【大泉・朝日 山の人生】 亀井龍夫さん
今までも貧しいながらも農繁期の時は熊狩りさ行ったりしての。ギリギリ土地を守りながらこの生活をしてきたわけじゃん。今の農政見てっと、米の価格を決めてこうすれば百姓生きていかれるって言ってるろ。だども、テレビ見ても大面積とか現代農業とかってあの集約された良いとこだけを考えた政策だようで…。例えば、大鳥や大泉だかしは、これから誰か一町分の田を作るわけじゃねえし。そうなっていけば、あと人いなくなっで。だろ?最近の令和の米騒動を見てっと、適正価格が10kg3,500円とか4,000円で高いって言うども、百姓で意見言う人が百町歩とか百五十町歩作ってる。その人がたは確かに良いかもしれないけども。今、朝日さは農業法人が四つあるんだ。熊出と岩本と大網と行沢。あとはねぇんだ。この辺が百姓で残んねぇば、あとどうなるあんやと思う。そうやって人いなくなればマタギも何もなくなる。
今、倉沢の人で、個人で十町歩目指してやってて。それなら専業でなくても何とか暮らせるぐらいだかなっていう感じだなや。で、倉沢の俺らグループの面積をまとめても四十町部。俺らがもう何年かで辞めたりすれば、その人が四十町歩をまとめるあんが。例えばやれても、年齢的にはもう十年なんだ。その後百姓なくなれば…。
ださけな。俺が何言いたいかっつうと、先祖伝来のものを残さねばねぇか。百姓しねばねぇとか。「あなたはあの田ぁいっぱいあっさけ勤めさ出はられねぇんだ。」とか、土方したり何とかしたんや。でも、例えばここで四十町歩を一人が経営者でやったって、水利の管理だかし大変だで。大鳥だって農家いなくなれば恐ろしいろうや。それがマタギも絡んでな。そこから見れば今の鳥獣だてなんだってなぁ。
最近秀勝が良いこと言って。熊が多いだとか山のものが不作なわけではねぇって言うわけよ。異常気象で生態系狂ったっちゃ。サケの海流が海水温で。んだでばや、絶対。2~3年前も熊いっぱい出はったろ。役場とよく話してたなや。大きいボスは奥山さいて、自分の縄張りあって、若いのがみな里に出はってくるってや。でも、奥を誰も見たわけねぇよな。想像だでやな。で、奥さどういうのがいるあんだや。“朝日太郎”とかな。そういうの一つ残ってたって、それだって新旧交替あっでや。いや俺、生態系見たら狂ったんじゃないかって。気象バランスで。
俺は子供の頃から兎巻きも行ってたんだ。だはけ小学校の時この辺の山はみな分かったもん。小学2年から行って、あと中学生になったら飽きたな。面白くねぇで。ただ追ってるだけだ。ほんでウサギ背負わせられて。大体巻くところっていうのは決まってるんだ。ほいで、行ったことねぇとこさ、行かねばねぇあんだ。200mもある杉林、「こう追って来い。」なんて言われて。迷わないで追って行かねばねぇども、迷ったことはなかったな。
して、俺は足あんまり強くなくてよくストック持って行ったんだ。カンジキもな。小学 1~2年生だぜ。みんなカンジキを縛ってもらって。家さ帰ると手冷たくて、また解いてもらって。だども親父がたのカンジキはスッと履くだけだんや。 あぁいう風に早く履きでぇなと思ったんだ。紐も一回一回縛らねぇでちょうどいい。取れねえ、脱げねえ、あの強さが。スイスイスイって歩かれるんだよ。
中学校から四十二歳までは、アホみたいに野球してた。“摩耶山タイガーズ”って野球チームあったなや。鶴岡に240チームあってベスト8ぐらいまでなるあんだ。33勝3引き分け3敗ってあって。決勝まで行かねばねぇから試合数いっぱいだじゃん。ただ野球した。2 ~ 3日に一回野球しねばねぇんだ。半年で40試合ぐらいして。そして闘争精神なくなって。草野球でもわかんなや、俺キャッチャーしててな。この一球が勝負だってよ。「センター、センターもう 5 メーター脇さいて待ってろ。」って言って。そして俺がサインをピッチャーさ出す。ここさ、打者が球打ってセンターさいくなや。ピッチャーは俺の言うところさ、投げるろ。バッターの格好見ると分かるなや。この野郎はあそこさ打たせるように球投げらせる。20年もやってっとなんとなくわかる。キャッチャーおもしいじゃん。メェカタとおんなじだな。足音でエラーするとか。最初でわかるもん。俺がた黙ってても大抵6-7割はサードゴロだ。サードはもうコツ覚えて、グローブさ当てないで体で止めてな。
鉄砲を持つキッカケってば、やっぱり親持ってたから自然に。大鳥の猟師の銃を親父が見つけて、俺さ譲ってくれたっけな。フジオートって、ただこれ撃ったじゃん。その頃は 3年間鉄砲持たねば有害が貰われねぇんだっけ。だから、3年経ったらあと熊獲り。摩耶山さよく行ったの。大鳥さは秀勝が俺よか早く行ってたからな。秀勝から連れられて行った。やっぱりや。大鳥さ行くには自信もねぇっけし。百姓しねばねぇあんや。椎茸も作ってるから。ださけ、熊獲りさ合わせて全部農作業組むなや。種蒔いて田んぼさ苗出してホットカバーかけて、一週間構わねえっていいってして。その時に熊獲りさ行く。
大鳥の熊獲りはプロ集団で。山だって、エベレストさ行くようだろ。この辺の山とはなんとなく違うとか。ある時、ちょうど俺の親父がたが消防の大演習だかで山から降りてこねばねぇって。すると、俺と亀井栄一さ、遊びながら熊狩りさ行ってこいって言うわけよ。俺がだ二人してスキップで行ったで。何にも知らねぇんだよ。まだ二十歳前で、めんこいじゃん。鉄砲も無ぇ頃。鳥海山噴火した年だったな。ほいでそれも、大鳥の奥山さ行ったんだ。
※鳥海山噴火:1974年=昭和49年3月1日
前の日、夜の12時か1時頃まで熊のことで家でワンワンって話してたの聞いて。次の日、真っ暗いうち大鳥さ行ったじゃん。俺、なんぼ二十歳くらいでも、2~3時間睡眠では眠たいぜ。歩いて行ったろ。旧道上がって一回グッと下がって、沢をジグザグで上がって。おっかなくて。鉄砲ねぇっても俺にトリキリさ入れって。して、栄一は「追え。」って言われて追って。したばな、そこさ熊4つか5ついたんだ。ほいで俺、習ったんだよな。繁保さんのとこさ熊来るとこださけ、「あそこに来たら声出せ。」って言うっけ。声出したば、子連れで上がっていくあんけ。それ逃がして。次、またでっけえ熊来たわけ。これは獲って。みなで10人はいたかな。で、あとからたまげるあんけ。なんで鉄砲ない人トリキリさ置いて。繁保が俺をトリキリさ置いて、自分は下さ行ったんぜ。熊、俺のとこさみんな来るで。俺どうすんのや?4~5頭いたんぜ。それで1頭獲ったんだ。デッケェ熊だっけ。して今度、「熊さ乗れ。」ってわけよ。急な雪の坂、熊を下まで降ろせって上に乗って。スキーみたいに乗ってきて、雪さバンってぶつかって。あとで「危ないさけ辞めろ。」って。そのあとの、「マタギは川だってバンバンと漕ぐもんだ。」ってさけ、俺が最初に漕いで引っ張っていたわけや。デッケェ熊獲ってウキウキだわけや。それは解体して背負って来たんだよな。
だども昔は熊、部落まで引っ張ってきてたんだ。引っ張ってたのはなんだろうなぁ。珍しい、貴重ださけだろか。今だば考えられねぇけど。割と村の人らは迎えに出るもんだっけな。この写真がこの辺で初めて取れた熊だ。おらいの玄関で。ほら、祭りも良いとこだ。この子供らが今は 70 とか 80 歳になってんだ。朝日で1、2頭獲れ始めた頃、秋熊だな。俺もここで見て。竿でかついだらバキンっと折れての。よくここで解体して…。最初はよく家で解体してるんだっけ。これだけ貴重だったんやな。ゴジラでも獲ったみたいに。昔だば、いねえかったんかな。いたども見つからなかった。昔の銃で撃ったぜな、これ。単発でな。
俺よかちょっと早く鉄砲持った大滝小一さんが大鳥さ行ってたなや。その頃は2~3年獲れなかったのよ。それから3~4年して、鈴木孝治が行って、その頃から熊獲れてきた。40年前頃。大鳥は親方が蔵治さんとか、次は与一さんってなるわけだ。蔵治さんは米と塩持って山さ入って、本当のマタギするあんだろ。ガスかかって1m先が見えねぇったて、迷わないで来るって。木を見てわかるって俺の親父聞いたって。凄いけって。場数だろんの。蔵治さんも最後の頃は獲れた頃さ語ったんかな。蔵治さんが行かなくなってから獲れるようになったかもしれない…。
俺の親父らが暇だとただ蔵治さんさ遊びで行ってたんや。話聞いたらや。熊獲りグループで蔵治さんともう一人が合わなくて、大鳥が東と西に別れたんだよ。どういう関係で別れたんかあんまりわかねえども。で、人少なくなって蔵治さんが困ってたんでねぇ。そこさ、俺の親父がた倉沢グループが行ったんや。あと、松沢の人だかし。それまでは倉沢で熊獲りってあんまり無かったな。八久和は昔からやってたんだ。八久和も、どういう経緯かわからないが本郷しょが来てて。で、八久和で炭焼きしてた倉沢の人がいて。それでたまに行っていたりしたんだよな。で、八久和の熊獲りを采配する人で八久和から鶴岡さ出た人がいて。八久和ダム出来てからもこっちで采配してたんや。で、鱒渕の人らがそれさ語って。本郷の人らがメインになったんだな。親父も八久和の熊獲りさ1回か 2回行ったかどうか。俺が小学校 5~6年だから、昭和の 34~5年頃。その頃であと親父は大鳥さ行くようなってたわけだ。 春の農作業忙しい時に、田んぼのことなどブン投げて行ってた。
それでな、初めてSKB のブローを親父が初めて持って行ったんかな。みんなから馬鹿さいだとか、ごしゃがれたもんだって。クマは一発で取るもんだって。そんなベンベンと撃つもんでねぇって。昔は本当の村田銃だけ。そこさ、連発銃持っていったわけだ。自分がこれいいと思って買ったんだか。だどもそれからはみなそうなっていったぜ。
倉沢で熊獲りするようになったのは、たまたまな。秀勝が子供の頃、父親が胃の手術したんや。して、仕事されねぇもんだはけ摩耶山で渓流釣りしたのよ。これ熊の足跡あるけって言って、みんなして熊獲ったんが始まりだんや。摩耶山の陰の越沢の人がたは春、山越えてきて熊狩りするんだと。でも倉沢の人は熊狩りをしてねぇな。でも、炭焼きはしてるから毎日摩耶山さ行ってたんだよ。仕事が厳しくて熊見てる余裕が無かったんか…。でもな、春先一服して山を見てれば、「あの黒いのなんだ?」って見える。その時に熊 1頭獲って。今度は田沢の山でも獲った。そういうことで「じゃっ。」って、倉沢で熊獲り行くようになったんや。昭和40年代後半~50年頃から。見出しの班編成してな。見出しってば、4月なっと毎日数人で山を見に行くわけ。姿と足跡探しな。
大鳥の与一さんも倉沢さ来てたんだ。与一さんは優しい人だったんでねぇ。性格的にな。でっけえ音もたてねえしな。松沢の山での。熊が俺の立ってる山の陰さいてな。メェカタの与一さんからは山の陰だはけ熊の姿は見えねえな。それをタチメェ立てて、陰から追わせてで、見えねえ熊の動きを予想して、タチマエのとこさ熊ごすあんぜ。 地形見てわかるあんだや。熊ここ来るって。その熊まともには来ないけど、最後には獲ったっけ。タチメェが機転効かせて。普通考えられねぇんでね。 すごいことしてるんだなと思った。
俺は大鳥さ行っても運が良くて、空戻りはねぇっけな。ただ、雪崩あって死にそうなったなや。それから大鳥さあんまり行かなくなったな。沢で横巻きした時、上に友二さん巻いて、俺が中段いて、下に悦夫さんいたんだよな。で、俺が上がって終点まで行かねばねぇなや。上がっときや。こっちは白い平で上がりやすいけども、なんかで俺は釣り峰上がったなや。すっと、目の前でバーンと雪崩来て。伏せたんだよ。ダーッて雪崩落ちるのわかんだ。あれが当たれば身体ごと持ってかれる。ほんとでいがったなや。雪崩落ちてもう10m、今度上がって行かねばねぇ。したらまだヒビ割れてあんだよ。いつ来るかわかんねぇな。10m、死んでもいいと思って走って渡ったじゃん。やっと安心なること行ったなや。ほしたら、今度悦夫さんが下で撃って熊逃がして。雪崩落ちたとこさ熊が来たなや。ほんと俺死んでも良いって渡ったとこまた戻ってかねばねぇ。その時は「俺、あと熊いらねぇ!」と思ったな。
死ぬ思いをしたもう一回はな。そん時も悦夫さんに熊が行って。悦夫さんが当てかねて下から常男が撃って仕留めたんだ。で、「獲った獲った。」って斜面さみんな集まったなや。で、熊引きながら途中で靴で雪を平らにして熊置いて。「じゃあここで解体すっか。」って言って写真撮って、熊囲んで飯食ってたのや。俺は山を背中にして飯食ったのや。したら、なんかドン!って音したんけ。ドン! ドン!ってんだよ。「え?」みたいな。雪崩が来るの。すぐ逃げたじゃん俺は。左さ逃げたな。悦夫さんはすぐ釣り峰。右側さ逃げたんが秀勝と二三男。して、リュックサックと飯がそのまま流れされたなや。雪崩終わってからそのリュックと飯取りさ行って。「おめえだばおっかねぇ。よく行ったな。」って言われて。だって俺、飯食わねぇば腹減る。リュックとバナナだけ取ってきたなや。で、熊はあと埋まってったっけし。「熊どうするよ。」って言ってたら、また雪崩来て。その雪崩が隠れた熊を押し上げて、ボンっと出はったんだ。「ここでやったら駄目だ。」ってみんな引き上げて。あれは最近だぜ。
雪崩だけはわかんねぇっけな。来た時はおっかねぇとかそんなこと何も考えねえじゃん。「お母さん!お父さん!」なんて暇ねえで。ドーン!って音して、見たば目の前さ氷河みたいなガーッと来てるんだ。頭の上さ。考える暇ねえで。これで死んだら…。でも、その 2回目の時は今思い出すと、斜面を下っている時や上からパラパラと雪落ちてんだよな。頭の片隅さ「あれ?雪崩の兆候なんかな。」と思って。でもそこで写真撮ったりして、「飯食おうぜ。」って杖刺して飯食おうとしたら、ドン!って。でも1回目よか全然。まだ余裕あっけ。「逃げろ!」って逃げられっけんな。
あの、一つ面白かったこともあったんだよ。山行が遅くなった日だけども、熊見つけたのよ。昼の1時頃になったわけだ。で、文一がいたんけかな。足の速い孝治と常男と二三男を上げてやったんや。一番切ないところさな。そのしょさ摩耶山側から熊を上げるあんが妥当な作戦わけや。ただ、今回は熊を下そうってなったわけ。ほんだ巻き方は今までしたことねぇんだ。まずそれはいいとして…。
それで文一と二人で行って見て、俺が見つけたさけ俺がメェカタになって。文一と「今日は新方法だ。上から下そう。」って文一が配置場所さ行って。したばな。伊藤秀勝が来たんだ。俺と従妹のベストコンビ。それがの、10歳も上の先輩連れて来たわけや。で、秀勝が「龍夫、今日はどうする?」「あそこから下してクビレさ追う。」「わかった。」ってあと何も言わない。秀勝が先輩とこ、順一さんと喜一さんを配置したもんな。自信とか言葉がやっぱり、いねばねぇってっていうのがあったんねぇ。その後に俺の親父も小一さんと来たわけや。で、巻き方聞いたんでねぇ。そうすっと俺の親父がごしゃいだ訳や。「こんなバカなやり方で熊獲られるわけねぇ。」って。それを小一さんがなだめて。どうもなんなくて、見てたじゃん。それで獲ったのよ。それがまたおもしかった。その頃から熊取りの方法も柔軟になっていったんだろうなぁ。
もう一個あったな。摩耶山でな。あれは俺と喜一さんいて。俺が木さ登ったのを撃って逃がして。して探したばまた別の熊見つけて。俺がメェカタしてて。あまりにも熊の下さボイ手が来て、動けなくなったんや。で、どうにかこうにか漫画みたいな作戦立てて、で、「熊走ったら俺無線するさけ、熊のとこ走って行って撃て。」って。これが的中して獲ったの。こういうあんも面白いぞ。獲るのも面白いども、マエカタも面白い。サッカーで言えばゴールよかアシストのほうが。それだって面白いもんよ。熊獲りはな、単純にな。もっしぇさけ行くあんやな。
亀井龍夫さん:昭和27年生まれ
聞き取り日:2025年11月14日
文責:田口比呂貴