【大泉・朝日 山の人生】 鈴木繁雄さん
生まれはもともと、小さい茅葺きの家。親父が出稼ぎ行った年、39年の東京オリンピックの時に新しく建てて。平成10年に道路拡張のために移転して自分で建てたんだ。俺、大工だからな。前の家の場所は、今は畑になってるけども。
親父は炭焼きをやってたんだな。結局、田んぼとか土地がほとんどなかったもんだから。それこそ蓑で隠れるような田んぼがあったわけだ。あれは棚田でも何でもないんだよな。ただ沼地さ米植えてような。そんな感じだった。だから自分で起こして、何とかかんとか。一粒でもなんでも食われればよかった。だからほとんど供出受けて生活してたわけよ。んで親父の時代なんか1日手間賃として2升もあれば。1升とか2升の世界だったんだ。2升だば良い方じゃない。百姓の手伝いすると米を貰ってくるわけだ。百姓だって米渡した方がいいわけだ。
昔は家の周りに畑はなかった。山に畑と田んぼが少し。俺が子供の頃は1時間も歩いて小豆植えたもんだもんな。それに、その山に堆肥運びさせられたわけ。「学校から帰ってきたら2回背負い上がりなさい。」って言われてな。家畜はうちさいなくて、牛馬飼ってるヨソの家から堆肥もらって、山へ運んで。畑にみな敷いて。野菜はお袋が一生懸命作ってるんだ。大根とか白菜、さつまいも、カボチャだとか。とにかく色んなものを植えたわけよな。今流行りの洋式なものはトマトぐらいだと思う。それで、兄弟みんなで堆肥運びもやったし、収穫したもの。大根とか背中をつけて運んだわけやな。俺らはバンドリと荷縄で背負ってな。堆肥運ぶのには藁で入れ物を作ってあるんだ。
囲いは今みたいにタキロンがないから茅刈ってきて。束にしたものを横木に付けていく。窓ある所は明かり取りで。そして、茅葺き屋根だから雪降ると朝晩軒先周りの雪かき。軒先の下に雪が積もるとすぐ屋根につかえるから。屋根の雪下ろすとまたいっぱいあるからそれはスコップで上げて。俺のうちは平屋よ。屋根が急でな。ちっこい家さ住んでたんだ。そして、春になったら囲いの茅を外して、その茅で炭俵を編むわけだ。それでも足りなければ保管しておいたものを。うちには倉庫がないから、共同の炭倉庫の裏にタダで置いておくんだっけ。でも、部落の人も悪いって言わなかったと思うしな。やっぱり一緒にここ住んでるから。共同作業はみんなを同じに出てるんだから。それで文句は言われなかったみたいな感じするな。
藁や茅、自分の家でも少しあるやつは大事に取って。その他にも田んぼある家からは藁は分けてもらうけど。うちの方で大百姓ってか、親方しょ。だから一束なんぼって、その分も仕事行って藁をもらったわけ。だから藁も貴重なものであったんだ。
それで、うちには足踏み式のナワナイ機械。太皷って、藁縄巻くやつある。学校から上がってきたら「これ一つになっとけよ。」って言われてやって。機械ない頃は手でやった。玄関にある石でワラ打ちして柔らかくして。すると折れないし柔らかくて丈夫になる。機械でやるようになってからもそんなことはしないけど。機械でする時はかえってシャキッとした方が刺さりがいいから。
あと、小さいテンゴでミゴって。稲の穂ついた細いつーっと。芯を引き抜いて。それを編んでテンゴにして。綺麗だわけやな。あとガマのテンゴな。うちの場合は藁が少ないからスゲを採って来たんだよな。山の沼地にあったやつを。結局、官地なわけだ。そうしてガマ取りも親に連れて行かれたことある。筵はスゲで編んだ。藁でも編んでるけども、藁は案外パサパサなる。うちはどうしても藁が少ないからスゲで。
あと梨の木が各家にあった。昔は台風来るようになって倒れて。そうすると、家のそばに置くと危ないからって伐ったもんで。梨の木が結構あちこちあったもんだ。昔に植えたんでしょうね。いろんな種類もあったもんだな。夏に食える、今でいう20世紀梨みたいな味のやつとか。あとはラフランスのオバケみたいなサタケっていうのも。大きいんだっけな。それはもう、今頃収穫。あと、米の中とかに入れておいて、春まで食われるっていうか。でもうちはそういうのは全然なかった家。
柿の木は庄内柿じゃなく、種のある柿。ベットウだとかデンクロウだとかそういうような名前のやつで。焼酎じゃなくて、オケの中に藁のコモズを入れて熱湯かけて蓋して。2~3日すると渋が出てくる。渋が抜けた頃には冷たいわけだ。その中さ手ツッコんで食ってたな。
コモヅってこの辺では藁クズのこと。保温材だから、コモヅを布団の下に敷いて寝たんだもの。ちゃんと布で袋を作ってその中にコモヅ入れて。フワってしてるのはいいとこ2日か。あと、ペタンっとなって。それは取り出せば家畜の餌になったり。無駄がほとんどなかったわけだ。だから食べ物だって、葉っぱとかちょっと悪くなったようなものを肥塚へ投げるわけだ。
堀はどこの家でも大なり小なり、雪を消すためにあった。そして、観賞用の鯉が数匹入れてあるわけ。流しの排水が堀に落ちて、鯉がそれを食って。うちの場合、山水は無かったから井戸掘って。それが赤水で大変なもんで。沼谷地だったから水が赤いわけや。鉄分で。だから、水道になってからグンと気が楽になったっけな。飲んではいたけどな。井戸、ある程度深くしてるから水そのものは少しは浄化されたかもしれないんだけど。この辺一帯も沼谷地で、ミノなんか作った時はその水に漬けておくんだっけ。結局、持ちがよくなったんじゃないの。投網だと昔は豆柿の渋の渋が良いって、漬けてたみたい。
山菜採りは倉沢の奥。女性の方がそっちのほうさ主に行ってたわけやな。ゼンマイは男が行って採ってたけども。危なくなく採られるとこが女性。女性が採るのはまず。お汁のウルイとか、ウド。ドンゴイは漬けるためな。ウドも塩漬けしておいたんだな。あと青コゴミ、赤コゴミ。ワラビ。そういうのはだんだんに時代が変わって、農協で買うようになってから塩漬けして売るようなったじゃんな。俺が子供の頃はほら、金銭的なこともわからないからな。どういうふうにしたかわからんけど、うちの場合はただ家で食うくらいで。分けて欲しいと言われれば、分けてやったりとか。その程度だったかな。
炭焼きは倉沢の奥の国有林でやってたんだ。山代を営林署さ払って炭焼いてたわけや。2年契約なら2年って窯打って。そこから炭焼いて2年間の炭焼く分を銭払って買うわけよ。親父が炭焼き専門で。うちは石窯。窯を冷ますわけにいかないから毎回泊まって。真っ赤な木炭を掻き出して灰とか砂とか混ざったような用意してそれをかぶせて。水で消すんじゃなくて。そのまま窯が熱い時にまた木を投げ込んで。一回にせいぜい10俵くらい。石窯でひと月に50俵取るには5回出さなきゃいけない。常に冷めないうちに木を運んできて準備して中に立てなきゃならない。木はブナ、ナラ。うちは親父1人でやってたわけや。石窯だけで通してきた人だ。
土窯の場合は、一旦冷まして中に入って引っ張り出してきたわけだ。土釜の場合、1回に50俵取れるから月に一窯取っても間に合う。だから土釜をやってた家は家族構成がいっぱいで。子供も戦力だったわけだ。田沢に検査員って役場から来て。ちゃんと青い札と赤と。ナラ一等だとかや。そういうハンコをポンポンって付いて。雑だとかや。雑っていうのはブナの木だとか他の木。だから、炭の検査日が来る時には必ず山さ炭背負い行かされたもんだ。日曜日は必ず炭背負い。冬も摩耶山で。やっぱり年に1回か2回は炭焼き小屋まで行けないぐらいの雪が降って歩けない時ある。炭2俵とか背負って。ほとんどみな炭焼きは摩耶山に行ってた。自分の家の山で焼ける人は行かなかったろうども。倉沢は炭焼きで生活してたって。焼くのは個々で。ただ窯を造る時は結で。そんな感じだと思うんだ。
あと、焚き物山ってみんなで山を営林署から借りて。薪するために。40年で1周するぐらいとかや。40年も経てば最初伐ったやつは太くなるだろ。あと返してしまったけど。玉切りしてソリで運んで。急斜面は投げてまくったり。あと竹ヌマって言って。月山竹とか根曲がりしたのを番線で縛って。ソリみたいに作って。そして、“ツボ”って言ってブレーキの役する紐を付けてな。それを踏むとブレーキなる。材料は月山さ取りに行った。ジンダケって言って、結局月山の竹のわけだ。まだトラック持ってる人が珍しい時代、頼んでみんなで乗っていって。良い竹を伐って来て、作るんだ。俺が子供の時はその竹を切って、焼け火箸で穴開けて針金で縛って。それで靴さ履いて。雪凍みた時にスケート。靴にちょうどいい竹で。でも、「悪い。」って言われたんだもの。もったいないからそういうことしてはダメだって。
炭焼きで出た粉炭は火鉢とかで暖とっている家もあったわけだ。ただ、粉炭は早く無くなる。お風呂を沸かすのに使ったりもして。昔は鉄砲風呂って言って、お湯に丸い筒を入れる。その中さ炭入れて火焚くと熱くなる。五右衛門風呂は下で焚くけども、鉄砲風呂は風呂の中で漏らないように筒を入れて焚く。
大体、俺の家に風呂なんか無かったんだよ。だから人の家に貰いに行くのが普通で。風呂に入れない日のほうが多いわけ。だから手は黒くて。身体はアザだらけ。そんな状態。「今日入れてくれ。」って薪を持ってたり。明日は、どうしても風呂入って行かなきゃならないというような時は“たきねや温泉”さ。そこは鉱泉を沸かし湯にして林業仕事の人を泊めたりしてて。「最後でいいから風呂入らせてください。」って銭に持っていけば、何十円で入らせて貰ったわけ。
中学校を卒業してからは大工の弟子。田沢の俺の叔父さんが大工だったんだから。親父の兄貴だな。俺、鶴岡さ大工さ弟子行くいったけどお袋が「うん。」って言わなかったんだ。俺はうちから出ていきたかった。親は跡継ぎだって言うけども。だって、何もないとこさ継いだってどうにもなんねぇじゃん。田沢での大工の弟子は5年、家から通ってね。そしてまず、弟子あがりして少しは稼いだかな。
昭和39年の東京オリンピックの時に、親父は炭焼き辞めて東京さ出稼ぎさ行ったんだ。鉄道の線路敷きの仕事行って。そこは半月会計で、金を送って貰ってたわけだ。お袋言うもんだっけ。炭焼きしてた時は農協から仮渡しって炭出す前に銭借りてくるわけだ。6,000円借りてきて、ひと月生活しなきゃならない。出来るわけないのにそれでやってたわけだ。そして出稼ぎに行って。ひと月3万円をよこしたって。東京さ足向けて寝られなかったって言うんだっけ。
俺も大工、一人前なる前から関東さ連れられて冬出稼ぎいってた。出稼ぎが長いんだ俺は。鉄筋コンクリートの仕事さ行ったわけやな。にっちもさっちもわからないわけやな、木しかやったことないのに。「ここの壁に下地しなさい。」ってわけよ。コンクリに釘打つなんて考えたこともなかった。難儀こいて仕事した。でも覚えてくると面白いやな。向こうさ行くと分業で。大工は下地までとか、物によってはボード貼りなさいとか。まずは木下地をやるのが内造作の大工の仕事。俺は内装だわけや。内装は仕上げだから。
俺は工務店の所属大工であって会社員ではないわけな。外注の一人親方。だから、年金も国民年金も自分で、個人事業主でやってた。だども、その工務店、その前からいた人たちがすごく良い人で、仕事も早くて。ゼネコンが決めたことをきちっと守って工期さ間に合わせる会社。すごく評判が良かったんだ。俺と同じように秋田と岩手からも出稼ぎ来ててな。岩手に向かって石投げると左官屋と大工に当たるって言われた。秋田も鳥海のほうな。鳥海村。山の上だろう。環境的には似てるんだ。あと一回一緒なると、毎年同じ人が来るんだっけな。俺は9月になると行ってたんだ。
東京は賃金一番高かったかもしれないんだけど。神奈川も賃金がよかったから。俺は最初から神奈川行けて良かった。だから東京は俺世田谷までしか仕事行ったことない。茅ヶ崎をベースにして平塚、藤沢、川崎、横浜。最初の頃は主に学校。学校は、新学期にも間に合わせて作るんだ。そして、厚木基地があるから防音の仕事。それで学校を建て直して。一般住宅だって防音工事。二重サッシするとか。そういう仕事があった。今となっては思い出話で。でも、面白かった。
出稼ぎは平成17年まで。俺行ってた会社が潰れてしまって。それから、その会社の継続したようなところ2―3年行ったかな。あとうちに帰ってきて。だけども、地元でも鉄筋コンクリート造の仕事があると鶴岡でも山形でも仙台でも。造作やってくれって頼まれると自分たちチームを組んで仕事行ったもんだ。
鉄砲の所持許可を持ったのが昭和53年。キッカケっていうか。この辺はみな鉄砲撃ちじゃん。家にいたときは毎日のようにウサギ獲りしたもんだ。発電所から上って、終点まで行って下りたりとか。それから林道が通った時に俺の猟場の木がずっとみな伐られてしまった。あと全然。ウサギの居場所が違ってしまって。前はいたんだ。3つ、4つって一人で背負って来たんだ。ウサギは雪のポタポタポタ落ちる時は木の根っこさいて。天気が良い時は杉林のちょっと外れたとこさ寝てたりな。木倒れたところとか。だから、天気良い日は「何でこんなとこさ寝てるの?」って思うところにポンと寝てるもんだ。ウサギの皮は、子供の頃は買いに来る人いたみたいだ。下田沢に人いたみたいだけど。イタチとかの皮を買ってたわけじゃんな。俺鉄砲持つようなってからは皮は殆ど需要なかったみたいで。
熊獲り、最初の頃は大鳥に連れて行かれた。摩耶山の方もいつ頃からか行くようなったんだな。だども出稼ぎが長かったから、俺は山の場所言われたってそんなによくはわからない。ライフルはみんな持つようになってから、俺も持ったな。平成10年。ちょっと遠くても撃つと当たることある。俺は「勢子やる。」って勢子やってたわけや。俺らは勢子で摩耶山を登って行って、熊がマエカタの近くへ行ってたから降りてきたわけやな。そしたら、孝治が「いたいた。お前ら撃て」って。孝治はすぐ上さあがったのを自分で止めてやろうと上がったんでねぇ。会長と俺とで撃ったら。どっち撃ったのが当たったのかわからないけど落ちてきたっけ。大きい熊でな。230mってけな。して、俺がバーって現場まで行った。そしたら舌噛んでないんだよな。血も出てないんだよな。恐ろしいわな。ちょんちょんってやっても動かないんだよな。それでぐいっと言わせたら胸から入っていってたんだ。肺と心臓と、即死なんだな。背中全然散らかってないけども。当たったとこが血どばっとでてる。
別の時はな。摩耶山をずっと登ってって、俺はトリキリさいて。「熊を脅してタチマエさ上げれ。」って言われて上がったわけだ。熊、上がって行ったども、タチマエでセリ音聞かれたわけだ。熊、戻ったろ。ドンパチやって、「戻った!」とか「行った!」とか。タチマエの人、全部撃って弾ねぇって騒いでるわけや。「弾10発かと持ってこねぇ。」ってワーワー言ってた。「無線で応援行けばいいか?」って言っても何もいわねぇ。して、俺は降りて行って近くさ行ったわけや。だけども降りてきたら、なんかあっちさ見受けられる可能性あるなって思って。釣り峰を登ったらブナの木の陰からヒュッて出たんだっけ。クマの頭がパッと見えただけで100mぐらいあるんやな。それを立って撃って。当たる時っていうのは片付けも一致して。スコープにもきちっと入るんだよな。撃ったら、ゴロっといって。
鈴木繁雄さん生年月日:昭和25年生まれ
聞き取り日:2025年11月2日
文責:田口比呂貴