【大泉・朝日 山の人生】 黒井卓也さん
曖昧だけど、戦後10年余りまでのことかな。砂利道は村の南北に走る県道一本だけ。他は土の道。雨の日の学校通い、草履履きでは背中までスッパネが上がる。スッパネって分かんないと思うけど。雨の中歩くと、太腿裏からお尻にかけて、泥がつくんですよ。小石も。だから、草履を半分にした足半で通いました。山にはワラジを履いて行きました。歩行には枝とか石とかに気をつけながら。靴下みたいなものは履くとすれば足袋。冬はゲートルやハンバキ。夏の山仕事、普段履きはワラジ。そういう時代でした。炭焼きをしていた上の兄は、素足にワラジ履きで、マムシに2度噛まれた。噛まれた足は膨らみきった風船のように、マムシ模様に腫れあがっていた。別人の足のように、これ以上太くなれないほどに。終戦直後は長靴もあったけども、品質が悪いんです。もっとも、良いのもあったかもしれないけども。うちで買ったものは当時は高かったと思うんだな。新品でもわずかに履き歩くと足首あたりに折り目がつき、ヒビ割れて穴が空く。そんな繰り返しでした。
俺、桶屋が好きでな。桶屋あったんですよ、上名川に。子供の頃、1人で黙って見てて。なんだかんだそういうこと好きだった。味噌樽みたいなの、父も作るんでした。あれはヒノキが一番いいとかかな。でもこっちにヒノキはないから。良い杉の木を使って。丸太を木挽きして樽も作る。餅つきの臼も。あれはケヤキだっけかな。それも作ってるんだけどもな。トチの木だったか。とにかく杉ではなかった。
それに、“庄内杓子”。木製のお玉。それを作って、柄をつけて漆を塗って、そして熊出の杓子屋に出していたという。随分遅くまでやってた杓子屋あったんです。父は上名川で自分で使う漆かきをしていました。俺も山さ一緒付いて行きました。板戸なんかに塗ったりもして。あと、豆柿の渋。それも熟成か何かして渋液を作っていた。それは投網の網を強くするのに使ってたかな。
食べ物は、肉売りは来ないけども、魚売りは来ていた。で、毎日来るわけじゃないんだもんな。季節季節の魚を売りに来る。夏場はリヤカー、冬は肩掛けで引く雪面に鉄板か竹のついた大きいソリ。それに木箱に魚をいっぱい入れて来るんです。冬場、下名川の女の人が来るんだっけ。それ以外にも来るんだけど、主としてそうだった。当時は娯楽がなかった時代。夜にそこの家の座敷を開放して。秋田とか岩手から来たっていう歌手が民謡を歌ってな。大人にも子供にも聞かせたりしていた。人形芝居もあった。そういう催しがあった家が魚屋だったような気がする。俺、非常に内気な子供だったらしくて。病弱でもあった。精神的に弱かったと思う。で、親から行けって言われて行っても、あまり楽しめなかったけども。
肉を食べる機会も少なかったな。動物たんぱく源っていうことで、うちではまずニワトリを飼う、ウサギ、ヤギ。みんなの家がそうだかはわからない。そして、「肉食べなくなってからしばらく経つな。」ってなると、じゃあ、ニワトリ潰すか、って。ニワトリは潰しても、卵からかえして育てていました。解体は俺もしました。屠殺は俺じゃなかったけども、皮剥いだり、内臓出したり、腸絞ったりした。冬にノウサギを獲ってきて食べたこともあった。肉は売りに来ることもなくて。まぁ保存方法もあんまりなかったんだろうけど。まず、あったとしても魚の干物と缶詰ぐらいかな。とにかく魚とか動物の肉食べたくても毎食なんかねえから、昔は。一週間に一回食べたかどうか。それもなくなって、魚売りも来なくなった場合に。家畜を潰してな。そしていっぱい煮て、少しずつみんなで食べてた。そういう生活。
ヤマドリ(キジ)もな。昔は山さいるヤマドリ見つけると、鳥の上をかすめるようにヒュっと棒を投げると、頭だけ隠して木の根元などに刺さるもんだな。あぁいうの捕まえたり。棒切れがいいんだや。とにかくタカとかワシとか飛んできたっていう疑似感を出せば、それでいい。キジのすれすれに投げて。棒だってわからないような瞬間に、「タカなのか?!隠れねばねぇ!」っていう。中々上手くいかないけどもな。静かにな。あそこにいそうだとか、いるとこだって。忍び足で行くと見える。棒をサーっと投げて。頭を突っ込んだところを手づかみ。頭を突っ込んでれば自分は隠れたと思ってるんだな。
ウサギは桟俵でなぁ。雪がいっぱいでウサギの足跡がよく分かる天気の日に、対面の山からウサギの足跡を見つけてから、ウサギの隠れている山の木の根元のウサギに気づかれないよう上の方から遠回りして近づいて行き、桟俵を木の根元をかすめるように投げるもんだっけ。ほうしっど木の根元さいるウサギはハッとして木の根の雪穴の奥の方さつkっこんで隠れたところを手づかみするなだって聞いた。兄が近づいて投げる前にウサギは飛び出し逃げたのでした。
カンジキなんかも父や兄が作ってた。クロモジで。俺も作ったしの。爪はイタヤで。ケシギも作って。雪ベラのことです。材料は、ブナの可能性はあるかな。ホオの木は柔らかいからな。イタヤかも。イタヤの樹液も採ったっけ。ちょっとしかなかったけど。それは、何かこういうこともあるのよぐらいの。うちの山での。
テンゴはアケビ、ブドウの皮。もちろん藁でも作る。藁と言っても、“ミゴ”もあんのよな。藁に芯茎があるんですわ。芯の茎が。それだけで作るのが高級品。藁全部で作るのが藁テンゴ。ミゴはとっても綺麗なんです。それで作るのが高級品。あんまり大きいものは作らないけども、ミゴテンゴって言ったかな。糸で編んでな。例えば色の付いた黒とか赤だとか、白だとか、ちょっと見た目も綺麗にする。まさに民芸品だ。細くて、ツヤもあるし。ミゴの場合はいろいろ工夫したと思うよ。シナ皮を剥いで処理して水に強い入れ物などを作った。ウリの木の皮では蓑も作った。あと、藁で蓆織りもな。ゴザみたいにして。
田んぼの仕事も一通り手伝いました。田仕事はまず春先の、堅雪をソリで堆肥引きからはじまってな。日差しの強い雪の照り返しで雪焼けで顔はあっかぐなって。雪目になりながらの。雪消えるとまず田植え前の株切りから始まって。牛での田起こし、代搔き、そして田植え、草取りなどさまざまあって。秋の稲刈り、稲あげ、それも遅くまで掛かってな。脱穀と、そして籾摺りてのぉ。牛やヤギなどの餌やり、毎朝夕に田んぼの畔から草刈って。ヤギの乳しぼりもした。ヤギの乳はよく飲んだ、好きだった。
実家の倉は少し離れていて。大正の頃か昭和初期の頃か、祖父が養鶏を始めるってことで建てた倉だったようです。それなりの大きさで。そこさ、いろんな雑な物入れてあったし。で、そこは茅屋根で、下屋さ牛、ヤギ、そういうものを飼ってた。で、ドブロク作っていた。父が小屋の土の中さ穴掘って、土の中で発酵させて。小屋の下屋さも土さ穴掘って、そこで発酵させて酒造っていた。子供ながらに、匂いは嫌いではなかったな。
晩秋か初冬、カヤ刈りもしたな。あの頃体力もなくて、大変だったな。刈って束ねるまではいいのよ。茅は茎が長いわけだ。それを狭い山道、周りはヤブ。背負っていくと、周りが高く、ヤブに当たるわけやな。ヤブを撫でないで横歩きで進む。カヤは生だから重いんですよ。家の裏山の上の山で、峠二つ越したところにカヤ場があった。夏場はカヤ場のクズとか草とかを刈って手入れしてるんだな。そしてカヤが育つように。手入れしてないとダメになるんだ。 特にツル類な、クズとか。ちっちゃい柴の木も。
残雪の頃に柴刈りやってな。その柴は燃料にする。焚き付けでもなくて、とりあえずの煮物なんかで急ぐときは、柴を燃やす。柴使ったんですよ。だから雪がまだまだ残ってる時に柴を束にして山から出すんだけども、それも結構大変だった。とにかく薪と柴は年中毎日使うわけだから。薪は倉と外にも割って積んで、屋根かけておいたものでした。
山奥の炭焼きは泊まり込み。早田山の国有林、それから山形大学演習林。そこが主として上名川・下名川地区の人たちの炭焼きの山だったんです。うちの家のすぐ裏が自分の山で、そこでやってたな。窯には石窯と土窯の両方があって。土窯の内壁は土。石窯は石で組み立てられてる。石窯は一回で大抵7-8俵ぐらい白炭が取れるかな。3日に一回出すからとにかく忙しいんだ。時間勝負で。全くの夜中に「山さ行くぞ。」って言われて。窯の中で木炭が真っ赤に立ち燃えている状態のを長い鉄の棒で引っ掻きだすわけだ。もう熱い、熱いって。で、赤い炭がヒビ割れしないように、あらかじめ焼いておいた土灰を即座に被せて冷(さま)す。それが終わると、新しい木を熱い窯に入れるわけだ。冷めないうちに。Y字形の生木の棒で窯の中に順次立て並べる。その繰り返しわけやな。 そういうことの経験をしました。土窯は一回焼けば 40-50俵と大きい。木炭の良し悪しはいわゆる火加減っていうかな。土窯も石窯も要するに生木を蒸して圧縮する状態だからな。その加減を測るのが昔は匂いと視覚。勘の世界だったんだな。“アオケム(青煙)”って言ったけども、青ったってどれぐらいの青なんだかな。匂いと色で判別してな。そのクドを狭め、あるいは閉じる。そのチャンスを伺ってな。
炭焼きは兄が行い、手伝っていた。兄が二人いて。上の兄は、引きこもるように早田山さ年中炭焼きに。戦争さいく前は農協で働いていたというが。で、兵役から帰ってきてから、当時はそんなに仕事なかったこともあろう。復員のあとは炭焼き人生で終わった人だけど。経済的な豊かさよりも、内面的な豊かさを求めての生涯のようにも思える人だった。戦争で何があったかはわからない。
戦後の仕事のない時代。炭焼きは山奥で。まぁ山奥しかなかったからな。家の近くに炭窯があるっていうのはあんまり見たことないんですよ。 近くに個人山はあるけれども、適当な林がない。適当な林というのは、良質な炭を作るために手ごろの太さで、良質で、割ったり運んだりと処理のしやすい木々があるところ。窯まで運んだり割ったりする作業が大変だから。そういうことも含めて、適度な木。確か、樹木が20年余りとか。はっきりは忘れたけども。4つに割って、丁度いいくらいの大きさが一番品質がいいし、作業がしやすい。で、ある程度の面積があれば、樹木の生育に合わせ、ちょうど良い木に育つころ。またそこさ窯を造る。雪の上、例えば 6尺 7尺のところで伐る。その下は残して、伐った上を炭焼きに使う。すると、切り株からは芽が出て、いずれ何本かの枝分かれしたような幹になる。それを“アガリコ“って言うんです。そして雪がいっぱいある方が伐った木を窯まで運ぶのがいいわけだ。ソリで窯場まで運ぶ。夏場はそれが出来ない。だから雪を利用して切って刻んで運んで。その繰り返し。冬の作業で大きな事故も多数あったとも聞く。人里遠くの山で炭焼き暮らしを生涯とした兵役帰りの人たちが何人もいたとも聞いた。
養蚕は祖父の時代から始めたようです。飼育を広く普及していたと。昭和20年代は家中蚕だらけであった。30年代の中頃までかな。繭は共同で買い取るところがあったような気がするな。養蚕やってたのはうちだけでないんで。勿論その中で品質を決めて。どれが安くてどれが高くて、ってそんな話もしていたようではある。家には地下室があって、蚕の桑の葉を新鮮に保つために保管しておいて。いつも湿っててひんやり。桑の葉を置かない時は食べ物を置いてたみたい。
養蚕も手伝いました。蚕は繭になるまで桑の葉だけ食べて4回も脱皮して大きくならねばならねぇなださげ。生き物だから。休みなく忙しいもんだっけ。その時代、その地で生きていくための一通りの手伝いはやらされてきた。「なにを覚えておいても良いもんだ。」「どこかで役立ち、生きていかれるように」って言われての。養蚕は桑の葉が大きくなった初夏から始まって約30日で繭になる。そして桑の成長が止まる初秋まで3回ぐらいほとんど休みなく繰り返すなださけのぉ。1日も1食も休まねぇさけ。家中の部屋という部屋は繭の棚だらけ。棚は3~4段。何千何万匹の虫だらけ。夏は蚊の発生の期、防虫殺虫剤は使えないし。人は蚊に刺され放題。
思い出すことがある。4~5令になった蚕へ桑の葉の一斉給餌の際のごどだげど。その小さな虫たちが小さな口で桑の葉を食む小さな音でも何千何万匹が一斉となると、その音はたとえようのない不思議で大きな音として家中に響き渡っていたことがあった。どこか荘厳な響きを感じた時があった。
桑の木のある周辺には麻畑やカラムシ畑があった。糸とオガラを取るために植えていたんだな、大抵の家で。麻は丈2ⅿぐらいと高く。皮剥いだ茎を乾かすとオガラって言って、白く、とても綺麗でした。結構貴重だったんですよ。いろんな用途があったんです。お盆の先祖迎えの松明にしたり。年中行事の際に使ったり。あと、オガラやヨシには穴がある。その穴に小さいハチが卵をつけるんです。で、穴の卵が育ち、幼虫がいっぱい育つんです。時期を見計らって幼虫を採って。それを煎って食べる。別に美味いってことはないけれども。
それと、繭の真綿を自家で作るんです。繭を煮てサナギを取り出してグーッと伸ばして何個か重ねて。一枚布ができるわけです。そのサナギを乾かして鍋で煎って食べる。飼っているコイの餌にしたり、川底に沈め川魚を捕るドウの囮餌にもしたりもあるけども、人も食べた。あと炭焼きの時に、クワガタの幼虫なのかどうかな。“ゴドゴドムシ”って言うけども。それを焼いて食べる。これは美味しい。 生木をバンと割ると出てくる。ナラの木から出るのではなかったかな。
冬の食べ物の保存はツボケでした。野菜などを入れて雪室状態にする。そうすると温度が安定するわけだ。藁を束ねて円の筒状に積み重ねて、3尺くらいの高さに組んで、家の入り口辺りに設える。保冷庫だな。ツボケは雪ざらしのまま、雪に埋めておくのです。
ギロウという言葉がある。例えば動物、人間も含めて。野菜ではあんまり言わないかな。生きたまんまみたいな意味で。『そのままだ。』みたいな状態をギロウという。死んでるけども生きているように見える状態のことをギロウと言った。庄内弁かはわからないが、そういう言葉ある。ツボケの中さ入っている、保存されている状態で採った時の状態。新鮮な状態。で、森敦の小説『月山』で、例えば大根だかの比喩でな。ギロウという言葉使いではないけど、『生きてもいない。死んでもいない。』っていう例えで。そして、ツボケの大根と同じようにと、冬は家々を雪囲いするわけだ。大きい、小さい関係なく、グルっと茅で囲む。大きな寺も巣囲いする。ツボケと同じようになる。それを例えとして、小説では『大きい小さいも関係なく、ツボケの大根のような。まるで、ツボケの中さいるようだ。』そういう比喩をする。寺の中の自分も冬眠のカメムシもツボケの中にいるようなものだと。
秋もおそぐなって、家の周りをカヤでぐるっとかごいすっど、家の中はうす暗ぐなってなぁ。うす暗ぐなった台所の囲炉裏のカギノハナさは、黒いナベ掛かっていて、ブツブツどトゴロ芋の灰汁煮しているもんだけなぁー。苦ぐでのぉ。だども…。
生年月日:昭和12年生
取材日:2025年10月26日
文責:田口比呂貴