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フィールドノート2020 関東・中部・北陸・関西・中国編総括

7月中頃から9月終わりまでの約2か月半、大鳥を離れて旅をしてきました。旅行中に学んだことや感じたことをブログで更新するつもりが、日中は動き回り、夜は復習&日記と翌日の予習をしたりして結局、書けなかった。購入した本も山積みになってしまい、今後ゆっくりと本も読みながらノートとスマホに乱書きしたものを整理していきたい。ここでは総まとめというか、印象に残った幾つかと、旅を終えた感想を書くに留めようと思います。

今回の旅は、大まかにいえば、日本の歴史と地理のを巡る旅で、以下のことを基本としてやってきました。

・事前に地図を見てその土地の山や川などの地理を軽く頭に入れて、

・博物館や資料館・図書館に行って地域の歴史・民俗を知り、

・山など高いところから地域を眺め、地域を歩きながら地形・流域・町並みを見て、

・可能な範囲でお話を伺う。(多くは博物館や資料館、ボランティアガイドの方々と話をした。)

 

巡ったエリアは北関東、中部、北陸、関西、中国。

具体的には神社、寺、古墳、古戦場、山城、平城、城下町、宿場町、湊町、干拓、川、治水現場、合掌造り集落、キリシタン、たたら、銀山、木地師、山林、山村などを見てきた。日本遺産・世界遺産・ジオパークなども幾つか訪ねた。

一通り旅を終えてみて、月並みですがおもしろかった。体験がありすぎて一言に収まらないのでこんな言葉に。とはいえ、それだけでは何にも伝わらないので、印象的だったことをいくつか。

岡山県 小田川付け替え工事現場

今回の旅では、各県ごとに川を少し注意してみてきたつもり。富山の常願寺川や島根の斐伊川、福井県の九頭竜川、大阪の淀川、長野の千曲川、岡山の旭川、高梁川など。人の営みは、川なしには語れない。県境の多くは河川や山の尾根で区切られていて、流域を見るとその都道府県のなりたちや歴史が見えてきます。人の生活用水となり、魚が獲れ、田んぼを潤し、米や特産品の輸送され、城下の堀に引き込んで要塞を作り、河口部では湊が整備されてきた。しかし、日本の多くの河川には洪水や土砂災害に悩まされてきた歴史がある。

平成28年の西日本豪雨は記憶に新しい。広島県や岡山県では幾つもの土砂災害によって家々がのみこまれ、多数の死傷者が出てしまった。今回の旅で訪れた岡山県倉敷市真備町も洪水で甚大な被害に遭ってしまった場所。訪ねる数日前、飲食店で見たテレビニュースで真備町の復興を取り上げていて、気になっていた。真備町は小田川が東へと流れ、川を挟んで両側に家々が立ち並び、その背後に山々がある。山の斜面にはいくつか土砂崩れが見られ、災害の大きさを物語っていた。僕はてっきり、中国山地は針葉樹だらけと思っていたので、それも土砂崩れの原因だと思い込んでいた。が、崩れていた箇所の周りは雑木だった。必ずしも針葉樹だから…という訳ではなかった。今回の洪水では、高梁川との合流地点で小田川の水位が低く、合流できなかったために水が逆流して堤防が決壊したことが原因とされ、山を削った大規模な川の付け替え工事が行われている。

治水と言えばダムや砂防、堤防をイメージするし、過去50年で洪水被害を減らしてきたことでその有用性は証明はされてきたのかもしれない。しかし、昨今の異常気象からくる台風や大雨で、未曽有の災害が起こっている。幾重の開発を繰り返してきた国土では、自然災害の原因を明確に掴むことは難しいと思う。ただ一つ、大阪の淀川資料館で話こんだ方の言葉が印象に残っている。「川は血と同じで、砂防ダムなどでせき止めると、別のどこかが悪くなる。」僕と同じ30代くらいの方だった。

十津川村玉置神社参道より撮影

思い出深いのは、奈良県の南端部に位置する十津川村。よくもまぁこんなところにムラがあるんだなぁと感心させられた。村内はほぼ森林で、急峻な谷合いに僅かにある、やや緩やかな傾斜地にひしめき合う様に家々が並んでいる。田んぼは殆どない。川沿いに国道があり、トンネルが掘られてかなり便利になっただろうが、それでも東西南北、どの街へ出るにも車で1時間以上は掛かる。まっすぐ広い道を作ろうにも地形がそれを許してくれない。古くから熊野古道や吉野修験のルートとなっていて、最初はおそらく山伏らが住み着いたのであろう。熊野大社の奥の宮、玉置神社があるが、そこでは神社に護摩木がくべられるなど、神仏習合の名残を見ることができる。江戸時代には僻地すぎて年貢が免除され、合議にて運営がなされていた全国でも数少ない村(郷)でもある。幕末には尊王攘夷に傾倒し、十津川郷士は皇居の護衛に当たるなどをして活躍するも、廃仏毀釈運動の中で郷総代の主導によって村中全員が神道となり、村内にあった50余りの曹洞宗・臨済宗の寺が全て姿を消してしまった。現在は、一つの寺の山門がかろうじて残るだけとなっている。(この辺のことは司馬遼太郎の『街道をゆく』が詳しい。)

今まで見てきたどこよりも急峻な山々に開かれた村で、ダムはあるもののそれ以上の大規模開発は阻まれてきた。採集、狩猟、川猟、杣などを生業として暮らし、場所は違えど大鳥の生活と似ているところもある。また、訪ねたい場所。

 

山口県萩から島根県津和野へ向かう途中で撮影

岡山県鬼の城から南方の風景を撮影

中国山地は、東北や関東、中部、関西、どこの地域とも異なった特殊な地形だった。なだらかな山の麓に広い田んぼが開かれ、集落も家々もあらゆる所に点在している。沿岸は製塩と水運、平野・盆地は稲作、山間部はたたら・木地・杣・製銅等に役割分担がなされ、大規模な古墳や遺跡が数多く残る。中国地方は古代日本において重要な役割を担っていた。出雲にある荒神谷遺跡、ここには青銅が358本も一か所から見つかっているが、それが出雲神社の側の博物館で見られる。圧巻だった。

山口県周防大島出身の民俗学者、宮本常一は、『中国山地【下】(中国新聞社編 未来社刊 1968年)』の寄稿で、1950年代の中国山地の急激な人口減少の原因について「まず第一に考えられることは人口が多すぎたことだ」とし、「中国山地はどこへ行っても、どんな山奥に行っても家がある。山深く住みつきうるような条件があったからである。」としていた。中国山地の山道を走り、深く納得した。明治以降の近代化により、たたらは洋鉄輸入に、椀は工場生産に、木材・木炭は輸入へと切り替わる。山間部の仕事は無くなり、都市部へと仕事を求めていく。近島根県雲南市吉田町というたたら御三家の企業城下町でおじいちゃんから話を聞かせてもらったが、たたらから炭焼きに切り替えるも、それもダメとなった当時、同級生らと京阪神へ働きに出た。キッカケは、学校に求人が来ていたから。その後、子供が都会へ出て働きに行くと、その親も後から吸い寄せられるように都会へ出て働いたそうだ。その連鎖が山々の空洞化を招き、数値に見える急激な人口減少へと変化していった。

同じ人口減少でも、東日本とは異なった歴史を歩み、気候・地理・地形・経済・政治も異なる中国地方と同じようにこの現象を見ては間違える気がする。「人口減少率を軸に、それが緩やかになりました、その対策としてこれをやりました。」という単純化された構図には少し注意が必要な気がする。とはいえ、昨今見られるような“地域づくり”という面で目まぐるしい成果を上げている地域でもある。山陰の方々はとても開けていて明るく、よく話を聞かせてくれた。

熊野古道

他にも隠れキリシタンの跡地探訪、難攻不落の大阪城、江戸時代でよくぞそこまで…と頭が下がる金沢城の辰巳用水、渡良瀬川流域民が足尾鉱毒事件で国を相手に戦った軌跡、一向宗の100年に余る合議制自治圏はどのように確立されていったのか…。奈良国立博物館や倉敷の大原美術館では素晴らしい仏像や絵画を見せてもらった。いろんな地域でたくさん勉強させて頂いた。地域を巡りながら、小さな石もコレクションした。チャート、粘板岩、マイロナイト、溶結凝灰岩、石灰岩…。大鳥では見られない石がいっぱいあって、楽しかった。

日々、展示や図書を眺め、歩いてはスマホやノートにメモを取り、夜は次の場所へと車を走らせ、ランタンの明かりで資料や地図とにらめっこしながら日記を書き、たまに一人で晩酌して過ごした。名所・見所ばかりを巡ったから、見落としたものがいっぱいあったと思う。野に放たれた四つ足動物のように旅をしていたら、もっと違う景色が見えただろう。でも、時に良い人に出会い、ゆっくり話ができたことは嬉しかった。日本はどこでも温泉があって、たくさん汗を流させてもらった。美味しいごはんもたくさん食べた。ふるさとの関西圏ではついつい、551の豚まんと餃子の王将を食べてしまった。何度か腹痛や頭痛に襲われ、何度か熊の胆にお世話になり、旅の終わりには気が抜けて体調を崩してしまったが、少し休んで。横浜の実家ではコロナ検査も受けて、陰性だったので無事大鳥に帰ってこれました。夏場の2か月半は中々ハードだったなぁと思いつつ、まだまだ見たいフィールドもある。今後も少なくとも年1回、1週間くらいの旅に出たいと思います。

ながらく通販の方も受注を止めておりましたが、少し落ち着いたら再開したいと思いますので、そちらもぜひ、よろしくお願い致します。