大鳥のこと

松ヶ崎集落-越後との交流・交易の起点-

寿岡集落から県道をまっすぐ行き、西大鳥川を渡る橋を超えると松ヶ崎集落に入る。

松ヶ崎集落は、工藤大学のあとを訪ねてきた大滝家が開いたとされ、明治初期まで角間平(かくまだい)と言われていた。カクマというコゴメと似たシダ系の植物がぼうぼう茂った平原であったからその名がついたのだとか。集落の中心には八幡神社があり、毎年12月14日には”八幡様”といって五穀豊穣・家内安全を願うお祭りを行っている。

松ヶ崎は越後方面へと続く道が2つある。一つは朝日スーパーライン。県境を越え、新潟県村上市三面(みおもて)に通じる、全長52kmの県道である。途中には大泉鉱山が採掘を行った枡形集落跡があり、坑道や学校のプール跡を見ることが出来る。そこでは明治初頭から昭和54年までは鉱山集落として、鉱夫を中心に沢山の人が暮らしていた。

もう一つの道は新潟県村上市山熊田集落へと抜ける山道。松ヶ崎の西に位置する桧原山を登って桧原林道に下り、さらに二ノ俣沢から再び峠越えをして山熊田まで歩いていた。地元の健脚な人で2時間半の道のり。一日で一往復することはごく普通にあったそうだ。

昭和50年代頃までは大鳥-山熊田の交流・交易が盛んだった。山熊田にある浅間神社や、子宝に恵まれるご利益がある地蔵様へとお詣りしたり、田植えや養蚕の桑採りで山熊田の人に大鳥に来てもらったり、一緒にパルプの木伐りをしたり。交流、交易をしていた。婚姻関係もあって、『朝日村史 下巻』を見ると、明治6年(1873年)に大鳥から山熊田へと婿に行ったことが記されている。現在山熊田にお住まいの方の中にも「親が大鳥から嫁にきていて、子供の頃に山を越えて大鳥に連れられて来た」という方がいた。

山熊田集落に住むほとんどの方が大滝性ですが、松ヶ崎集落にも大滝性が多い。伝説では工藤大学のあとを大滝家が追い掛けてきたというが、もとは山熊田と深い関わりのある人が松ヶ崎に来たのか…。確かな文献は見当たらないが、工藤大学一族が隠れ里として大鳥繁岡に住み始めた鎌倉期初頭から戦国期に至る迄の約350年間はわずかに越後と交易をしていたとされているので、海が近い山熊田からこの道をつたって塩などの生活物資を仕入れたりしていたのかもしれない。

また、『湖底の青史』という大鳥創村の伝説にも触れられた文献では、桧原林道沿いの一ノ俣峠から村上市の雷へと抜ける山道もあったと記載されているが、現在この道を知る人はいない。

※鳥瞰図作:本間かりん

■参考文献

『湖底の青史』佐藤松太郎

『朝日村史 下巻』朝日村

『神社史4』朝日村

『大鳥の輪郭』田口比呂貴

 

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