【大泉・朝日 山の人生】 伊藤文一さん
親は農家だな。冬は炭焼きやってたんだし。夏もやってたんだっけかな。俺はあんまり炭焼きの手伝いしたことねえから。炭焼くのは家の山で。池の平の手前でやったんだっけな。冬は泊まるんだっけ。まあ夏も焼く時は毎晩ではねえけど、泊まったりしてたもんだかなぁ。窯小屋とは別に大工さんさ頼んで、小屋作って。そこさ水引いたりして泊まれるように作ってあるんだっけ。窯跡はまだある。池の平の山、元々はうちの山は無かったなや。荒沢ダムが出来て、荒沢の人たちが酒田の黒森さ引っ越したわけだ。その時買ったんだろうな。
子供の頃、夏は川さとにかく刺さってたし。ザッコ締め。ガラス箱とか水中メガネとヤス持って。泳いでいい場所って決められてるわけや、一応。プールは無かったから。学校で許可出してる場所。まぁ魚絞めはあちこち自由に行くわけだけど。親の世代はマス獲りなんかもしてたと思う。当時は倉沢から下にはあんまりダムが無かったから。その後に落合の頭首工とか、砂川さも大針さもおっきなダム出来たりして。それでマスは来なくなって。荒沢ダムも出来て、今はもう、川が死んだ状態だな。俺が二十歳ぐらいまでだったら、この川さものすごくウグイがいたんだよな。クキって言うけども。産卵時期になると真っ黒にたかって※ほりつく。それを投網で捕ったりして。子供の時は投網なんて投げれねぇから、ヤスで突いて。今はそれ見なくなったね。やっぱり川が死んでるんだよな。大鳥川が。やっぱり、大鳥川で育った魚が倉沢とか支流さ、ほりついたり登ってきてたと思うんだよな。ヤマメはいた。ゴウバチもいた。ゴウバチはカジカとドジョウの中間みたいな格好してて。悪くつかむと刺されるんだよ。ヤスで突いて、刺されないように気をつけて。何匹か取ったことがある。焼いて食べて。結構うめえもんだっけ。やっぱりダムできて発展したとこねぇって言うな。ダム出来た頃はワカサギとかオイカワとか放して。水力発電所でタービン回した水が、橋のちょっと上流さ出るわけや。あそこで待ってると、そのワカサギとかが上がってくるんだや。気絶して。それをちょっとすくったりして。コイも放してたんやな。そうやって放流してる頃はワカサギが獲れたって言うな。まぁ、漁業組合で放したんだろうよ。元々いたもんではねえから。
※ほりつく:群れが1か所に留まっている様
中学校を卒業してからは藤島の農業学校さ行って。あそこさ農業の試験場あるんだよな。そこの寮に入って。庄内分場って言うけども。まぁ長男だから、将来は農家を継ぐもんだと思ってたんだよなぁ。この辺の長男はみな残ってるもんだから。あの時代はなぁ、田植え機とかコンバインはなかったんだよ。田植え機なんてまだ試験状態でや。どういう風にして苗を作るかとかって試験してるんだっけな。俺が二十歳ぐらいまで手植えで。耕運機はあって。そういう状態だったと思う。俺が小学校さ入った頃は馬がいてや。3年生ぐらいまでいたかな。して耕運機になって、馬耕しなくてもよくなった。だから今度、牛飼ったんだ。子供を取るための牛。2軒隣にデケェ種牛がいてや。そこさ持って行って種付けしてもらって。子供ながらにその牛引っ張り出して、連れて歩いたりもしたな。散歩。学校から帰って来ると、牛が『遊ぼ。』って顔出すんだ。牛の背中さ乗っても落とさねぇもんだっけ。振り落とさねえように歩くんだっけ。
高校卒業してからはやっぱり百姓して。それから結局、50年以上になったな。俺が就農した頃は一町五反ぐらいだったかな。この辺では普通ぐらい。当時、倉沢で四十町分ぐらいあったと思うんだよな。田んぼ全然やってない家もあったし。平均一町分ぐらいだったかもや。当時は『富士みのり』って、寒冷地で作りやすい品種。収量が取れる方の品種だったと思うな。あの頃はとにかく収量を上げようという感じで、山形県で『六十万トン米作り運動』なんてのがあったんだ。政府で全部買い上げるから、いっぱい取れれば良いってことで。その後すぐ、減反政策に切り替わったけどもな。
減反、始まった頃はまだ強制ではなかったかもや。やった人には何人か。で、何年かしたら二割休めとか三割休めとか。そういうことが始まってきたような気がするな。うちでも場所の悪い田は休めたんだ。下のほうの集落の人では、倉沢のずっと奥の方田んぼ買って、それを減反にして休んで。自分の集落の田は全部作って。そういうやり方してる人もいたな。その後、農協で“互助会”が出来て。結局、朝日村全体で二割とか三割とか、決められたものを休めばいいから、沢山減らす人と、割と少ない人との合計で、村全体で補うっていうことで互助会ができたんだよな。沢山減らした人に作ってる人が金やるわけや。今もその名残があるけどもや。
近年までは米一俵八千円とか九千円って。あれだば「いつ辞めてもいいや。」っていう感じだったやな。それが去年からか。急に爆発したみたいな感じだな。今年ぐらいの値段だったら、まあいいやな。俺が二十代か三十代か。一俵二万円ぐらいになった頃も良かったんやな。それからドンドン下がっていって。ただ、やっぱり農業を中心にしながら、他の仕事もして生活できるっていうことがあったろうな。一番まとまった金が動くのが米だもんな。あとほれ、30代からゼンマイ栽培。ナメコ栽培は20代からか。そっちもやったけども。
ゼンマイは減反さも植えたわけや。俺がちょっと実験的にやってた頃に、上田沢の人が一生懸命にやってて。その人と一緒にやってみたんだ。最初は“ゼンマイ栽培研究会”って作ったなやな。最終的には30人ぐらい集まったか。山から株取って植えたのもあるし、胞子撒いて増やしたこともあるし。当初は葉っぱ付けたまま山から持ってくる人がいたけども。あれは植えると結局モタなくて枯れてしまうんだよな。だから、葉っぱは全部無くして。根っこだけ植える。すると、来年の春に出るから。最初の年は良いのが出るんだ。2年目になると根っこが張ってないもんだから、ちょっと小さくなって。5~ 6年するとまともに収穫できる状態になるんだけども。
昔植えたゼンマイ、今でもまだ名残あって採ってる。昔みたいには手入れしねぇけど、まだ少しは出るんだ。あそこは30代で植えたんだろうから、もう 40年近く経ったな。でも前からみれば全然。残りを拾ってるって感じだな。一番良い時だば、もう一面なんだ。10mも歩くと腰テンゴの両方さいっぱいになるぐらい取ったんだけども。今はそんなことねぇ。盛りは10年ぐらいだったかな。鶏糞とか油かすは毎年振って。それがや。肥料振ってるから出たゼンマイをほとんど採ってもいいっていうことで毎年採ってたわけよ。そしたら、ストレスが出てきたんだろうな。ゼンマイが段々小さくなって。ダメなってしまったんだよ。やっぱり昔の言い伝えがほら。自然のモノも1本や2本は残せとか、男ゼンマイは取るなとかって。それは本当なんだなって感じたっけ。例えば 1年置きに採るとか。でねぇば 2本ぐらいは残して採るとかや。そういう風にしたらもっと別の結果出たのかなって思うけども。ちょっと採り過ぎたな。
大滝林業さも少し働きに行ったことある。俺は集材の方やってたから、木伐りはあんまりだった。それがな。最初の頃は皆伐してたけども。後から“母木”って言って、木を残すようになったんだよな。今、荒沢ダムの方から摩耶山の方を見ると、そういう場所見えるかと思うけども。でも、母木残してもや、何の意味もねえなあれは。木が1本だけ残されたって、人間だって生きていけないもんでや。 1本っていうか、あちこち残したわけだけども。だって下さ、ブナでもナラでも幼木はいっぱい生えてるわけだ。特別、母木残さねぇったって、あるんだやな。太いブナなんて、何十年、何百年も掛かって大きくなったもんだろうから、そう簡単に再生できねえわけやな。いや、母木が実を落として育つっていうつもりで学者は考えて提言したのかもしれんけど。その前にちゃんと実は落として。苗は下さいっぱいあったわけだから。母木残すっていうか、将来に雑木を残すっていうか。それは営林署の政策だったと思うんだよ。でも、全部伐ったって、そこはまた同じく生えてきてるわけだから。
鉄砲持ったなは俺が27、8ぐらいの時かな。キッカケってこともねぇ。この辺は鉄砲撃ちがいっぱいいて。30人近くもいたんねぇ。みんなやってるから、じゃあ持ってみっかって。ただ、子供の頃は、春近くなってくるとウサギ輪っか掛けたり。そういうことして遊んだ覚えはあるな。何匹獲ったわけでもないけどもな。獲るとなんかえらい楽しくてな。この家建てたのが30年前ぐらいだから、その頃はまだウサギ、山の方さ行ってでも結構獲れたんだよな。ここ 20年ぐらいでね、ウサギいなくなったのは。やっぱり昔に比べれば全然いない。、一人で最高7つってことあったからな。正月、昼頃から山さ行ったんや。したらなんか調子良くてや、あの日は。雪ものすごく深い日で雪も降るけども。ウサギも走るに容易でねぇ。深かったんだよ。ウサギ潜って歩くような状況で。だから見つければみんな獲られるような状況だわけや。3つぐらいはそのまま背負ったやな。でも今度重くなってきて。しょうがねえから、今度は皮剥いて腹も取って。七つ背負ってきた。それも3時間はかかったもんだかな。あんなこと、後にはねえな。それはほとんどウサギ汁に。正月はウサギ汁みたいなのがやっぱあるかな。
熊獲りは最初、大鳥さふた春ぐらい行ったな。あの頃は熊なんか獲れねえもん。いなくて。かなり遠くまで行った。松の木落としの方まで足伸ばして行ったけど。熊で良い思いはあまりなかったな。その頃の親方は与一さんとか、倉沢は一郎さんとか。俺の行く頃は蔵治さんはいかなかった。あと俺、冬に椎茸栽培やってたろ。植菌したり、忙しくてあと大鳥さ行けなくなったもん。俺行かなくなったば獲れるようになった。孝治とか秀勝がその後に行ったんだや。あのしょはかなり良い思いしたんでねぇ。倉沢の熊獲りは暇みてずっと行ってたけど。
倉沢では年に一匹か二匹ぐらいだろうな。倉沢の我々の年代はまだ、経験が少なかったんだよ。その頃の先輩は掟が厳しくてな。勢子はちゃんと一の上げに上げるように追えとか。まず1の上げとか2の上げさ、必ず上げるやり方だっけな。見出しは二人一組とか、そういう風にして行ってたと思う。暗くなるまで見て、あの熊がそこに寝たなっていうところを確かめてから来るっていうような感じで。して、その夜みんな集まって、「じゃあ明日どういう風にやるか。」っていう作戦を立てて、翌朝から山に行ったわけだ。それこそ全部山を巻いて。沢から勢子行って、向かいの峰でマエカタが見てっていう、そういう基本的なやり方だけども。あの頃は田沢とか大鳥からも来たから20数人もいたんでねぇ。獲った熊は今みたいにみんな平らに分けて。あの頃は皮も結構金なったんだよな。一番高かったのは 20万円ぐらいで。それさ酒十本つけるとかって。倉沢で獲ったのは部落まで引っ張ってきたこと、何回もある。やっぱり珍しいから。我々はこう獲ってきたんだというところを見せたかったんねぇ。熊の胆も昔はかなり金になったって言うけども、我々の頃はそんなに儲かったことはねぇな。
熊の胆は、昔は我々なんか干せねえもんだと思ってたんやな。暇な爺さんみたいな人が薪ストーブに付きっ切りでやってたわけだ。だども俺、干す道具を発明したんだや。昔のコタツ、赤ランプ付くところを裏返しにして、それを枠で囲ってや。その上から熊の胆置いたザルぶら下げて。あと、電気つけっぱなしにして干すんだ。ある程度の温度になると勝手に電気切れるから。70℃ぐらいか。最初はものすごい膨らんできて。これ破れるでねえかなって思うぐらいになるけども。あと、あまり手かけないで乾くわけや。熊の脂は最初ちょっと塗るけども、ある程度硬くなって板で挟む頃になってからは脂はそんなに必要ねえ。このコタツだば誰でもできるよ。まず手間かかんなくて、割と安全にできるもんだからや。ものすごく良かったなや。でも、時々は面倒は見てる。一日朝晩ぐらい見てや。このコタツで俺、かなり…。何個ぐらい干したかな。分け前に一人分余計にくれるから、いっぱいあるんだよ。一生飲めるぐらいあるな。
熊獲りは、今の俺らがた世代が山、自由にできるようになってから。ライフルも持ったし。とにかく撃たれる人が撃って獲ればいいんだっていう感じになってから割と獲れてきたんでねぇかな。ある時に、俺と龍夫と二人で摩耶山さ見さ行って。見つけて。無線でみんな集めて。その時は二人でいつもとは逆のやり方を提案したわけや。いつもだば山峰さ、勢子がまず追い上げるわけだ。下から、沢から。でも、あそこまで行くと遠いし、行く人もご苦労だと。ここはひとつ、足の強い人に山峰さ行ってもらって。こっちの摩耶山は登るに楽だろ。じゃあ、山道側に袋を作って、峰から熊を下にやろうって。クマを一回下ろして沢からまた上げるって格好になるな。そういうやり方は初めてやな。大先輩も2~3人来たけども。何も言わなかったな。だって、やり始めたところさ来たんだし。それが偶然上手くいって。これはまず、皆さんにあまりご苦労をかけねぇやり方。見つけたのが午後だったと思うんだよな。正式に巻いてれば暗くなるんでねぇかっていう。今でもそんな作戦、あんまりしねぇかもな。時間もねえしってことでやったんだ。
あと、熊狩りで思い出あるのは…。松沢で熊狩りしたわけやな。俺は一人、こっちの摩耶山の方さ行って。孝治が倉沢と松沢の境でマエカタしてたわけや。で、無線聞いてるとなんか熊逃したらしいくて。解散したんけ。したら、孝治が山降りている時に熊見つけたんだよ。俺さ無線ごして、「こっちの方を見てくれ。」って言うわけ。見えっけもんな、熊。200m ぐらいはあったかな。あとそこまで近づいたば熊、動き出したわけや。これは、とにかく撃ってみろと思って撃ったら、当たったみたいで。不思議な思いだっけ。あの距離で当たるんだと思ってや。ライフルの威力っていうのは凄いもんだと思ったっけな。昔だったら「次の日に獲るから、まず黙って見てろ。」ってなってたな。夜に作戦練って、ここさいたから、じゃあ明日こういう風にやるかって。
遠いやつはもう一回あったな。それも松沢と倉沢との境さ。そこで俺と龍夫と常男と清太といたんやな。4人で。清太と常男が見つけたんだっけ。俺と龍夫が後で呼ばれて上がったんやな。んで、龍夫さ「一本松の下で見てろ。」って言ったんや。して俺はこの辺まで行って。熊が下がってきて、松に入るとこまで俺見たけども。龍夫撃たねぇなって思って。あと、どこさいるか分からなくなってしまって。そのうち常男が「沢へ下っていく。」ってわけや。「松の木の下さ行ったら鳴ってみろ。」って言ったんや。ただ沢で鳴っても効き目ねえと思って。常男はベテランだもんだからや。川のほうさちょっと登ってから鳴ったらしいんだ。したば、おっきいやつがモコッて出てきたわけや。あれは150mぐらいはあったかもや。柴の中、空き間あるところで丁度止まったっけもんな。今だ!と思ってな。
伊藤文一さん生年月日:1951年6月22日
聞き取り日:2025年10月23日
文責:田口比呂貴