大鳥のこと

大鳥創村の伝説 -鎌倉時代初頭、山奥に大鳥村を作った工藤大学の物語-

山、森、川、山菜、キノコ、木の実、魚、獣。

大鳥地域は山に囲まれ、広大なブナ林がもたらす緑の恵みに支えられてきた。

時代の変遷の中で失われた、忘れられたコト・モノはたくさんありますが、森を利用して生活を営む文化は今もまだ残っている。

大鳥地域には約830年の歴史があります。

資源利用を前提に維持されてきた大鳥地域の、村として出発点はどこにあったのか。

今では裏取りをする手段も限られていますが、明治期から伝えられてきた文献を元に少し紐解いてみたいと思います。

以下は「旧田沢組大鳥外村創村記」という明治26年に書かれた大鳥創村の歴史書を現代語訳した「湖底の青史」に編集を加えたものです。ベースが昔の歴史書なのでやたらと人物名が出てきたり、淡々としたかたい文章ですが、注釈(※)で説明を加えて少しわかりやすくしてみたので、ご一読いただけると嬉しいです。


建久4年(1093年)5月。鎌倉右大将源頼朝が、富士の裾野で巻狩りをもよおした際、曽我十郎祐成と五郎時到の兄弟が五月雨の暗夜に乗じて狩場の陣屋に忍び入り、親の仇とつけねらっていた工藤祐経(くどうすけつね)を討ち取って亡き父の怨念をはらすという仇討ち事件があった。

※仇討ち事件=日本三大仇討ち事件の一つ、「曾我の兄弟の仇討ち」のこと

工藤祐経が巻狩りで不在の中、舎弟の工藤大学(くどうだいがく)は伊豆の国伊東(現 静岡県伊東市)に御城番として館を守っていたが、祐経が仇討ちにあって間もなく、源頼朝の使者として来た梶原平三景時の伝令によって伊東の領地は没収。途端に追われる身となってしまった。大学は景時の勧めにしたがって鬼頭の兜、緋縅の鎧、飛鳥丸と称する太刀、三条小鍛冶宗近作の長刀、白木の弓(アララギ一寸二分)、八幡大菩薩神前にお供えの御神酒徳利(備前焼、木爪の形)、鑓一本、庚申尊三躰(金躰で祐経の守本尊)、左文字の短刀、三国有縁大日如来(工藤家の鎮守として相模国田中の森に鎮座していた品)などの宝物を持ち、工藤一族・百姓を率いて越後方面へ落ち延びていった。

※相模国田中の森:現 神奈川県中井町にある地名

越後国にたどり着いた大学一行は、高田城下片原(現 新潟県上越市)のあたりに留まって6~7年を過ごしていた。その頃、金山見立役として諸地方を廻り歩いていた岩船郡荒川村の多良左衛門は「出羽の庄内を流れている大きな川の上流に、広々とした原野がひらけている。そこは落人が隠れ住むのに大変適した場所である。」と、新天地へ移り住むことを大学に勧めた。

※金山見立役:鉱石のある山を探す専門職。この平安期には既に金は貿易で交換経済上の価値をもっていたし、政府は銅銭を作ったり、武具の製鉄もされていたことから鉱石の需要はあった。日本中を歩き回って鉱山を探し当てる専門職のような人がいても自然なことと思われる。

この話に心動かされた大学は移住を決意し、一族ら20数名と共に北上する。幸いにも高田の五十嵐小文次と、途中に通りがかった村上周防守殿から飯米や金子を借り受けることができた。そうして一行は、岩船(現 新潟県村上市)と庄内の境にある山々を越えてようやく大鳥地内にたどり着くと、繁岡の神社裏にある高山のニゲン沢近くに住居を構えて隠れ住むことにした。丸木柱小屋構えの家屋に住み、原野を開墾し、栗や稗を作って暮らした。越後城主に借りた米・金を現物で返納する目途がつかず、熊や青獅子を捕って、その肝や毛皮を代わりに返納していった。大学と一緒に落ち伸びてきた鍛冶屋たちは、良い土を探し求めて二階巣(誉谷集落)に住居を構え、刀や生活に必要なモノを作っていた。

※五十嵐小文次:のちに田川村(現 山形県鶴岡市)の大机に落ち延びたとされる人

※青獅子:カモシカのこと。大鳥では”アオシシ”や”アオ”と呼ばれる。

※大鳥地域の繁岡集落に住む人々のほとんどは工藤性。工藤大学が落ち延びてから延々と工藤性が引き継がれていったと思われる。過去帳などは火災で燃えてしまい、古いものは残っていないらしい。

大学の跡を訪ね落ちて来た三浦平六義村は、椈平(寿岡集落)を開拓してここに住んだ。義村が居住したと考えられる平六ひかげ台は、現在の大泉鉱山選鉱所跡地からやや南によった辺りである。鎮守を相模大明神と言う。

※三浦義村:鎌倉初期の相模国の武将。鎌倉時代には北条氏に次ぐ有力御家人として歴史の表舞台にいた人物で、最終的に京都で没しているので本人が大鳥に訪ね落ちたというのはかなり怪しい。その後、三浦一族は三浦半島の油壺で滅ぼされているが、その時にチリジリに逃げて行ったものの一部が大鳥に入った可能性もゼロとは考えられず、その時に三浦義村の名を持ったのかもしれない。

また、伊豆国の正観音を本地とする深山大神の神主は工藤左京が勤め、『田中の森』から持参した大日如来は大日峰に祀り、工藤右京が堂主とした。相模神社は相模峰(真下には、桧原川と大鳥川が合流する)の山頂近くに鎮座され、義村がその神主を勤めた。後に現在の大泉水上神社に合祭される。

※深山大神:現 大泉水上神社

※大日峰は現在は大日山と呼ばれ、誉谷集落にある。大日堂は取り壊され、大日如来は龍雲院に安置されている。

※湖底の青史に”相模神社”と記述はあるが、相模峰に神社の痕跡はない。ただ、かつてはその近辺に見張り用の館が置かれていたという記述があるから、その近辺を利用していた可能性はある。

落人として他地方との交流を嫌い、庄内との交通は全くなくて過ごしたが、塩・味噌その他の生活物資を得るために、越後国岩船郡(山熊田という説も…)へ通じる山道を切り開いて、僅かにこの方面とのみ往来した。また、遠望のきく四方の山々(高山・相模山・松平山・大日山)の頂には館を置いたという。

以来350年の間、隠れ里として生活を続けてきたが、天文2年(1533)大鳥部落民は初めて尾浦城主武藤義氏(大泉庄司)に召し出されて、武藤家の出百姓となり、のちに庄内藩にも属していくことになる。

※大鳥地域と越後、山熊田への交通路は戦後数十年までは開かれていた。松ヶ崎集落から桧原峠を越えて桧原川に降り、ニノ俣沢沿いから峠を登り県境を越えて山熊田へと通っていた。健脚の人で片道約2時間半の道のりだったそう。婚姻関係や親戚付き合い、田植えの手伝い、子守り、地蔵・神社参拝などの行き来があった。また、山熊田は大滝性のみで、山熊田に一番近い大鳥の松ヶ崎集落にも大滝性が多いのは、古くからの交流・交易関係を裏付けているようにも思える。昔は越後に近い寿岡部落の沢端を、部落民は”村表”(三浦義村が居住していたあたり)と呼び、大鳥より山を5kmほど下った上田沢集落を”村裏”と呼んでいたが、これは武藤家に属する前までは越後とのみ往来して、その他とは交通しなかったということを示す呼び方だと思われる。

※桧原川の支流、一俣沢から峠を越えて、岩船郡中俣村の雷(いかずち)に入る山道もあったという記録はあるが、その道は確認されていないし、近代で使っていた話も聞いていない。

※各集落の昔の名前 いずれも明治期の地租改正までの呼び名。

・二階巣(にかいす):誉谷集落のこと。荒沢ダムが出来る以前は東大鳥川からよっぽど登って辿り着く、二階にあるような場所であったことから二階巣と呼ばれていた。また、すり鉢状の形をしていることからすり鉢村とも呼ばれていた。

・椈平(ぶなだい):寿岡集落のこと。ブナ林が広がっていたことからこの名がついたとか。

・角間平(かくまだい):松ヶ崎集落のこと。本編では登場しないが、角間と呼ばれる草(山菜のコゴミのことを指す?)がボーボーと生えていることからその名が付いたとか。


以上が「旧田沢組大鳥外村創村記」という大鳥創村の歴史を現代語訳した「湖底の青史」に編集を加えた文章であるが、現代になって大鳥の創村伝説を裏付ける2つの出来事があった。

写真:稲田瑛乃

一つは工藤大学のお墓の発見。工藤大学が最初に落ち延びて居住を構えた繁岡集落の共同墓地は、元は現在の繁岡公民館の裏にあった。しかし、昭和中期に東大鳥川の大洪水で墓地が流されてしまったため、小高い丘へと移転させた際に、その場所で工藤大学の墓を発見したこと。

もう一つは大日如来のレプリカの発見。文中にも出てきた「田中の森」を古い地名として持つ神奈川県中井町では、鎌倉時代から大日如来が盗まれたとされ、大日如来のレプリカを作って安置していた。2005年に大日如来が大日堂から大鳥地内の龍雲院に移す際に大鳥に縁があった斎藤登美子さんが書き残した由来書をキッカケに、2011年にはその文書が中井町の文化保護委員会へと渡り、盗まれたとされていた大日如来が大鳥にあるということで、地元新聞にも取り上げられるほどの大騒ぎになった。ちなみにアイキャッチ画像は大鳥に安置されている大日如来坐像。

 

以上が大鳥の開村~戦国時代までの歴史ですが、新たにわかったことがあれば随時追記していきます。

2017/12/20 更新

 

■参考文献

「旧田沢組大鳥外村創村記」工藤孝蔵 著(明治26年)

「湖底の青史」佐藤松太郎 著(昭和30年)

「大鳥部落覚書」庄内民俗学会 五十嵐文蔵、佐藤光民(昭和32年10月、昭和34年7月の庄内民俗より転載)

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