねぇあんや。子供さセーターもみな編んで着せて。裁縫は嫁入りのたしなみなんだな。母親の頃は機械ねぇから手編みや。私がたの時代になると機械で編み物になった。流行りだったもん。その機械、最近うだったどもの。息子らがちっちゃい時に編んで着せたんだ。セーターも編んだしズボン下もや。それは冬に鶴岡に下宿して習ったな。2冬か習った。
そこさいた時に車の免許も取ったな。大鳥からは通えねぇんだし。これからは車の時代だってことでまず免許くらいは取って。でも今は全然出来ねぇどもな。最初、嫁なって来た時はちっちゃい車あって、運転してたなや。ほれ、児童館さ子供を送り迎えしったなや。そうして運転しったども、朝日屋が忙しいろ。そうするとお爺ちゃんばっかりするんだ。買い物もおじいちゃん。「ゆきは商売覚えてもらわねばねぇ。」って。あとうちから全然出はられねぇわけや。子守はおじいちゃんとおばあちゃん。「おいらするから。」って。そういうもんだっけもの。家からひとっつも出はらんねぇ。
裁縫はおもしろいっけ。私はや。裁縫が好き。朝日屋さ嫁なって来てからも浴衣なんか何枚も縫ったぞ。だども、朝日屋のお婆ちゃんに嫌がられたもんだ。お婆ちゃんがな、襟擦り切れるほどお客さんさ着せるわけや。それが私は嫌での。そんな古しいのは着せたくなくて。お婆ちゃんも裁縫、得意なんだもの。そうして私もそれ一所懸命縫ってて。それ着せてっと、「私の縫ったのゆき全然使わねぇ。」って。そういって嫌がられた。笑
私は22歳で結婚したな。結婚する前は鉱山の診療所が寿岡さあって。そこさもちょこっと働いたことある。ちょっと掃除のお手伝いしたりな。実家も掃除したり、ママざめしたり。そういうこと手伝ったんだもの。あと、私だって古しい道で大鳥湖さ何回も草刈り行ったぞ。横松上がってや。以東岳までも、狐穴までも行って。手鎌で。チェンソーや草刈り機はねぇんだ。そういう昔だもの。食堂さ写真あっちぇ。
私は身体使う仕事は得意だやな。ほれ、とにかく足が。歩くあんも走るあんも速かったしな。走ることは得意だったんだ。中学校はバレー部だったんだ。好きだったんだ。あと跳び箱だかしは得意。んだはけ運動会っておもしいんだっけ。大会っていうと大鳥から朝日中学校行くろ。リレーだかし出はったんだもの。
朝日屋も昔は登山者いっぱい来てたわけや。50人も60人も売店さゾローって並んで。学生のワンゲルだかし。高校から大学まで。だって臨時バス来るんだもの。朝日屋も売店もやってたんだし、タキタロウサブレ作ったりして。土産も売れるんだもの。あまりに忙しいもんで。だはけ、2人も頼んだんだ。鉱山からも40も過ぎた人、2人も頼んだことあったし、倉沢からも山形からも頼んだことある。それがな、今の家は店だけ。駐車場のとこさ旅館あったから、行ったり来たり。私がた走って歩いて。「あぁ、きた!」って。でも、私足速いんだはけの。上がったり下りたり。古しい家だって何十人も泊めて。私はの、大鳥湖さも草刈りで何年も行ってるろ。だから良いわけや。どこさ水場あるとか、狐穴の前さ水場あるよとかってわかるわけや。だから聞かれてもわかるわけや。全然行ったことも見たこともねぇと、登山者から聞かれてもわからねぇわけや。全然知らねぇば話なんねぇぞ。釣りだってそうだしな。
釣りの人は60年も前から釣りは来てたもんな。あの頃から神奈川からとか東京都庁からとか、釣りで大鳥を覚えて来たっけな。今来てる常連さんはその後。古い家ではなく、今の朝日屋になってから。工事関係の人も良く泊まったなー!ほら発電所造ってたんだし。その前も来てたんだ。だはけ、大鳥は暮らしは良かったなや。山奥でも、大鳥は良いなやの。やっぱりお客さんが様々な人が来るからな。私は部落に出て働きもしないし。お客と接してるばっかりだからな。ご飯作ったり。
だども、昔も冬はお客も来ねぇし、朝日屋の仕事はねぇんだ。最初はお父さんは庄内交通だから、冬は2冬くらいは鶴岡さ行ったもの私も。長男がちっちゃい赤ちゃんの時にな、連れて行って。春から秋は大鳥さいて。私は手間取り出て稼いでってことはなかったもん。旅館は人いねぇばできねぇ仕事なんだ。だからずっと私は他の人と一緒に働いてきたわけや。
朝日屋はお爺ちゃん、お婆ちゃんがいて、私がた夫婦いて、息子が2人いて、旦那の弟がいて。それに大鳥の人も働きに来てて、子供も一緒連れて来てるんだ。だはけおらいは「保育園しったかー?」って言われてな。子供がたはみな一緒遊んでた。あと魚屋の子供もいた。とっても賑やかで。だからな、あんまり商売は大変でな。長男とこ継がせたくねぇなと思って育てたんだ。跡取りさせたくなくて。学校さいれたら銀行さでも勤めさせろうって思ってた。だども長男はその頃から「俺は後継がねばねぇからって勉強しねぇったっていい。」ってや。学校の先生にも「南校さも入られるよ。」って言われたんや。でも、「勉強する気ねぇ。」って。
朝日屋のお婆ちゃん料理好きでねぇ人。お爺ちゃんは好きだったなや。だからほれ、お爺ちゃんが炒飯作ったりカツ丼作ったり、青コゴメ炒めたり。みんなおじいちゃん作るんだっけ。そういうのもお客さんさ出して。だはけおれは嫁なって来た頃からこう言われたな。「ゆきには商売を覚えてもらわねばねぇ。子供は私がたが育てる。」って。商売っていうのは料理な。その時はやっこ(=旦那の弟)がいたろ。料理が得意なんだはけ、一緒やってれば少しずつわかっちゃん。天ぷらでも煮物でもな。だはけお爺ちゃんには褒められたんだ。「ゆきは早くて良い。」って。私は山菜料理が好きで、まず何でもすっちゃな。赤とか青とかこごめ、ワラビとかウドとか。天ぷらでも何でも出来る。うちさ来るお客は都会料理を求めてこねぇ人なんだ。山菜料理を求めて来るんだろ。
そして旦那と一緒で、お婆ちゃんは丁寧な人。人がご飯食べるようになってからも料理ができてねぇわけや。めんどくさくて。それが美味しいば良いども、料理が下手だ人だっけ。私ははえーろ。パッパと出すんだし。「ゆきは早くて良い。」って言われっどもや。お客さんには間に合うように出さねばねぇっちゃ。めんどーくさくてや。合わねぇな。
だけれど、お婆ちゃんは掃除には厳しかった!「お客はな、暇で、寝ると天井見る」って。だはけそこを綺麗にしろっていう意味や。あと風呂もんだっけ。俺が掃除してると「それではダメだ。」って俺のタワシ取って「こうやってしろ。」って。あの頃は掃除機もねぇっちゃや。「こういうところは箒を立てて掃け。」っておれの箒を取って教える人。厳しい人だなや。仕事に対しては厳しい。でもろくでなくしたり、根性悪いとかそういうのは全然ねぇ。「自分に厳しく、人には優しくしろ。」って教えだっけ。だから、着るものも一切買わないで、「洗濯すればなんぼも着られるから、人さは良くしてやれ。」って。自分には厳しく生きろって。そう厳しい人だぞ。おばあちゃんは元々は商売人でねぇ。奉公でどこだかの家に貸してやられたんだと。だから自分は厳しく人さは優しくしろって言われたんだ。
実家のお婆ちゃんは、誰か来るとすぐ料理して食わせる人だっけ。「食べてけっちゃ。」ってすぐ言いたい方だもんな。誰にでもだぞ。だはけ私は実家のお婆ちゃんに似たかもしれねぇ。すぐ食べさせたくて作って。そういう人だっけ。だはけ、おれは実家の婆ちゃんに似たなや。おれの弟が朝日屋手伝い来てるろ。「ゆきはバンバとおんなじなった。」って言う。来た人さ誰でも「お茶飲めー。」とか。自分でもそう思う。おらいのバンバ、そういう人だもの。おれも誰でもかせたり喋ったり。ひとりでにそういう風になってしまったな。「まず一服せっちゃっ。」とかって話をしたり、飲ませたり。なにか作ったのを「食べてみれっちゃ。」って。んで、「うめぇな。」って言われるとそれをくれたりして。だからお客さんさ送ってやる漬物の量はスゴイのよ。親戚にもみなやって。「喜んで食べた。」って言われるとまたやりたくなって。美味しいって言われるとまた作ってやんなや。まんずーいつまで続くかなーと思う。わも年なってきたからな。でもされるうちはしてぇなぁーって思う。いつの間にか客商売が向くようになったんだな。
実家のおばあちゃんはあんかけが得意。俺そのあんかけってそんな好きでねぇあんや。朝日屋のあんかけ豆腐は長男が今手作りしてるぞ。嫁も分業して息子に習ってや。私もできるども、あの人しっからなるだけしないようにして。この前も忘年会した時も息子がみなしたんけっちゃ。「おめぇ作ったものなにあるや。」ってけ、おれとこ。「なにや、って俺ゼンマイだかし作って。朝だって山菜みな俺したっちゃ。」って。笑
佐藤ゆきさん:昭和22年11月28日
聞き取り日:2024年1月17日
文責:田口比呂貴