大鳥のこと

【大泉・朝日 山の人生】 安達隆男さん

屋号は八右衛門。俺は5人兄弟の長男。生まれは荒沢、まだダムで水没する前だ。沈む前の荒沢部落は42軒あったんだ。昔の荒沢は賑やかなところで。8月の祭りっていうとや、神社は二つあって15日にお祭り荒沢から始まって、各集落回っていくわけだ。下田沢は16日、上田沢は18日とか。最後、8月24日っていうと荒沢でもう1回祭りやる。自分たちで相撲を立てたり、演芸したり賑やかなんだっけぞ。おらいで変わってたのはや。正月には仏様をしないっていう。普通の神様も仏様も見るわけだけど、正月は神棚ばっかりで仏様はお休みっていうなが。自分の家だけだかもしんねぇ。荒沢全部そうだったかもしれないし。正月は神様だけで、仏のことはお盆にやる。三が日は仏事はしない。

俺の親父は戦争さ行ったなや。あと、母親は残って田んぼ作りじゃん。俺わかる頃は。ダムの話が昭和20年から始まって、25年から工事が始まり、30年に出来てんのや。その間に小学生、中学生になっちゃん。小学校卒業するまでの中身は全くのからっぽ。思い出も何もない。ずっと1人だったんだ。成田闘争ってわかるろ。あれと全く同じ。筵旗立てて。大人も子供も反対。反対ばっかり。

まず言うと、俺は「条件付き賛成派」の家の子供みたいな感じで。条件の中身はわかんないけども。ダム工事で村が沈む計画が知らされると、極端に言えば賛成派だとか反対派だとかで分かれてくっちゃん。こんな感じで親しょがやってるもんだから、子供も同じ。俺がちょうど狙いの良いターゲットだったと。俺1人だけ、条件付き賛成派の子供だと、こうなってしまう。俺をターゲットにしていじめるわけ。だから同年代と一緒にいること一切ない。同級生が14人か。同級生にガキ大将がいて。それが反対派の長だったりなっと、全然話にならねぇんだ。学校の先生は全然ノータッチや。親しょだって構わねぇんだもの。いじめなんて構わないんだし。ダムのことが関係なかったとしても子供がいじめられても家さ帰ってくれば「あんたが悪いはけだ。」っていう時代。だから俺は集落に帰ってきてからも、一切、誰かと一緒に遊んだことねぇんだ。毎日1人。普通なら川さ行って、みんな集まって泳いだりしてるわけだ。溺れれば助けるしって。それが無くて、俺1人でカジカ獲りしてるしかねぇ。寂しいなんてこと…。限界超えてるんだ。

小学校3年生までは分校あって、そっから6年生までは上田沢で。4km通ったっちゃ。同級生らが途中で待ち伏せしてるんだはけや。どうやって学校さ行くか、どうやって帰るかだけ頭さあって。あとは何もない。小学校のこと、中身なんにもない。学校で行事あったり演劇したり、そういうのもそれなりにあっちゃん。そうすると、嫌なことは俺さやれって。劇があると仮定したら、代表者は俺で。プログラムさ“隆男以下何人”って書かれるわけだっちゃ。「隆男だけだから、まず俺は参加しなくていいな。」って。簡単に言うとこういう感じや。

今みたいにクマ出てくるわけじゃないから通学は待ち伏せを避けるために山を通って行ったりしたもんだ。でも、学校さ行ってからもいじめてくる。ただ、登校すると生徒で助ける人いるんだや。だから、学校さだけは行ったもんだ。小学4年生からは、夏は上田沢まで通うわけだから。その関係でや。助ける人がいるんだから、学校内では段々にいじめなくなってくる。

ダム工事も最初はみんな反対だったわけ。でも、段々に攻めてきて。工事なんて補償金決まらないうちから工事始してるんだから。段々に作っていくんやな。トンネル掘って付け替え道路作ったなや。で、削岩機やってる隣を通って中学校さ通ったんだ。今だば考えられねぇ。ダムが完成したの中学3年の時。10年ぐらいかかってるから。昭和25年から本格的な工事始まってんだよ。昭和30年でゲート締めて。そこから水溜まる。おらいは昭和27年頃にダムの下から今のところに上がって来た。保証金で自分の家建てるなで。補償もらって建てても、数十万円の借金なんだっけ。今と全然違う。ダム出来てから残った家はうちも入れて16軒だ。上が3軒、下が13軒。あとあっちこっち行ったじゃん。

大鳥鉱山でもダムの反対してたのは、最初は大鳥も沈めて、鉱山の索道を新潟のほうさ回してやるって話もあったみたいだんけ。でもみんな反対して。従業員向こうさ行かねばねぇとかめんどくせぇし。反対したんだろ。荒沢ダムが無かったら、だいぶ違ってたな。やっぱり荒沢ダムが出来なかったらみんな暮らせねぇもん。出稼ぎさ行くってなるや。上田沢など120軒もあったが、今は50軒もねぇ。みなそうなるんだ。

親父は戦争から帰ってきてからは田んぼするしか仕事ねぇんだもん。ダム出来てからは近くの田んぼは無くなったはけ。ダムの仕事さ日雇いで働いてるんだっけ。移転した人は田んぼと畑もらってるわけだからそっちで一生懸命やるわけだ。ただ、昭和30年にダムが完成してや。完成と同時に観光事業が始まって。日帰りではあっけども。今の米の粉の滝ドライブインから入って、八久和越えて鱒渕越えて荒沢さ、庄内交通の観光バス走ったんだ。うちさ来て昼食とって帰るっていう。民宿は見晴らし荘とか緑水館とおらいの荒沢荘。そういうのが何年か続いて。ダムさもバス一台分の人がみな乗れる船あったんだ。40数人分。ダムの中を船で回ってお金もらって。3人共同で船を買ったの。俺はまだ子供なんだはけ、ジジババが商売はやった。10年ぐらい続いたんだろうな、バス。1日に3台も4台も来るんだっけ。うちでナメコ栽培がいっぱい採れてな。ナメコ汁食べさせて帰ったんだ。その後、今度は魚釣りが泊まってくんだな。都会から来るんだ。沢さ入ったり、ダムで釣ったり。ダム出来た頃なんか魚が手づかみされるほどいたんだっけ。放流もしたろうし。そこで生まれたのもいたろんし。メインは鯉だったな。

川だった時は鮭とかアユとか、鱒もか。ダムなってからはいないわけだけども。ダムなってからは鯉、フナ。いっぱいいるっけ。フナなどスゴイんだ。網さあまりいっぱい掛かって、獲りたくねぇ。生け簀作ってや、鯉の養殖もしたんだ。ハヤなんかは網へっこむほど。ワーって餌、喰いたくて。網ですくえるもんだっけ。鯉を食べるのは妊婦が栄養つけるために食うぐらいで。誰でも食うってもんでもなかった。鯉はどこの家でも流しのそばさ堀あって、そこで飼ってたから。正月ごっつぉでも食べたりしたろ。特別、鯛を買ったりはしてねぇな。商売では煮て食わせたわけだども。俺のババは鯉煮の免許皆伝の免状もらっておいたんだっけ。鯉煮の名人で。

ワカサギを放したのはダム出来てからだな。イワナだかしはや。お盆だはけってイワナ獲って来るかって沢さ入って。夜獲って悪いわけだけども夜行って。夜突きな。登って行くといるんだ。お盆だかお盆前に獲って来る。いつでも行くってことはねぇんだ。自分の家必要なだけ、8匹もあればいいやとか。どこまでも行ってなんぼでも獲ろうっていうのはねぇんだ。必要な分だけ。

子供が魚獲んなはや、ハヤとか田んぼドジョウとか。竹で作ったドジョウドウってあったんだ。川さ米糠入れておくと一杯入ってるんだっけ。流れがゆっくりな、澱みみたいなところに仕掛けるんだ。いたなって見えるんだし。あそこさいたから、ここさ置くかって。そんな感じ。水流れるところさは魚なってもいるんだや。釣りもしたもんだども。魚いないとこさ、いたかいねぇかって釣りはしたことねぇ。魚の目の前さちゃっとやって。それだけいっぱいいたなや。イワナなんかは子供だからそんなおっきいなは狙えないんだし。獲ったらおらいでは大バンバが一所懸命焼いて囲炉裏で焼いてくれるんだっけ。佃煮して食ったりしたろ。

後から考えると、タキタロウでねぇかなって言ってるけど…。ダムで網かけて鯉獲ったりしてたじゃん。そうすっと変わった魚いるんだ。一種類だけ。イワナみたいだけども青くてや。青光りするようなあれで。模様はイワナと違うんだや。して長くてや。30cm以上。身は赤くて、これがまた食うとすごく美味いんだ。そのころはうまいもんだと思って喰ってたんだ。いっぱいはいねぇけども。

ダムで魚が獲れなくなったのはや。どこのダムでもそうらしいけども。30年ぐらい経つと魚いなくなる。あそこでは孵化しないんだし。1日1m上がったり下がったりするから。ここさ卵つけても次の日は水無くなってるってパターンだからここでは増えれねぇ。放流しねぇば全然だめだ。あと水質も悪くなってダメなんだ。30年くらい経つとや。20mくらいのところは酸素濃度よくよく少なくなるとこあるんだっけ。船の上から測る機械があんなや。

中学校上がってからは炭焚き。昭和36年までの6年間。冬だけだな。親父は日雇い仕事だから。工事が終わってからも残工事みたいなのもあったろうし。この頃はどこさも仕事がねぇんだ。炭焼きは上田沢の人から教わった。国有林で焼いたんだ。うちの前から道路あっじゃん。ダム出来た時は付替え道路ってなかったんだ。大鳥街道もバス登っても、カーブでは後ろのタイヤ一本外れるくらいの道路だった。ダムの水面は自由使用だったなや。だから船で行ったんだ、炭焚き。冬は雪、1mも積もるとダムの上歩かれるんだ。炭背負って歩いたんだもの。ダムの上ソリ引いて。孫が来るとスノーモービルで走り回って。間違えば落ちるや。河口のほうは氷薄いんだし。最初、3cmぐらいの氷貼るんだや。もっと薄いかもしれない。その上に雪が積もって、水がにじんで表面がまた凍るなや。サンドイッチ状になって。だから、例えば足ストンとやっても下さ抜けたとしても。氷の上カチャカチャってなって落ちるって事はねぇんだ。でも、氷まだ薄い中からダムの上行きたいじゃん。山行きたくないから。行かれるかどうかの時に行くわけだ。落ちたこともあっけど。カンジキだけストンと抜けるくらいだけど、体が全部沈むってことはねぇ。あれ、対岸から杉や丸太出す時は索道で出した。冬に索道張る時、キャリアでダムの上歩いてワイヤー運びしたんだもの。キャリアいっても沈まないんだや。

春からは百姓。ダムなる前は集落の中さあったけども。ダムなってからも残ったのは池の平って山の上だな。4反歩。昔からあったんや。残った人さは代替え地も何もないんだ。百姓は昭和40年までか。やっぱり容易でねぇや。尾浦橋から米が上がって来てたんだもの。俺ら食うために買ってたんだもの。おらいばっかりでなくて。自分の家で食うのやっとなんだ。

おらいは機械もねぇ。牛もいなかった。全部腕力や。最初、稲株を切る道具で株切って。鍬で起こして。マッカ鍬っていうので崩して。最初はそんな感じ。そのうち、耕運機とかちゃっこいの出はってきた。あげだのも山の上さあげて使ってたども。最初の頃はみな人力や。それ当たり前だと思ってたから、今考えてみるとよくこんな事したもんだなって思う。池の平で田作ってた人は皆そんな感じだ。ダムなる前はな、馬飼ってた人もいたけども。その頃だって砕土機っていう。牛にひかせるような。それを人間が引っ張ったってのもあるんだ。

昭和40年からは森林組合に行ったんだな。朝日の森林組合の女の事務員が東京さ出るからって。欠員出たから来れないかって。事務屋で行った。俺炭焚きしてたろ。事務員の仕事ったってまず1-2年は何したかわかんない。造林だとか何とかって杉あれだけ植えたんだはけ。苗圃もやってたっけし。まだ杉は売れる時期だっけ。木材は40年、景気良い頃だやな。杉の植林は個人で頼まれたもの。大きいのは公社造林とか。大泉の場合、植林は個人が多い。苗圃が落合さあって。苗はそっから持って来る。

それから製材工場さいったんだ。製材所が田沢さあって。まだ鉈ノコの時代。バンドノコの時代ではねぇから。ブナの伐採もやった。あの頃は売れておもしろいっけ。なんぼでも売れるんだ。買い取りは森林組合の連合を通して。実際は工場さ持って行くけども、金の流れはな。現場も行ったし。千何百メーターもワイヤー張って、集材機使って。木を出してくるのが俺の仕事。架線技師免許ってあるんだ。普通、親線ってキャリアのっかるメインのワイヤー。それから行ったり来たりするワイヤー。あと荷物を揚げるワイヤー。3本が普通なんや。これを2本でやるっていうのがあるからな。八久和の下で。1100mなんぼだっけかな。山越えなんだや。山越えっていうとワイヤー擦れて酷いんだ。

山一面のブナ、みな伐った。俺も伐ったし。八久和の堰堤のすぐ下で出したんだ。7尺の長さに切って、パルプで出すって言うけど、ブナだって良いとこはみんな用材、家具材に使ったんだ。硬いんだし。丈夫じゃん。おらいの椅子は嫁持ってきたんだ。それだってブナだ。まだ潰れねぇもの。大きい家具にみな使ったんだ。

ブナを皆伐しながら“母木”を残して種子をまかせて、また自然更新させるってやり方があっけど。俺は母木には反対だんや。全てのものが、自分1人では生きていかれねぇや。人間もそうだし。1人だけに生きる事はできないし。木だって1本で生きていくことは出来ないから。みんな一緒だってやっとこう生えていく。みんな伐ったとこだと、最初は柴がカチャカチャと。ブナがやっと伸びてきて辺りから助けられながら伸びていく。一本だけだと風、雪で倒れてしまう。なんでもそうだって。木だけじゃなくて全てや。田んぼだってんだし。一株だけあったって倒れる。ビッシリあるからなんとか互いに。結局、母木残したってみな倒れたっちゃ。殆ど残ってねぇぞ。間伐くらいだばいいけど皆伐となっと。杉だばな、自分たちでまた植えるからいいけど。みな伐っても15年なんぼなればまた新しいな出てくる。スーパー林道の新潟側、道路脇みなずーっとみな二次林じゃん。伐った頃だと柴ばっかりでブナおがってくるんだろうかって案じるけど。出だしはそうなってるんだ。柴に支えられて段々大きくなっていく。

大鳥との関わりは…。大鳥の山さ皿淵雨量計ってあんなや。あれを造るのに資材をみんな背中で背負って上げる予定だったんだ。それさワイヤー張りを勧めた。そっから始まった。集材機は下で。峰近くの木は伐らねっていい。空中なんだ。ちょこっとは伐んねばねぇ。対岸さあったんだ。本流を越えてや。集材機、動くワイヤーっていうのはどこでもいいわけや。その後も大鳥で、チェンソーでもなんでも、機械の修理頼まれてたなや。遊びいきながらやったんだ。

元々はチェンソーの修理、金貰ってやってたわけでねぇけども。自分の炭焚きでチェンソーを使ったんだ。この辺でまだ何人しか持ってないときに。あの頃は燃料も悪かったし、すぐ故障なんだや。燃料どういくのかもわかんないんだし。分解してみんな切り刻んでや。それでここだっていうのを突き止めたから。スタート部品の部品交換したり、キャブレター具合悪いば部品交換。こっから始まって、よそのも修理してくれたりして始めている。それは森林組合行く前。森林組合に行ってから林業構造改善っていうのが始まって。チェンソーは個人でも補助出してたんだ。そっから食いつないでいったなや。チェーンソー以外はあと草刈り機とかな。

森林組合にいたのは正確に言うと7年と何か月だか。そのあと職業訓練校さ行って。自動車整備士免許を取って。訓練校終わったら自営業でやるつもりだったけども、訓練校で完全就職でねぇと面白くないらしくて。就職で、鶴岡ヤンマーさ知ってる専務いたから。1年間使ってもらって。して、2年ぐらい自営業したかな。自営業は農機具。ヤンマーさいたもんだから、農機具やって。コンバインが出始まってきた頃で。里前でハーベスタいらなくなって。それを山のほうさ持って来た。みな、壊れているから辞めてるわけで。それをみな修理して。その後は、定年まで22年間、ダムの職員勤めて。草刈り、見回り程度。夜勤もあるんだっけ。

定年後はフリーや。チェンソーとか機械の修理したり。若い時から鉄砲撃ちもしたんや。猟を教わったってことはねぇ。巻狩りする時は一緒に行ったりするわけだけども。昭和43年から2-3年間は庄内うちみな回った。おらほの山は自分たちだけで。荒沢の炭焚きの人たちが集まって巻狩りなんかは1年に1-2回。熊獲りは俺はいかねぇ。荒沢で熊獲り行った人はいねぇな。それほど熱中して鉄砲本気なった人はいねぇ。1人コソコソと回ってて親父獲ってくると、捌くなは俺らだっけし。俺獲ってくると捌くのは親父。ウサギもや。まっすぐ上がってきて、必ず止まんなやな1回。黙ってこうやって。あれさは撃たれねぇんだ。黙ってるから撃たれそうだども。ずっと逃げていくとコンチキショーって思って撃たれるけども。パタッと止まってられると撃たれねぇんだっけ。止まってるのを打つのはめじょけねっちぇー。

ウサギはいたんだ。昭和40年から45年ぐらいまでは凄くいた。野兎病というのが流行ってや。野兎病は、表面はわからない。捌いてみるとわかるなや。俺らは“ゲルグド”って言ったけどもな。おたまじゃくしみたいな。腹の中さちっちゃこい卵みたいなついてるんだっけ。だから、捌く時は手袋して捌かないと人間さ移るんだ。煮て食ったりすればなんでもねぇなや。傷口あったりすると感染する。野兎病…、あんまり数増えたはけ流行ったんでねぇかな。ここで流行る何年も前から岩手県あたりで野兎病流行ったって聞いたりしった。ここでは野兎病は昭和40年過ぎてからや。羽黒でも田川でも、みなそげだっけ。

カモはダムに蓋するほど来てたんだぜ。とにかくいっぱいで、俺も獲ったもんだもの。ダムのカモ撃ちは船で追っかけてや。入り江さ入るとや。カモは向こうさ飛べば、折り返して帰って来るんだ。頭の上通るから。ちょうどいいなや。撃つのは慣れれば同じだろう。何メーター先撃つったって。慣れだ。今はなんぼ来なくなったちゃや。鳥インフルエンザでいなくなったんでね。あと来なくなったから鉄砲辞めた。今も20羽の群れ来たりするけど、蓋するほどは来ないもの。来なくなって15-6年くらいはなっかな。

ウサギ輪っかは、針金であれは子供の頃から。最初はスズメからな。スズメは田んぼの畔さ雪消えたとこ、あっちゃ。スズメあがるとパチャって挟まるやつ。上下かけてや。どうして作ったんだっけな。忘れた。あとイタチの筒みたいなやつ。自分で作るあんぞ、柳の枝で。あと、うちの中さ入って来るスズメ。あれはザルに棒立てて、スズメ入ったところを自分で引っ張って。スズメ、うちの中で米作るからいっぱい入ってくるんだ。

あと、鳥はジョロ虫でも食うっけぞ。薪運ぶ時、薪さいっぱい付いたの俺払うじゃん。俺いなくなったらカラス来て喰ったりしてっけ。昔の方がジョロ少なかったなや。今みたいにジョロいるんだば商売なんぞ出来ねぇ。あんまり人間が好き勝手なことすっさけジョロ来てるあんかな。

安達隆夫さん:昭和15年生まれ
聞き取り日:2025年11月29日
文責:田口比呂貴