大鳥のこと

峠がつないだ集落-大鳥と山熊田-

プロローグ

大鳥は、※注1鎌倉時代初期に平家の落人の工藤大学が伊豆国伊東から相模の国田中の森、越後国高田城を経由して大鳥へと落ち延びてきて、開村したという伝説がある。
その後、戦国時代までの約350年間、落ち人の隠れ里として庄内方面との交通は全くなく過ごしたが、塩、味噌その他生活物資を得るために越後国岩船郡へ通じる山路を切りひらき、僅かにこの方面とのみ往来した。
※注1 関連リンク:『大鳥創村の伝説 -鎌倉時代初頭、山奥に大鳥村を作った工藤大学の物語-

上の図は落ち延びる際に通ったであろうルートを、地形をみながら想像で作ったもの。工藤大学とその家来が高田城下に潜んでいた頃、岩船郡荒川村出身で金山見立て役の人が「出羽庄内を流れる大きな川の上流に広々とした原野がひらけている。そこは落ち人が隠れ住むに大変適した場所である。」と伝え、一行は大鳥へ移り住むことを決意したという。荒川村出身ということで、現在の村上市北部の山々には明るかったことだろう。

その後、大鳥に移り住んだ人たちは戦国時代に庄内武藤家の出百姓となるまで隠れ里として暮らし、表社会に出ることはなかったという。

幻の塩の道

大鳥は山々に囲まれているが、戦国時代に庄内へと門戸を開く前まで、生活必需品の塩をどこから手に入れていたのだろう。集落の人が言うには、“幻の塩の道”と称される山道があった。

大鳥の松ヶ崎集落から西方へ約12km、桧原峠と二ノ俣峠という2つの山を越えたところに山熊田集落(新潟県村上市)がある。山熊田では、江戸時代以降は塩木(ショッキ)という、を生業の一つにしていた。いわゆる木流しのことで、ブナやナラなどの広葉樹を山で伐って玉切りし、沢に堤を作って水を溜め、増水期に堤を払う。川の流れ利用して一気に丸太を沿岸部へと運搬し、薪木と塩と交換していたそうだ。江戸期以前も山熊田は塩を必要とした※注2,3だろうし、そのような生業が行われていたのであれば、庄内方面との往来を絶っていた大鳥にとっては渡りに船であっただろう。

時代は下り、明治維新の頃。戊辰戦争で庄内藩が幕府側として新政府軍と戦っていた最中の8月26日に、越後方面から攻め入った新政府軍20~30人が防備の手薄な大鳥を襲った。家々に火をかけてまわり、※注4松ヶ崎32戸、寿岡17戸が全焼。幸いにも村民は事前に全て山中に逃げ込んでいて※注5一人も犠牲者がいなかったそうだ。この時、新政府軍は二ノ俣峠を越えて庄内領に入り、桧原峠にあった番小屋を襲って大鳥農兵(猟師)に大鳥までの道案内をさせた。内戦中はともかく、無断越境禁止の江戸時代であっても往来の道が活きていたことが暗示されている。そして、戊辰戦争以前にも特に松ヶ崎との通婚はあったそうだが、戊辰戦争以降は行き来が少なくなったとも言われている。調べてみるほどに山熊田は大鳥にとって大切な交易地であり、近代以降は行き来が盛んだったことからも、きっと古くからの繋がりがあったのだろう。
※注2 山熊田という地名が史料に初出するのは慶長2年(1579年)の「越後絵図」だが、それ以前は鎌倉時代に平家の落人が落ち延びて開村したという伝説が残っている。
※注3 幕藩体制下では山熊田へ越境して交易した資料は見当たらず、塩は庄内藩から手に入れていたものと思われるが、塩木が江戸期以前から行われていたならば…という推測に基づくものである。
※注4 別の資料には『大鳥村の内、角間平 (松ケ崎)三十二戸、椈平(寿岡)十九戸が焼打にあった』とある。
※注5 大鳥の80代の古老が若い頃(昭和30年代)に当時95歳の親戚のお婆さんから聞いた話:「戊辰戦争の時に軍がきたから女子供は裏山に逃げろと言われ、一晩山で過ごして寒かったという記憶がある。」

近現代の大鳥と山熊田の交流・交易

明治以降、大鳥から山熊田、山熊田から大鳥へと咎めなく行き来できるようになった。近世/近代の文書資料が乏しい中ではあるが、戦中・戦後を生きた古老たちから大鳥と山熊田の往来の軌跡をいくつも聞くことができた。

<大鳥―山熊田 往来>

・婚姻関係を結ぶ
大鳥―山熊田間で婚姻関係を結んだ人たち※注6がいる。親戚関係となり、お盆などに大鳥―山熊田を行ったり来たり、子守をしに山熊田へ行ったという話もある。倉沢から山熊田へと婚姻関係を結んだ人もいる。
※注6 山熊田はほとんどが大滝姓で、大鳥の松ヶ崎/寿岡集落にも大滝姓が多い。
     関連リンク:『松ヶ崎集落-越後との交流・交易の起点-

・いつから始まったのかは定かではないが、2010年頃まで大鳥と山熊田の猟師たちが年に一度、互いを行き来して交流会を行っていた。

<大鳥から山熊田へ>

・盆過ぎに山熊田の浅間神社へお宮参り
大鳥の女性が「子供を授かるように」と願掛けをしにお神酒を持って山熊田の浅間神社へ行っていた。お神酒などを山熊田の母ちゃんがたに飲ませたりしていた。昭和30-40年頃までは仲間で誘い合って日帰りで行ったという。

・山熊田の子安観音様、地蔵様で安産祈願
安産祈願をする観音様で、主に松ヶ崎の婦人たちが日帰りで山熊田へお詣りに行っていた。ご馳走と酒を持って行き、山熊田の人と賑やかに交流をしていたそう。婦人たちは御祈祷してもらい、その燃え残り蝋燭を頂いて帰ってきた。お産の時、このロウソクが燃え尽きるまでにはお産が出来ると信じられていたので、なるべく短い蝋燭を頂いてきたという。

・昔、大鳥が酷い日照りで稲の苗が全滅なほど悪かった時に、山熊田から苗を貰った。大変な恩義がある。

<山熊田から大鳥へ>

・大鳥鉱山の薪伐り
山熊田の人が大鳥枡形鉱山の社宅に寝泊りして、山仕事をしていた。

・農作業の手伝い
田植えや養蚕の桑の葉採り作業など人手がいる作業に山熊田の人を呼び、手伝いに来てもらっていた。

・熊狩り遠征での食料調達
山熊田の熊狩り衆は獲れるまで帰らないくらいの勢いがあって、一週間も泊まり山を行うことがあった。お米を一升と現金を持ち、2日目・3日目に大泉鉱山に寄って米味噌醤油などを購入。野営しながら三面方面まで狩場を伸ばしていた。

・伐木の仕事
桧原林道でパルプ用の雑木伐木や、スーパー林道での伐採の仕事に行っていた。 

集落を繋ぐ山道

大鳥と山熊田は、桧原峠-二ノ俣峠という2つの峠を越す山道で繋がっている。全長約12㎞の山道で行程も長く、大鳥側の勾配は緩くない。※注7実際に歩いてみると片道約8時間かかった。1日掛かりの大変な山道と感じたが、昔の山人はとにかく足腰が鍛え抜かれていた。大鳥の人から聞いた話では、昭和40年頃までは片道2時間半で大鳥から山熊田まで行った人がいたそうだ。当時も車で行くことはできたが、車より山越えのほうが10分早く着いたんだとか。別の話では、『鉱山を早上がりして山熊田へ出掛け、琵琶で浪花節をベンベンと弾いて聞かせて呑んで、朝方に帰って来てまた仕事に行った。』という。大抵の人は日帰りで往復したらしい。凄すぎてにわかに信じがたいが、昔の山人は熊狩りでもぜんまい採りでも炭焼きでも、現代の感覚では信じられないほど遠方まで歩いて行っていたのもまた事実である。『大鳥から三面まで山を越えて釣りにいった。』という文献を読んだ時は、驚くしかなかった。
※注7 民俗学者の宮本常一も山熊田から大鳥へと、この山道を歩いていた。『宮本常一著作集36-第三部 葡萄山北民俗探訪記-』を参照

大鳥から山熊田へ

大鳥の松ヶ崎集落から西側に見える、稜線の鞍部になった箇所が桧原峠。そこを目指して集落外れの杉林、沢筋にあるかつての山田を越え、つづら折りの山道を歩くとブナ林に出る。緩やかな登り坂で、現在は柴木が生い茂っているが良い道がついている。昔から炭焼きや栗拾い、植林、学校の遠足などで使われてきた道だ。集落から1時間ほどで桧原峠の頂上に着く。そこからは川の音が聞こえる桧原川へと向かって、少し急な斜面をトラバースしながら下り、植林された杉林の中をジグザグに降り、沢なりに少し歩いたら桧原林道に出る。林道沿いに上流へと登っていくと、松ヶ崎集落の人が植えたという栗林がある。猿がよく来る場所である。その先、ススキが生える開けた場所を抜けると右へ曲がり、二ノ俣沢橋で一休み。昭和56年に架けられた橋で、欄干が錆びて朽ちているので腰を掛けるには注意が必要。そこからは二ノ俣沢沿いに林道をひたすら登っていく。左右は杉が植林されているが、大鳥の人たちはかつてこの辺り一帯で冬に炭焼きをしていた。深雪の中、炭俵を2-3俵背負って桧原峠を越え、集落へと歩いていったそうだ。想像するだけでも大変な重労働である。橋から30分ほど歩くと、少し広くなった“車止め”に出る。※注8ここから先は、左手から流れ来るウマノセ沢を沢なりに登って行き、途中で尾根へと移る。この尾根には、かつて往来が盛んだったことを教えてくれるように、何本ものブナの木に文字が彫られている。急登だが、天気がよければ眺望は素晴らしい。尾根道を1時間ほど登ると突然なだらかな地形に変わり、蔓が多く、シダ系植物が生えている場所に出る。そこには、休んでくださいと言わんばかりに清水が湧き出ていて、喉を潤して一息つける。そこから先はトラバースと急登が連続し、途中、キノコが出そうな倒木を見ながら頂上付近に来ると、湿地帯が現れる。昔、ここでワサビが採れたと大鳥の人に聞いたが、今はないようだ。そこから間もなくして、県境である二ノ俣峠に辿り着く。ここまで、ウマノセ沢入口の駐車場から約2時間半。天気が良ければ峠から東に日本海や粟島、北に荒沢ダムが望める。
※注8 令和6年11月現在、車止めから二ノ俣峠(県境)まで所々にピンクテープが枝・木に巻いてある。二ノ俣峠から山熊田側も、山熊田林道終点までピンクテープが所々に巻いてある。

頂上から山熊田への道は比較的緩やかで、ひたすらブナ林の中を歩く。辺り一面がブナの木で、樹齢数百年の巨木を何本も拝むことができるが、歩きやすさと相反して景色が似ているので、初めてであれば迷いそうになる。あちこち細い柴が立ち、くぐるような恰好をしながら途中一か所、小さい沢を越えなければいけない。その先、小さな池を横目に過ぎると急な斜面をジグザグに降りていく。降りるほどに川の音が大きくなり、砂防堰堤が見えてくる。頂上からここまで約1時間半。沢沿いの道を下っていくと草刈りをした跡があり、道幅が広がり、川向こうには熊の巻き狩りをするに良さそうな山もある。30分ほど歩くと林道山熊田線の終点に着いた。車が10台も置けそうな広いスペースとゲートがあり、少しホッとする。林道山熊田線は金剛川に沿って道が走っており、山側の斜面からあちこち滝が流れている。大鳥にはあまりない景色。険しい斜面の山腹を切り開いて作られたようで、川に落ちたなら大怪我では済まないほど急である。1時間ほど林道を歩くと、舗装された大きな道路に出る。道路脇にはナメコのほだ木が並べられていた。もうすぐ、山熊田が見えてくる。

松ヶ崎集落。稜線の中央部、鞍部になっているところが桧原峠。

桧原峠から見える寿岡集落

二ノ俣沢橋。欄干はあちこち朽ちている。

ウマノセ沢から尾根道へ。

 尾根道には何本もの木に、「大鳥へ行く」などと掘られた文字がある。山熊田の人が掘ったのだろうか。

県境、二ノ俣峠から見える山形県側の景色

山熊田へ向かうブナ林にて

ブナ林だらけで景色が似ているので迷わないように注意が必要。

山熊田側の林道終点

山熊田集落

山熊田との再会 山道の調査から今まで。

「昔の人が歩いていた山熊田への道を歩いてみたい。」

単純で純粋な冒険心が大鳥人の心を焚きつけ、山道調査が始まった。ある時は残雪期の4月に、ある時は冬の到来前に。松ヶ崎から桧原峠を越えるルートを確認し、そこから桧原川へ降りる。そして二ノ俣沢からウマノセ沢の尾根道を探した。大鳥の古老たちから山熊田との関わりや二ノ俣峠にまつわる話を聞いたり、大鳥長寿クラブの研修で山熊田へ行ったり、逆に山熊田の方々に来てもらって交流会も開催した。

初めは地元有志で山道を探し、仲間うちで盛り上がっていたが、気持ちが膨らむにつれて活動を少しずつ大きくなっていく。協議会を立ち上げ、地元から寄付や、自治体からの補助、森林管理署に申請して山道整備ができるようにして、草刈りや枝払いなどの作業も地元の方々を中心にして行った。古道復元への力の入れようは、この道の所縁の深さを感じさせる。山道整備もある程度目途がつき、県境までのトレッキングイベントを実施しようとしていたその矢先のこと。豪雨によって林道が崩れて車の通行ができなくなってしまった。
※補足9 令和2年7月の豪雨によって桧原林道の入口手前が崖崩れ(→令和5年に復旧)、令和4年8月豪雨によって桧原林道入口より500ⅿほど先の道路が大きく崩落してしまった(→こちらは現在も未復旧)。さらに、令和4年12月下旬の着雪で倒木があちこちで発生。桧原林道上でもかなりの本数が道に覆いかぶさった。

以来、桧原林道の整備は行われなくなってしまい、倒木があちこちから覆いかぶさり、何とかひと人ひとり歩けるほどの荒れ果てた道路になってしまった。これまでの二ノ俣峠道の草刈り作業に加えて、草刈り機などの荷物を背負って往復4時間超の徒歩移動が加わる。その上、協議会メンバーも高齢化が進み、作業できる人が少なくなっていた。令和4年秋、メンバーを募って桧原林道から歩いて行き、ウマノセ沢手前から二ノ俣峠までの山道を草刈り作業をしてみたものの、早朝に出掛けて夕方に帰って来る始末。大変な労力が掛かり、メンバーの特に高齢者には荷が重いことを感じざるを得なかった。「翌年からどうしようか…。」と悩んだこともあったが、自治体や新たな協力者の支援が重なり、山道の維持管理作業は続けられることに。紆余曲折がありながらも、令和6年11月に大鳥住民を含む有志ら3名で※桧原林道から二ノ俣峠を越え、山熊田に行くことができた。山熊田でさらに大鳥の人たち、山熊田の人たちと合流して交流することができた。
※補足10 松ヶ崎から桧原峠を越えて桧原林道に降りる山道が本来のルートであるが、そちらは私有地を通らなければいけないこと、倒木があちこち倒れていたり、ヤブになりつつあることもあり、今回は桧原林道を通っての県境越えをした。

地元の記憶に残る、最後にこの道を歩いた人は寿岡集落の三浦義行さんという方。大鳥小中学校の用務員をしており、学校の先生を連れて山熊田まで歩いたそうだ。今回、県境を越えた先でその人が刻んだ木に出会った。木には山越えした日付と、同行者の名前が記されていた。何十年越しの山熊田行きが叶った日、その木を見つけることができたのも単なる偶然ではなかったのかもしれない。

役場の方々と一緒に県境まで山道調査

2019年春、山熊田の方々が大鳥に来て交流会をした

地元の方々と山道の整備

晩秋、雪に降られながら柴切り作業を行った

令和4年8月の豪雨で、桧原林道の入口付近が大きく崩落してしまった。

現在も山道整備の作業は続けられている

県境を新潟県側へ越えて間も無く、「昭和四十九年 三浦義行」と彫られた木がある。

大鳥から山を越えて山熊田に行ったのは、約50年ぶり。山熊田の方々がとても暖かく迎えてくれた。

この山道は、過去には大鳥と山熊田の交流/交易で頻繁に往来があり、古くは大鳥の生活を支えたかもしれない幻の塩の道だった。時を経て、現在は峠を越えずとも車で行かれるようになり、双方の関わりの記憶も薄れてきている。しかし、山熊田集落では春と秋の年2回、山熊田から県境の二ノ俣峠までのトレッキングイベントを行っているそうだ。大鳥で復元した二ノ俣峠の道もまた、多くの人たちに歩かれて欲しいと願っている。

山が隔てていようとも、過去にあった交流の記憶が結びとなって、今に活きている。大鳥に住んでいても、山熊田のことは他人事でない気がする。この道が繋げたご縁を感じられるだけで、大鳥に来てよかったと思う。

■参考文献
「村報あさひ」山形県東田川郡朝日村
「朝日村史(上巻)」朝日村史編さん委員会
「旧田沢組大鳥外村創村記」工藤孝蔵 著(明治26年)
「南部地区(旧大泉村)の歴史と伝承伝説」山本講座
「湖底の青史」佐藤松太郎 著(昭和30年)
「大鳥部落覚書」庄内民俗学会 五十嵐文蔵、佐藤光民(昭和32年10月、昭和34年7月の庄内民俗より転載)