大鳥湖の伝説 -大きな白い鳥が行基を湖へ導いた。ここから、大鳥が始まった。-
その地にどうしてその名前がついたのか。
気になって調べてみるけども、ローカルな地域であればあるほどよくわからない理由で腑に落ちない伝説に着地していることがある。「なぜこんな所にその時代の超有名人が…?」とか。
だとしても、事実か否かは関係なくその伝説やストーリーは地域の中の囲炉裏の周りで伝承されてきた。テレビも何もない時代、囲炉裏にあたりながら同じ話を何度も聞かされたから覚えているのだと思う。現地現物、経験主義集団であるローカル地域で囲炉裏端の語り部が残してきたものは、土着ともいえる他地域へと広く応用不可能でその地への帰属意識を高めたことなのかもしれない…。
という訳で今回は、”大鳥という地名がどうして生まれたのか”について一つの文献を主にして綴っていきます。
※大鳥の地名について書かれた文献はいくつかあるのですが、それは巻末で紹介します。
以下は大鳥出身で大鳥鉱山の医者、工藤孝蔵が明治26年に書いた「旧田沢組大鳥外村創村記」(明治26年)という大鳥創村の歴史書を現代語訳した「湖底の青史」(佐藤松太郎 著 昭和30年)に編集を加えたものです。
ベースが昔の歴史書なのでやたらと人物名が出てきたり、淡々としたかたい文章ですが、注釈(※)で説明を加えて少しわかりやすくしてみたので、ご一読いただけると嬉しいです。
大鳥湖の伝説
時は天平年間(729年~749年)。聖武天皇から仏教の布教の勅(みことのり)を受けた僧、行基と南天竺波羅門僧正は、仏教を広める拠点を求めて全国を行脚していました。
※聖武天皇が律令制度の確立し、日本をひとまとめにするために仏教を本格的に布教させようと日本中に国分寺、国分尼寺を置いた時代。
二人が越後国北蒲原郡乙村(現 中条町)というところにたまたま立ち寄った時のこと。この辺りでは青々とした若松が一面に広がり、紫色の端雲がたなびいていた…。「この地こそ仏法流布の聖場である。」怪しくもおごそかな景勝に心打たれた行基は錫杖を止め、この場で座禅勤行を始めました。
※錫杖:しゃくじょう。僧・修験者が持つ杖のこと。杖の頭に鐶(かん)が掛けてあり、杖を突くと鳴る。
座禅に励んでいたとある朝。胎蔵界の大日如来、弥陀如来、薬師如来の三尊が突然、行基らの目の前にご来迎した。この光景を目の当たりにした行基らは、”この地が霊場になりえる”と確信し、伽藍(がらん:寺院の建物の総称) の建立を決意。波羅門僧正は、天竺から持ってきた釈迦の仏舎利を納めた大日如来像を拝む勅行に精進し、行基は知門・知行という二人の弟子を連れて、伽藍を建てるための巨材を求めて付近の山々を歩き回った。
※天竺:インドの古い呼び方
行基ら一行は幾日も山々を歩き回ったが適当な巨木がなかなか見つからず、遂には摩耶山へと登頂。そこで3本の巨木を見つけることができたが、伽藍建立には材料が足りない。
※摩耶山:旧朝日村倉沢地域と、旧温海町越沢集落の間に立つ1000mを越えるけわしい山。大鳥の北側にある。
落胆のあまり、一行は頂上で茫然と立ちつくしていた時、どこからともなく片羽3丈(9m)あまりの白鳥が飛んできた。白鳥は大樹に止まり羽根を休めたが、間もなく東南の方角へと飛んでいってしまった。
飛び立った白鳥の背中をじっと眺めていた行基はふと思う。「不思議な鳥で、ただの鳥とは見えない。あの鳥は自分たちが探し求めている伽藍建立のための巨木の場所を教えるために、仏につかわされた霊鳥ではないだろうか。」このことを弟子に話してみたが、驚きを隠せない様子の弟子たちはしばし考え込んでいる様子であった。「鳥のあとを追って、あの川の水上に分け入ってみよう。」と弟子たちを促し、はるか遠くに白く光って見える一筋の川を指し示した。
※一筋の川とは明記されていないが、東大鳥川のことだと思われる。
摩耶山を下り川のほとりに出てみると、左右にそびえる山々の間になだらかな原野が広がり、川上に向かって細長く続いていた。長く伸びた草を踏み分け、5里あまり(約20km)も歩くと道は次第に険しくなっていった。ケヤキの林に覆われた山をよじ登ったり、巌石の谷を下ったり。しかし、数千尺もの断崖から泡を打ち立て落下する巨大な滝(現在の泡滝)に行く手を遮られてしまった。立ち尽くして崖を見上げていると突然、白い巌顔に権現不動明王の姿が現れた。御輪光を放ち、行基らを招き寄せているかのようだった。
不動明王の姿に励まされた一行は、断崖に突き出た岩に手をかけたり、脚を支えたりしてやっとのことで絶壁を登ることができた。すると冷水嶽三休明王がご来迎されて、一行の行く手を示しているようだった。東から流れくる冷水沢に沿って登り続けると、幾段にも重なり落ちる滝(現在の七ツ滝)があり、中の滝に倶利伽羅不動明王が立っていた。そこから上流の川は大きな岩がゴロゴロと二町(約200m)あまりも続き、その川の尽きるところにこつ然と、清浄なる大きな池がひらけていた。
池のほとりに立ってあたりを見渡すと、池の向こうには千丈(3000m)を越すかと思われる五つの山々がそびえ立ち、水面には日月の両岳が青い影を落としている。湖の西側に目を向けると樫の大樹林が森々と連なっていて、幾千本の大樹はどれも伽藍建立に適した木だった。探し求めていた巨木を目の当たりにした行基たちは思わず「おぉ!」と声を上げ、我を忘れて喜んでいた。
※池の向こうの山々は以東岳(標高約1900m)を始め、実際には1500~1900m程度の山々。
※日月の両岳:日は朝日岳で、月は月山だろう。という注釈が原文についていました。
すると、何処からともなく美女が現われ行基の前にひざまずき、丁寧におじぎをしてポツポツと話し始めた。「この池は、深谷現の池と言い、私は天照皇大神の神勅を奉じて天下泰平国土安穏民繁栄の守護水神として、神代以来この池に棲んでいる八大金剛龍王です。ここは人跡の絶えた深山幽谷で、幾幕の星霜を経ても絶えて尋ね来る人もありませんが、私はずっとあなたのような高僧を待っておりました。今、このよう有難いご縁に逢うことができまして喜び絶えません。願わくは、私ら一族を一統するために未来得度の法文をお授けください。」話を聞いた行基は少しも驚くことなくその申し出を受け入れ、遺経百巻、その他法華経の要文を読みさずけた。すると、池の水面には数えきれないくらい龍王の一族が浮き上がり、みな大いに歓喜して法文の功徳を受けている様子だった。
法文の朗読が終わると龍王は「この度はあなたのお陰で有難い仏法に会い、長い間待ち焦がれていた法悦に浸ることが出来まして誠に有難く、その御礼は申し上げようもございません。」と感謝の意を伝え、せめてものお返しにと、行基らが苦労して探し求めていた材木を望みのままに差し上げたいと申し出た。「お心遣いは本当に有難いのですが、この辺境の地から遠い越後の国まで持ち運ぶ方法がわからなくて…。」と行基がためらっていると、龍王は「私には何万もの一族がつき従っており、あの池の彼方に生い茂っている樫の大樹をことごとく七つの滝に打ち落とし、川を押し流して大海へ出し、越後の乙村へ送ることは、少しも難しくではありません。」と言うのでした。
行基はとても喜び、かつ大いに安堵して、その夜は”端座が峰”で座禅勤行することにした。やがて丑満の頃になるとにわかに暴風雨が起こり、雷光雷鳴も加わって、天地も崩れるくらいに鳴動し続けた池の水は大波たてて荒れ狂い、大洪水となって流れ出した。
※”端座が峰”というのが大鳥池の周辺のどこの山の峰なのかはわからない。
夜が明けると、今までの大暴風雨は嘘のようにおさまり、池の水面は何ごともなかったように静まり返っていた。池の西側を眺めると、昨日まで森々と生い茂っていた樫の大樹林がことごとく伐り払われて跡形もなく、ただおびただしい量の枝や葉が残されているばかりだった。行基の一行は不思議に思い急いで越後に帰ると、乙村には既に数多くの樫の巨材が到着していた。龍樹をもって建立した七基伽藍をこれにちなんで乙宝寺という。
【補足】
- 大きな白鳥の案内によって発見された池という古事によって、大鳥池という名が生まれ、またこの池周辺の地名を大鳥と言うようになったという。
- 行基は奈良薬師寺の僧。俗性高志氏和泉九に大鳥郡の人、天智天皇の九年に生まれた。諸国を周遊して衆生を教化し仏法の弘布に勤め、その留まったところはみな道場を建てた。畿内にある四十九院や、畿外の諸国にもその数が多い。行基の来ることを知ると村が空になるほど住民が集まり、生き菩薩とあがめて礼拝したという。聖武天皇が大仏建立の誓願を起こした時、行基は弟子たちと寄付を募り廻った。大仏建立の費用は、この寄付によるところが多かったという。
- 乙宝寺は新潟県北蒲原郡乙村にあって、新義真言宗智山派に属し、寺号は如是山という。天平八年(736年)に僧行基が創建したと伝えられている。のち中絶したが僧 俊がこれを再興し、堂宇を再建した。寺内の三重塔婆、大日、阿弥陀、薬師の三尊はともに国宝に指定されている。
- 白鳥の伝説。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東国の蝦夷征伐を終えて帰る途中に近江の伊吹山で病になった。その後尾張に還り伊勢の熊野で逝去せられた際、御霊魂が白鳥に化して和泉国大鳥郡(現在の大阪府和泉北郡鳳町大鳥附近)に飛び去ったという著名な伝説がある。以上のことを考えると、和泉国大鳥郡の白鳥伝説が行基によって越後国に来て、乙寺の創建に関する縁起を生み、この縁起談が山を越えて当村に伝えられたという経路が推定される。
- 大鳥湖では湖の魚をとる度に大洪水が起こり下流の平野が大損害を被るので、大鳥池に行く人を差し止める番人を最上家の末まで付け置かれたという言い伝えや、大山町善寶寺(現 鶴岡市)の代々の大和尚や、越後村上にある耕雲寺の大和尚たちがしばしば池に参って、参拝し法華経を奉納したという言い伝えがある。
※大鳥湖:大鳥地域では普通、”大鳥池”と呼ばれていますが、大きさからして学術的には明らかに湖です。
大鳥湖の伝説は以上になりますが、大沼浩 著『荘内地名切絵図』では違った切り口でルーツについて書かれています。引用しますと、
角川には、「地名は行基巡錫の折、大きな白鳥が道案内とし、大泉圧の水上(現 大鳥池)に先導したという伝説に由来するという。」とある。ルーツは、「川名はその源を大鳥の棲む大鳥池から発することによる。」という。地名から伝説が生ずるので、伝説から地名が生まれるのではないことは、鳥が人を案内することがないようなものである。
と、冷静に分析した上で、大鳥という言葉のルーツについても言及しています。
海ケ沢のところで、私は鬼面川をあげたが、この川は大樽川と小樽川に分かれている。私の考えでは、大鳥川は大樽川と同じであろうと思う。
※海ケ沢、鬼面川、大樽川、小樽川:山形県米沢市にある地域名、川名
大樽川の樽は当て字で、楠原・溝手(地名の研究者?)は、「たる 滝、垂、樽などの字を当てた地名用語は、「滝」 を意味する方言(長野、静岡)」とあり、鏡味完二『日本の地名-付・日本地名小辞典』には、「Taruタル (1)溪谷が段階をなしていて、雨時に滝となる所、谷川の滝ある所、(2)滝〔樽沢、樽見、樽谷、樽井、大樽、樽ロ、垂川、垂木、垂玉、垂水、垂見、垂井〕」とあるのが当てはまるようである。
ルーツは大樽川について、「タルは滝の古語で、白布大滝が流れ出すことによる川名。」 というが、大樽川の大は、小樽川の小に対するものであろう。
米沢と朝日村は、古来朝日軍道というのがあって、交通があったやに見える。大樽川も大鳥川も険しい山地を階段状に流下する川である。おおたるがわは、大樽川と当て字されたのである。大鳥川は、”おおたるがわ”よりもむしろ”おおたりがわ”であったのであろうが、おおとりがわとなって、大鳥川と当て字され、行基―白い鳥の伝説で説明されるようになったものであろう。
また、同じく大沼浩著の『荘内地名辞典』増補改訂第二版では、以下のように書かれています。
おおとりいけ 大鳥池 鶴岡市(朝日) 『大鳥川源流の池』
荘内唯一の内陸水面で、東大鳥川の水源。池の名は川の名によるが、古名を藤ノ池といった。藤がとうであれば、アイヌ語起源の可能性がある。おおとりはおおたるの転訛で滝を掛ける川の意。おおとりがわ大鳥川鶴岡市(朝日)大垂(おおたり)川。滝をかけながら流れ落ちる川、梵字川に対する赤川の西の支流。大鳥地内で東西の大鳥川に分かれるが、東大鳥川は大鳥池に発して、七ツ滝をかけて流下する。鳥(とり)は垂(たり)の転。たりは水が垂れる垂水(たるみ)で滝のこと。大樽川、小谷(おたり)川などの、同類がある。
行基が白い鳥、しかも片羽3丈=約9mというから恐竜クラスの大きな鳥に導かれて大鳥池に行ったというのは確かに無理がある。片羽3尺=約90cmの書き間違いだったらまだ考えようがあるが…、伝説は伝説としておいて、まだ多少はあり得そうなルーツを、朝日軍道という歴史も踏まえて分析しているのは面白いですね。
■参考文献
「旧田沢組大鳥外村創村記」工藤孝蔵 著(明治26年)
「湖底の青史」佐藤松太郎 著(昭和30年)
『荘内地名切絵図』 大沼浩 著(1985年)
『荘内地名辞典』増補改訂第二版 大沼浩 著(2007年)
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