大鳥のこと

【大鳥 山の人生】工藤友美さん

生まれは鱒渕。学校は3年生まで鱒渕分校があって。あとは歩いて大泉尋常小学校さ通ってた。終戦の年に入学式だっけ。その時は校門通ってグラウンドの入口に奉安殿っていうのがあって。そこでいつでもお参りしてた。それは国の物だったと思うよ。終戦になったら壊して無くなった。たまに中学校に大鳥から学生が来ることがあった。何回か見たことがある。大鳥は分校だったからたまに来てたんだかなぁって思う。中学校は大泉中学校。そのあとは学校入らなかった。先生は「家政校に入られるよ。」って勧めてくれたけども、環境もあって入ろうって思わないで過ごした。

おれは家で働いて田んぼ仕事。あと杉の下草がいっぱいあったし、田んぼもあったからそういう仕事して。そして、おらいでは元々炭焼きする家ではなかったな。戦争さ7年も行ってきて、帰ってきてからは農家やって。お爺さんが森林組合さ勤めてたから、父親は必ず農業しねばねぇ人だった。冬は分校の先生をやったりもしたっけ。そんなもんだから、父親が「炭焼き始めるか。」って始めたから、1~2年間は冬に炭焼きにも行った。自分の家の山で。家からは結構遠い。炭焼きの窯から帰ってくる時だけ一俵背負った。一俵って言うと4貫目な。あとはな、出荷する時はソリで、峠までか。荒沢の地蔵様あるとこまでかな。帰ってくるときだけ背負って。1時間は歩くようだ、雪道もまたぎ道だから。

学校いた頃は川に水浴びしに行ったことあるよ。そこで終戦を聞いた。年配の中学3年生になった人が「日本は戦争さ負けた。」って、川で聞いたことある。その頃よくラジオがあって。ガツガツガツガツってよく聞こえないやつ。それを聞いて、年配の子が聞かせたんだろ。学校上がりには進駐軍と行き会ったことがあったなや。怖かったー。それはダムの工事をしてた頃だかもな。どうしようもねぇもんだな。進駐軍、2人だようだっけ。怖かったよ。そして、大鳥から朝鮮人が鱒渕の峠から道下にずーっと、100mも続いてきた。白いもの着て。朝鮮人って白いもの、朝鮮人の服装。そういう人が鉱山さ働いたんだろや。それはな、まだダム工事が始まる前。お爺さんが森林組合さ勤めてたって言ったろ。そして診療所の二階が森林組合の事務所があってそこさいたもんだから、農地改革っておれも耳にしたことある。その頃はおらいでも田を貸しておいたな。戦争の時に。だからどうのこうのって話してたっけ。

学校の合間には田植え休みも、蚕休みもあった。蚕休みが私は嫌だった。雨降りでも桑取り行かねばなくて。うちでは蚕いっぱい飼ってたから。なんであの時屋根改造したもんだかなぁ。三階で飼ってたようだった。山さ行って桑の葉っぱをこくな。山だって急だろ。それが田植え休みよりも嫌だった。田植え終わってからの蚕だから7月頃だかもな。一か月くらいかもや。小さいの持ってきて繭できるまでで、あと繭を出荷するから。おれが結婚してから一人目生まれる昭和35年頃まではやってた。だいぶ小さい時からやってたな。あの頃はな、実家で農作業用に馬飼ってて、おれ結婚してから牛になってた。どういうわけか取り替えてた。

 

昭和31年に大鳥に来て、耕運機が入ったのは大鳥では一番早くて。長男が生まれる前にはあったかもな。元々夫のことは全然知らなかったけども、大鳥の家の親戚が鱒渕に来てた。そういう関係で結婚した。それと、大鳥さ叔母様がいた。実家の母の妹が大鳥に住んでた。そういう関係もあったな。最初に大鳥来たのは12月2日だからあと冬。あのな。その時、全然雪がなくて農協のトラックで嫁入り。そして、屋根の雪堀は容易でなかった。萱屋根をグルグルと回って。その頃、鱒渕の実家は屋根改造で瓦屋根にしてたんや。屋根改造っていうのはある建物に屋根を瓦上げるように建てるわけ。その時は大泉で2番目に早かった。屋根改造して3階が広くなったわけ。2階がちょっと低くて。それで、大鳥に嫁来たら萱屋根だったもんだからビックリした。台所も風がピューピュー入ってくるところだからビックリした。

大鳥に来て何年かはやっぱり家の百姓仕事だけして暮らした。焼き畑もやったもんだし。あと田んぼして。あと全然余裕がなくて、外さ働くってことはなかった。山の中にあった田で刈った稲は、嫁来てから何年かは背負って来た。牛だもんだし。山の田は手間掛かるんだ。一鍬、一鍬手でやって、牛で代搔きやって。3日も掛かるんだもの。時間掛かるもんだから。後になって、稲を田で乾かして“飛ばし”てた。“飛ばし”っては、ワイヤーかけてビューンって稲を飛ばすな。鉤かけて。夫はそういうの好きだったから。あとは部落のずっと奥な、あそこに一番田んぼがあった。あそこはリヤカーでも稲引いた。それから耕運機に荷台つけて引いたり、段々トラックになったり。

耕運機は村でも段々に増えてきたと思う。そしたら今度な、大泉でな、耕運機の学科と実地の試験があるんだっけ。実地は行けなくて。使ったこともねぇもんだし機械にあたったこともねぇもんだし。学科だけ受けて取ったもんだ。それが最初の免許。それから原付も学科だけで取られた。車も取った。自転車は嫁なるまで乗ったことない。鱒渕にも乗っていた人はいたけど家には無かったから乗ったことなかった。大鳥に来たら自転車買ってくれたけども暇なくて乗れなかった。でも段々には乗れたけども。

夫の仕事は農家と土木。勤めてって言うよりあの頃はみな通いで。あの人はな、ダンプ持ってたな。荒沢の隧道がコンクリで綺麗になってなくて、清川から会社の人がきて、荒沢の人も全部出はって、それさおらいの夫もダンプ持って働き行ってた。なんぶ冬も行った。出稼ぎは遅くから始めたな。私も行ってきたし。おんなじところいって。板橋区と平井、志木は土木。あと、ヤマハ発動機。その時は東北のほう、北海道から岩手、秋田、宮城とかの人たちが来てた。出稼ぎ用に四階建ての宿舎を建てて。田んぼ終わってからそこに冬だけ行ってきた。11月の初め頃から行って、種蒔きに間に合うように。まず5年間は夫婦で行って、夫が1人で何年か行ってきた。その頃、子供は1年生と2年生だったな。一人は4月、もう1人は2月生まれなもんだし。1年生と2年生が続いたわけ。高校は二人で5年間続いて、今度は山形の短大に行ったもんだからとっても大変だったもの。それさ嫁くれて家建ててっていうと…。長男が中学校卒業したらお爺さんが仕事を辞めたんだっけ。「あと自分たちでやりなさい」って。だから大変だった。その頃は高校は当たり前になっててそれで下宿してたから。他の家も多分同じだと思うよ。でも重なるってことは大変だった。4年も5年もって。

出稼ぎしてきておいて、今度ゼンマイ採りした。一回、舟に乗って桧原に遊びに行ってきた。すぐ道端にポツポツポツポツと出てるもんだからそれに魅せられてな。お父さんと2人で何年かやってみて。そしたら夏負けがひどくて…。ゼンマイが終わると田んぼやって畑やってなんだもんだから夏バテになった。夏がひどかった。ゼンマイ採りは5年くらいは続けたかもな。山からばっかり採って。田んぼもやってたから容易でなかった。だどもゼンマイはそれなりにお金になってもらった。助かった。大泉農協にみな出荷して。それも辞めてから、今度マルミチ砂利で働いた。土木のほうさ行ったり。

 

大鳥ってや、仕事のあるところだっけ。農家暇になると仕事があった。堤防とか護岸工事とか。そういうとこさは冬なってから出はったもんだ。河合橋の右岸側の上流、護岸工事が何年もあった。鉱山の人たちも働いてたよ。河合は大水出るとこだもの。朝日屋だって何回も浸かったろうと思うし…。河合橋だってまるっきり河原なったこと覚えているもの。そして細い橋を架けたども川の両岸までは架からないから、商い来る人が這って渡るのを見たことあった。家の周りさ石積んであるのは水がおっかないからだと思うよ。道路より家が下がってるろ。建替え前は田んぼから溢れてきて軒端さ来るっけもの。そうなったから、家の西側に堰を掘ったな。あまり冬なると水つくから、堰できてから水上がりしなくなったな。そして、その朝日屋は大根畑作ってるし、車庫のあたりもなんかクチャクチャって柔らかくて。あそこは今、クチャクチャって言わなくなったのは、おれが栃の殻を棄ててあの辺埋めたから。平らくらいになったな。そういう川が流れてて、水害があるってことは仕事があるって言ってたっけ。村の人たちはそういう考えがあったと思うよ。鉱山もあったもんだし。

働くことは苦にならなくて働いてきたから。大鳥木工の仕事もした。冬は焼き杉って、小さなタンス作りした。その後に入った人たちは縫製をしてたようだっけな。あぁ、いろいろ大鳥って金にもなるし面白いところだなと思って感じてきた。そしてな、いつなもんだか。山菜採ってきても工藤商店が買ってくれたりしたもんだから。面白いとこだなって感じた。働けば金になるとこだなって。現金収入になるところだなって。一番はほら、嫁だからそう感じたんだかもしんない。その頃は盆と正月しか小遣いって貰えないから。そして働けば貰えたから。面白いところだなって感じたっけ。姑からお小遣いを貰うな。あとはどっかさ行く時だけお金貰ったかもな。みなそうだと思うよ。年代によってみな違っていくけども。「一昔10年」って言ったけども、俺の頃は「5年」って言ったかもしれない。段々に3年になり。今なんて年々変わっていくから。価値観が全然違うよ。

朝日屋では一番長く働いて。朝日屋の長女が生まれる年だから、20何年。朝日屋のお父さんに「こられるだけ来てくれよ」って何年も言われたけど、そこまではいかれないもんだな。身体があれで辞めて。年いっていらねぇんだなって。感じねばねぇわけや、人は。そうだから辞めたな。でも大企業に勤めさせてもらって。朝日屋は大鳥の大企業だや。働かせてもらって私は良かったなと思ってきた。辞めたのは70歳近く、平成21年辺りまで働いた。

大鳥に来てから忘れられないことはな、ジャガイモとカラドリの茎。煮て食べるの。雑煮餅したり、納豆汁したり。それが美味かった。今も懐かしくて、もらうと自分で作って食べた。カラドリの茎って大鳥ではウサギ汁さ入れるろ。あとジャガイモ。煮物にして。段々にはジャガイモが大根になった。大根も美味しいんだよ。カラドリの茎は甘みが出るんだよな。砂糖も入れたかもしれないし、今は油とカラドリの茎とじゃがいも、大根。甘辛煮みたいに。初めて食べた時はジャガイモとカラドリの茎。大鳥の家のおばあさんが作ってた。忘れられない味で。懐かしいから。最近は毎年だほど貰ってるから、それを干して乾燥させて冬に食べる。鶴岡では雑煮に入れたりとか。そして白山の農協さ行くと必ずカラドリの茎が出るから同年代くらいの人はいっぱい買っていくんだや。

大鳥で旦那に亡くなられて一人暮らしの人はいるども、おれは一人で住めないの。昔から私は一人になったら鶴岡の息子のとこさ行く。私は鶴岡に来るもんだって家建てた時からあったもんだから。かたっぽはいつかは来るもんだと思ってた。やっぱり寂しいから。一人はできないから。とっても私は一人では住めない。とても人より寂しくて、何年間泣いて暮らして。そのうちコロナになったもんだから、全然外には出ないできた。けどそれに慣れた。でも、大鳥あったから、旦那と一緒なったからこうしていられるのも、今があるんだなって思う。でもやっぱり故郷は大鳥…第二の故郷。長いもの。大鳥は。大鳥のたくさんの人たちに支えられて、働いて暮らしてこれたんだ。

工藤友美さん:昭和13年生まれ 聞き取り日:2023年9月27日
文責:田口比呂貴