大鳥のこと

【大泉・朝日 山の人生】 齋藤常男さん

生まれは松沢。齋藤家の実家が松沢にあって、おらえの孫婆さんがそこから嫁いで来て、その家が待場に引っ越ししたのでその家に入ったんだ。家は百姓だども、ほとんど田元が無かったんだ。ただ孫婆さんが嫁いで来た時に田元を多少もらって、今あるので五反歩くらい。家も複雑で、孫爺さんの父親が早死にしてるんだな。そして近くから婿が来た。爺さんの父が死んだから松沢から婿を貰ったわけ。それとあまり合わなくて外さ出て行って。樺太で炭焼きを覚えてきたんだとや。昔の炭焼きってのは、石窯だども一間×一間くらいの小さな窯なんだ。だども孫爺さんは一間半とか3mくらいのおっきな窯を作ったんだ。普通、それにハチ掛けると、ベタっと潰れっちゃん。そうならないやり方を樺太さ行って覚えてきて炭焼き本気なって。炭焼きはまず年中やったんでねぇかな。俺の親父と親父の弟を連れて。
※ハチ掛け:窯の天井を掛けること。具体的には側面を石積みし、その中に炭焼きをする木を立てて入れ、その上に筵をかけ、その上に土を被せる。窯のサイズが大きいとその分天井も大きくなり、潰れやすくなる。

親父は農家っていうか。五反部だって機械の無い頃の五反部は大変だわけや。家さ牛がいて。松沢では一軒くらい馬飼ってた家もあったらしいが、ほとんどが牛。まずは耕運機代わりだわけ。俺が産まれた頃にようやく耕運機が出始めて、まだまだ珍しい頃。牛食べた糞尿はみな堆肥にして。冬なるとソリでみな運んだわけや。雪の上さ道作って山さ運んで。ほとんどが山田だったわけやな。家の近くは苗代とか。大した面積ねぇんだし。基盤整備する前なんか、猫の額みたいな田が山さテンテンとあったわけや。俺が中学生の頃からはバインダーで稲刈って。一束ずつパタンパタンって倒して杭さ掛けたりするんだはけ。子供からみな総出で。稲の束を集めるのが子供の役割。

小学校は松沢分校があってな。2年生までは年中分校、3年生からは冬だけ分校で、春から秋は1時間くらい上田沢の本校までみな歩いて。保育園通いだって最初の頃は部落から県道まで親付いていくもんだけども、しばらくしたら子供だけで行くなや。そして県道からバスさ乗って。俺と一個下の二人で通ったけども、道草しながら行くんだから、バスに乗り遅れた時あってや。県道からしばらく行くと川端にケヤキの根っこに遊び場みたいなのがあんだやな。そこで半日遊んで、保育園行ったフリして帰って。そうすっともう一人の家の母ちゃんが教育熱心で、日報みたいなのに『保育園に来ました』って印がねぇんだから、保育園さ電話か何かあったんだろうか。それで、「今日休みましたよ。」ってバレてしまって。「何してきた?!」って。ごしゃがれた思い出が未だにある。

冬は当番で集落から県道までカンジキで雪を踏んで道を作る当番があったわけ。二人くらい毎日。毎朝6時前とか早く道付け。行って帰って来るだけだからどっそどっそって歩くわけ。でも、雪降るとカンジキの跡がわからなくなる時があるわけや。その跡をずらすとズボって足抜けるんだ。子供らは長靴で。かんじき履かねぇ。小学生入る前はワラグツって履いたもんだかな。小学校2~3年生頃からブルドーザー来るようになったな。でも、集落の入口までしか除雪しなかった。集落の中はブルの雪やるところねぇわけやな。

俺が松沢さいた頃は28軒あったな。今は9軒。学校の先生、役場勤め、農協勤め、あとはほとんど百姓しながら冬は出稼ぎって暮らしだったんでねぇかな。出稼ぎ行かない人は細々と炭焼いて。どういう経緯かわからないが、うちの分家さ八久和から嫁きてんなや。そういう関係もあって八久和を覚えたんでねぇかな。うちは八久和で炭焼くんだから泊まりがけなんだし。俺は炭背負いの手伝いしたことねぇな。そして、松沢には山があと無かったなや。ある程度山の奥まで炭焼きして。ブナの原生林はよくよく奥さいかねぇば無いわけや。ただ奥のブナ、払い下げしないブナ林は太いっけもの。群境の大峰までは行かなかったんだろうな。でも、その下さもあちこち窯場はあるんだ。何軒かは松沢の山で細々とやってたけども、大規模にやる山がなかったわけや。それでうちは八久和の国有林払い下げてもらって。木、なんぼでもあっちゃん。松沢でも八久和さ行って炭焼いたのはおらいの親父、爺さんくらいだんねぇ。

杉の植林は近くても集落から歩いて1時間。まとまった場所は公社造林。集落で国から土地借りて。そこさ自分らで植えて、下刈りして管理して。それが60年、80年経って伐期なったんけども。近年は手入してねぇし売り物にならないような木しかねぇわけ。仮に道路作って出したって入札して買い取る業者もいないって。二束三文で全然恩恵ないっていうか。木材が高ければいいんだろうけども…。

うちの山も植林した。一時期トイレットペーパー無くなったって時代あったじゃん。昭和49年頃。その頃にパルプ用に雑木を買う業者がいたわけや。「この山の雑木売ってくれ。」って100万とか200万でって、売ったわけや。したらオイルショックが落ち着いて、今度はパルプの値段下がって間に合わなくなったとや。契約終わって金は貰ってて2年以内に伐る契約だったんけども…。「もう一年延長待ってくれってもう一年…。」って2~3年待った。でもおらえでは金貰ったんだはけ茅葺きからトタン屋根になったんだ。

おらいは貧乏なんだはけ、高校は夜間の定時制さ行ったなや。日中は繊維関係の会社さ行って。高校4年間は給食を食べに行ったようなもんだな。ろくな勉強はしねぇ。ただ、バイクの免許は17~18で取ったんだっけかな。ホンダのCB450買って。中古だば10万ちょっとで買えた。暴走族の盛りの頃だもんだ。グループはないけども、夜中9時過ぎまで学校だろ。それから酒田行ってみたり。あと高館山は七曲りの坂があんだや。今日は40秒で登ったとか。それが1~2か月ブームなって。よく誰も死なねぇっけ。ただ、夜なんだはけライトで対向車はわかる。バイクで死ぬかと思ったこともあったんだ。友達が750ccの水冷のバイク持ってて。それ借りてや。すごいんだ加速が。アクセルグッとひねるとすぐ100キロなるわけや。その時に対向車でバスが来て。足のブレーキなんか踏まれねぇっけもの。「制御できなくなるかな。」って思ったらアクセル戻せたっけども、あの時は死ぬかと思ったな。

高校卒業しても繊維の会社さ1年はいたかな。その後に防水屋の仕事。余目に本社があって、鶴岡に営業所出すって募集かかって。仕事内容は全然わからないけどもやりながら覚えて。3~4年はいたかな。次は同じ業種で櫛引の会社さ移って、5年くらいいたかな。そこで新築工事の時に開放骨折してや。保険金が入ってからも3か月か半年かいたかな。んで、防水屋で独立しようってことで30歳の時。

独立してからの仕事はほぼ鶴岡市内だな。朝日でもちょうど村営住宅建てる頃でや。名刺配りながら「させてくれ。」って頼んで。6棟だか建ったうちの4-5棟はやったんねぇかな。その時にある程度大工さんを覚えて。あとは大きい防水屋の下さついたりトタン板金屋とか、そこから仕事貰うような。その頃はトタンじゃなくサイディングっていうかセメント系の練り物が流行り始めた頃でや。それを施工するとジョイント部分さ必ずコーキング必要だわけや。ちょうどその波さ乗ったのも良かったしな。あの頃はサイディングが7-8割。家が建てば割と仕事あったなや。一時期は4-5人も人雇ってたけども。とにかく仕事は出来るけど、仕事を取れるか取れねぇかが問題だわけよ。まぁあの頃、この業界は忙しかったな。

 

熊の胆は昔からおらえさあった。爺さんが熊獲りしてたんだ、八久和で。そもそも孫爺さんの母親が名川から来た人なんや。そこもマタギしてたんだかな。孫爺の妹は本郷の人に嫁ぎ。その家の爺さんも鉄砲撃ちで八久和さ熊獲りしてるんだっけ。

おらえでは孫爺さんと親父の弟が鉄砲持ってたんや。でも、松沢で熊獲るっていう文化がなかったんだ。春に炭焼きしてた時にたまたま見つけた場合は、その辺の有志が集まってやってたけども。だから倉沢も松沢も、大泉の人たちは八久和さ行って熊獲ってたわけ。八久和さもおらえの分家さ嫁きた家の主が親分みたいなのでいたんだとや。で、それも親戚なんだはけそういうとこから熊獲りを覚えたり…。で、ある程度金なったわけや。毛皮とか熊の胆とか。だから春はそれしたんだろうと思うけども。大泉の人が八久和さ行かなくなったのは、あと本郷の人らと山分けてしまったんだはけな。本郷の人が八久和さ熊獲り行くようになったのは、オライの孫爺の孫の家が名川からのマタギが来てて。本郷からも義理の弟がきたわけ。親戚なりで八久和で一緒にやったんだ。そういうことからあっち来い、こっち来いってなったんでねぇかな。実際に聞いたことはねぇけどもな。八久和ダムが昭和32年竣工したはけ戦後間もない頃だと思う。戦時中なんか熊獲りなんか多分してねぇろ。その前は鉄砲もないんだろうし。孫爺さんは村田銃だった。真鍮の雷管、細いやつ。

俺は孫爺さんの真似して子供の頃からノウサギの輪っか掛けはやってて、ウサギ食べたりはしてたわけや。しばらくは自分も生活しねばなくて一所懸命仕事してた。鉄砲の所持許可取ったのは独立する前。昭和60年だったかな。何年か仕事経験して余裕も出てきて…。なんで鉄砲持ちたいと思ったんかな。やっぱり孫爺さんの影響と、軒端から見るとキジ歩いたりしてるんだな。竹竿で叩くも出来ねぇんだし。「鉄砲あればな。」って思ったんでねぇかな。最初はウサギ撃ちがメインだったろうな。カモはダムさ行かねぇば。集落には堰堤も無くてカモいなかったし。鉄砲撃ちは松沢さ4-5人はいたなや。一番多い時で6-7人もいたのかな。巻き狩りも何回もやったしな。

俺が猟友会さ入る10年も前から倉沢の人らは大鳥の熊獲りさ行き始めてたんでねぇか。俺が大鳥さ行くようになったのは鉄砲取って3年後、昭和64年。最初の頃はほぼ勢子や。当時は熊獲りする人が沢山いたんだ。大鳥だけでも6-7人。倉沢、松沢も入れると15人にもなった。

松沢は大鳥より雪解けが早いはけ、熊獲り時期も早いな。昔は4月9日過ぎると松沢と倉沢でそれぞれ班作って見出し行ってたわけや。とにかく熊を見つけた時点で「明日やるか。」「今日まだ時間あるはけ、これから集めるか。」って無線で家まで飛ばして、そこから各家、職場さ電話して。朝7時に集落を出発して昼頃に峰さ着いて。そこから峰降りてフクロ作って、マエカタも降りてホイホイって鳴り上げて…。でも、何回も獲ったわけでもねぇ。昔は熊、いなかったんや。見えなかったんだ。貴重だったんだから、いたとなると人も集まって。タチマエは7~8人もいて。勢子も3人もいて。マエカタも3人もいて。とにかくガバッと袋なるんだはけ、外さない限りは大概は獲れてたわけやな。熊を近くに寄せられるのは、巻き狩りしててワンワンと勢子が追うんだはけ割と来るんだやな。でも慎重に登ってくるのはどこさぶっ飛ぶかわからねぇな。

俺は、山はなかなか覚えられねぇっけ。毎年熊獲り行っても、ひとつの山に行くのは年一回か、多くて2回だわけや。その次はまた別の山さいくろ。覚えられねぇなや。毎年、同じ場所さ配置させられればいいけども人がいないと別のとこさなって、また一年生だわけや。ただ、ずっと熊獲りしてても一丁前ってはねぇ。初心者でも熊狩りさ仲間になれば最初から役に立ってるわけや。タチマエのいる所さ熊を追っていくんだはけな。

今年は稜線の雪が早く溶けたろ。一昨年の木の実が豊作だったんだはけ、木の実拾いでみな稜線さ熊いたわけや。来年はクラさいるだろうし。去年豊作だったんだはけ、今年の春。子連れがすごく出たと思うなやの。だから皿淵で毎日メスみたけども。穴さ行ったんだども。ああいうタイプが結構いると思う。みんな親子親子ってメス熊ばっかり見てるけども。来年の春は子を連れた熊が沢山いて、おっきいなオスが今度その界隈さいるわけや。ただやたらなとこさはいられねぇわけや。やっぱりクラの柴中や松の根、人とか来ないところさ陣取ってるわけや。だはけクラの中さうまく見つければ獲りやすい。

そして木の実が落ちてねぇんだはけ。来年は木登り盛んにするあんでねぇ。親熊も。子供は穴の中さいても親だけは冬眠から醒めれば腹減るんだはけ。毎日同じ木の界隈さいるはけ。それを目がけておっきいオスが絡んでくる。一頭のメスさ集まってくる。大鳥のほうはおっきなのが残ってるわけや。今年の秋に箱罠で獲れたのはメスが多かった。

去年だっけか。松沢でタチマエ3人忍んでいった。結局熊は奥さ逃げたっけども。あれ途中まで行っておいて、足の速いのがリュック置いておいて峰ずっと、シシより先行って包んでしまえばいがったんども。とにかく松峰過ぎると50ⅿくらいだはけや。急ぎ足で熊さ勘づかれねぇように。ってか、勘づいてはいるわけや。熊が逃げるか逃げないか判断迷ってるうちに、サササササって動いて「なんだろなんだろ。」って熊が思っているうちに、熊より先に人が行ってればデトのほうさ熊が来るわけや。そうすっと袋さ入ったんだども。

穴熊獲ったことも何度かある。見出しして熊を見つけて見てても、さっきまでいた熊がペロッといなくなるわけ。「穴があるだろう。」ってことでそこさ向かうわけや。熊穴の痕跡は、やっぱり爪痕。しょっちゅう使ってるのは凄いんだ。爪痕が登ったり降りたり回数があるんだはけ。エサ取りで木さ上がるなだば一爪ずつだはけ。穴は毎日のことだはけ凄いんだ。往来が激しいっていうか。夜は穴さ戻る。

大鳥の山、ゼンマイ倉でも俺と孝治と一郎さんと、3人行って。「いたいた。」って姿見て。俺足遅いんだはけ一番最後を行ったなや。したら「俺の方さ来た。」って言うわけ。でも、見てても来なくて。この辺まで来ただろうっていうところの崖さナラノキがあってや。「足跡あるな。」って。根っこのあたりを足で蹴っ飛ばしたん。したらカリカリって音して。「いたいた。」って。その頃は散弾銃だったな。穴の近くで構えてや。ダンダンって根っこ蹴飛ばしたらピョコって出て。そしてあんまり早く撃てば木穴の中さ落ちるんだし。腹出たはけバンと撃ったら落ちてな。

小屋の川向こうの山で穴シシ獲った時はおっかなかったっけな。マエカタが3人いて、その登りしなに向かいのヒラさ見つけてや。俺が見つけたはけって俺が勢子さ入って。したらマエカタが見失ったわけや。「どさいたろ。」って。「鳴ってみろ。」って言われて鳴ったって出ねぇ。稜線上がって行ったば、凄いんだ糞溜めが。ガケ平のとこ。その脇にブナが株立ちで4-5本。しかも根っこが凄く混んでて穴がありそうで。「恐らくこれさいたんでねぇか。」ってことで。糞だまりあるんだはけ邪魔な柴を刈ってたんや。したらノコギリのゴツゴツっていうのが地中さ響いたんでねぇ。そこからのそって上がってきたんや。2ⅿくらいの距離で。すごいっけ。真黒くてツヤツヤって。

ほいで鉄砲構えたら引き金が引けないわけや。安全装置が掛かってて。前もそういうことあったんだはけ気付いて…。何とかつつけぶちで2発撃ってまくれて。それも乳出たはけその年生まれたちっちゃいのが穴に入っていたんだろうな。

穴熊はとにかく穴が何ヶ所なのか見極めることや。一か所なのか、奥にもあるのか。ここって狙っていながらも周囲も探索して、上さ穴あるとか、根っこもあるとか、陰さもあるとか。穴を見極めて、その入口だけだばドンドンと叩いて出すと。それで出ねぇば棒つっこんで出す。あと、周りの雪を探索して、穴から出た跡ねぇば入った消え間っていうか、消えたとこさ。木の根っことか、雪の無いとこだば足跡ねぇはけわからねぇじゃん。周りの雪見て、穴さ入った足跡あっても出た足跡無ければ恐らくここさいるだろうって。あとそれは棒でつつくか。その時は危ないわけや。十分気を付けねぇば。

俺は平成9年頃にライフル持ったんだな。その前、川向かいの沢で巻いた時はシシが俺さ向かって来たわけや。沢でなく斜面さ上がってればいがったけども、ちょうど足場が悪くて沢ヒドさ降りたんだ。したらまるっきり向かいジシさなって。頭から来るわけや。それ狙って撃ったわけだども、フラフラフラって下さ行って。当時の会長に仕留めて貰ったんだども。大きな熊で、その熊の頭さ、ハゲがあるわけや。跳弾して刺さらなかったわけ。これでダメだって思ってライフルに。ライフル持ってからはタチマエさいったな。割と当てたんだや。獲るんだはけって、割とタチマエさ。運が良かったっていうか。俺の目の前さシシは来たんだな。

初めて熊獲りに行った年から大鳥さ行って。俺、一番奥のトリキリさ行って。「いくぞいくぞいくぞ。」って。袋あってタチマエもいたんだども、熊はデラデラと脇から来て。俺は下から来るもんだと思っていたなや。「そんな寄せなくて良いはけ、そろそろ撃てよ。」って無線で言われても全然見えないわけや。で、脇でガサガサ言う訳や。俺から2mくらいの距離さ熊が来てたんや。ハッと思ってベンと撃ったばな。枝さぼっつり穴空いたっけ。そしてギロンとして下の方さ向かったとき2発目かけて。熊は下さドンと逃げたし。その熊さ絡んでおっきいな別な熊が枯松の下さ4-5頭いたんや。俺はそのまくれたやつを確認しさ行かねばねぇけども黙ってたなよ。

そしたらこっちの下の方、ゾロゾロゾロゾロって奥さ行った。それ行ってから探しに行ったども、血あって、最初撃ったやつは下でウロウロしてたんだな。ちょうど背骨やられてや。それが雪の消えた滝さ恐らく入ったんだろうっていうけども。その日は小さい熊獲って来たわけや。後日もう一回、中峰を何人かでゾロゾロいったら峰さ背骨やられたのがいて。のそっと上がってきたのを獲った。したば背中が腐っててや。背骨やられて動けなくて休んでた。それが先日の熊だったわけや。

今は大鳥の熊獲りさ勢子を置くほど人数いないんだし。マエカタが追い上げてやんねばねぇで。これからはもっと大変だぜ。人いないんだはけ忍び猟でねぇば。マエカタが見つけたら忍んで行っておいてライフルで。まず200ⅿまでだばなっても寄られる。それから150ⅿっていうと中々容易でねぇけども。場所によっては150mくらいまでは寄られる。だから200mくらいまでは当てられるように練習しねぇば。

スコープ調整は300mでやってる。スコープさ十字さ合ったとこで引き金引けばそこさ弾いくわけや。グルーピングってか、まとまりがとんでもなく離れてるのは鉄砲悪いか腕で焦点が合わないあんだか。100mならせめて10㎝の中さまとまるくらい。たまに離れてもいいけど。大体そこさ集まるくらいにしないと。スコープ合ってれば猟場さ行ったって依託して合わせて撃てば100mで10㎝くらいだば300mいったって20-30㎝なんだ。2発か3発撃てば1発当たるとか。100m以上になると立射では難しいはけ。とにかく雪のヒビ割れたところにデンと置いて撃つわけや。木があるときはリュックを置いて。枝はダメだ。倒木だとか硬いとこはダメだはけリュックをクッションにして。雪は一番いいな。ダシのガクンとしたとことか。杖の依託だば200ⅿがせいぜいだもんな。

齋藤常男さん:昭和32年生まれ
聞き取り日:2025年10月17日
文責:田口比呂貴