大鳥のこと

【大鳥 山の人生】工藤常雄さん

俺が生まれた家はこの家のすぐ斜め後ろにあったなや。今俺が住んでいる家はオライの孫爺さんの家なんだ。学校の先生やって、最後には校長もやった従妹がその家さいたけども、仕事の都合で大鳥を出てしまってな。それで、俺の母親も孫爺さんの家の出身で、母親の兄弟は10人。さらに俺の両親は従妹夫婦だったんだ。だから、俺は孫爺の家の血筋をまるまる背負ってるわけだ。そういう関係上、俺は四男だけども母親が無くなる寸前に、「常雄や、この家を引き継いでくれないか」って。俺の兄弟も10人いたけども、みんな子供のうちに病気でころんころんって亡くなって。俺のすぐ下の弟は5歳か6歳で亡くなった。やっぱりな。血液が濃いがための影響もあるんじゃねえかなって考え方もあったんだやな。

子供の頃は戦争の最中だからメシの米なんて満足じゃなかった。サツマイモとかそういうもの。粟、稗、蕎麦は自分の家で作って。“蕎麦ねっと餅”って作って。湯がいてクルミつけて食ったんだ。貧乏して育ったんだ。コメ満足に食ったっていうのは松ヶ崎で3~4軒、寿岡で2~3軒。あとはみな、うちみたいな稗、麦、あとサツマイモ。あと配給って政府から貰った配給は…。忘れもしねぇ、俺の家で砂糖七俵だとかや。コメの代わりだぜ。食料の代わりまず甘いものして食えってことだろや。
飴玉買ったりお菓子買ったりとかは余裕あれば貰ったじゃんな。おらいは非農家で、コメもねぇもんだからコメを買ったり、世話して貰ったり。でもや、農家はコメだって今のように立派なモノはできねぇわけや。肥料が肥料なんだから。今は一反歩10俵、11俵だろ。当時は6俵も取れれば上作なんだ。だから、この部落さそんなにコメがあったわけではねぇんだ。コメは尾浦橋から町へ出るんじゃなく大泉村に入って来た時代なんだ。

中学校には農業の先生がいて、農業も習った。俺らの時はダムの湖底になった荒沢出身の人が農業の先生だったなや。畝を上げたり耕したりして川向こうの畑さジャガイモを植えて。それから田んぼ。あそこ5畝分もあっかな。田植えも田起こしもしたし。そんなだから学校では遊びでもねぇんだろうな。山で木の葉を集めてきて、運動場の脇さ枠組んでくれて、そこさ入れて堆肥を作って。そういうこともした。授業の一部として。イナゴは子供たちが取って、まとめて売った。一升瓶とか布袋さ入れたりして、それを茹でて売って金にして。だから、「イナゴ取りだ。」って言って授業の変わりに田んぼに行ったんだもの。

スーパー林道の方にあるうちの田んぼは、ずっと後から自分で作った。あそこは元々炭焼きしてた場所なんだ。親父が50~60代でまだなんとか炭焼く頃。窯もあって小屋も二つかけて。炭焼きの話になっけども、中学三年の時は午前中は出席しますと。午後からは早引きしてあそこさ歩いて行って炭焼きの手伝いをしたなや。親父夫婦は朝から行って働いてて、昼から俺一人で行って夕方は一緒に帰ってくる。帰りは炭一俵背負せられてな。そうやって親の手伝いするのは当たり前だったんだ。学校に出席しない子供も当時は当たり前でな。俺らは6・3・3の新制中学校の第五回卒業生なんだ。第一回の連中は…、腰さズンギリ下げて学校さ行ったなや。まぁ…そういう時代だ。第一回の卒業生は週三回しか行かねぇ。後は働いていたんだ。俺の姉なんか恐らく小学校止まりで、中学校さ行ってねぇなやな。それでも床屋の資格を取るには卒業証書が用だわけや。だから学校さいって、親父の話と校長との話で作ってもらった。

さっき言った午後から炭焼きの手伝いってので、うちから出た従妹が学校の先生やってたんだ。山形師範学校終わるとすぐ大鳥さ来て。中学一年から三年まで俺らの担任なんだ。それで、うちさ来ると「あんちゃん、あんちゃん。」なんだ。で、学校さ行くと先生だよ。今だば考えられねぇども、田舎なんだからそれで通ったわけ。俺は幸せなことに午前中休んで午後の授業は出てねぇわけだ。そうすっとあんちゃんが俺のとこさきて、「ツネ、今日はこういうこと勉強したからな。」って俺さ持ってくるもんだっけ。それを見ておけよって。

 

親の手伝いとか嫌だって言ってられねぇ時代なもんだ。だから、煙草は飲まねぇども酒は飲んだんだや。俺の孫婆ちゃんが酒好きだった。自分で作る濁酒。そうすっと「ツネや、おれ一人呑んだって旨くねぇはけわねも呑め」って言って。「んじゃ、飲むか。」って飲んでっと、運わりぃっていうか、たまたま担任の先生のあんちゃんが夕方来るわけだ。「こら、また飲んでたし。」ってなるわけや。そうすっと孫婆ちゃんが、わいの親戚の子なんだから、「あんちゃんや、そんなこと言ってねぇでわねも飲めばいいっちゃ。」って並々と注いでやるもんだもの。「んじゃ。」って言って座って飲んでた。それから段々に一丁前になってきて、人以上に強くなってるわけだ。だから若勢で青年団頃なっと、一升酒だばいつでもごっつぉなるって調子で。

中学校の時は炭窯を造って焼くって方法が、まだ子供だからわからないわけやな。そして、俺が中学校卒業したのが昭和27年の春。それから本格的に親父さついて炭焼き始めて。35~6歳までやったな。大鳥の場合は、雪が余計なために夏山と冬山と2か所あったんだ。なんでそうしたかっていうと、それは桧原の方は雪崩があるうちは行けないとこ。松ヶ崎のほうは雪崩がおっかなくねぇから。だから、そこで炭焼きをしてる人も部落ではいるわけや。俺のうちと、ほか何軒かは営林署の国有林を買ってるんだ。炭窯造る場所は大体まとまってるな。だから、こっからここまでは俺が買ってた山だって。それを“山分け”って言ってた。ということは、山を分けた状態でこの山ならここさ木を集めやすいって場所を選んで、そこさ窯を造るわけ。そして、窯を作るのは大体一ヵ月掛かるんだや。その間は収入がねぇわけや。窯作っては売る物ねぇんだもの。

炭焼きには水が必要だから沢沿いに山を分ける。だども、たまたま水のねぇ場所さ山を貰ったことがあって。その山の前には大きな川があったなや。んだばわかったって、細いワイヤー買ってきて、小屋から川向うにワイヤー張ってや。滑車を付けて、バケツをぶら下げて、川まで落としてやって。水に浸したらバケツ沈むんで水が入って、それを引っ張り上げて。それを使ってた。水は飲み水もだし、窯を操作するにも使う。炭は黒炭と白炭と二役あるわけだ。俺は白炭も黒炭もやった。白炭は窯さ火のある内に木を出すあんだ。それさ灰(アク)をかけて消す。少し時間をおくと真っ赤な木が黒く消える。いつまでも長く置かれないんだからその木を起こす。まだ火は残ってる。あっついのが。その時に水をフワッてかけて消すんだ。雪も使ったよ。ただし、雪そのものじゃダメだ。ドラム缶さ雪入れて溶かして水にしておいてかけた。雪はどうしても固まるだろ。フワッと平らにかけないと。雪固まりだとそこだけは確かに溶けっけど、あまり水しょむと炭がダメになる。だから水にしてふわっと平らにかけないと。

当時の木伐りはみなノコで。目立ても自分でして。だから一日掛かって炭10俵分。ブナの木なら一本は必ず必要だからそれを伐って。それで雪降る中だからある程度まとめておいて、そこさ棒立てて。埋まってもわかるように。それを1日でこなさねぇば一丁前でねぇって。次の日はまくるならまくる、引っ張るなら引っ張る、小屋の近くさ持ってきてそれを割って。薪は大きい小屋の中で、金矢とマサカリで割る。冬になれば、小屋の外さちゃんとした柱建てて、雨はむるども柴乗せて、雪載せて。アマヤって言うども、そういう場所も作って割るんだや。天気良いば外で割るし。夜の窯を出すまでに6尺×6尺の薪を作っておいて、それから窯を出すわけだ。それが仕事だもんだはけな。それをしいねぇば「あのやろう、馬鹿ども一丁前でねぇもんな。」ってこうだもの。

中学校上がってから最初3回か4回は一緒に親父のとこに山小屋泊まって。窯から白炭出すのは夜の仕事なんだや。日中はもったいねぇんだやな。山から木を伐って持ってくる時間が欲しいんだや。だから親父さついて、「やろう、これはこうだぞ。」ってやって。学校上がって一ヵ月もなったかな。ほいで、「今夜はこの窯を炭中から出して木を立てねばねぇ。」って。白炭の場合は3日に一回出すから。その時、親父は当然いるだろうと思ってなや。そしたら「今日、村で寄合あって、俺親方しねばねぇんだはけ、今日はわね泊まって一人してやれよ。」っていきなり言われたんだ。どうもなんねぇじゃん。やんねばねぇことや。あれは忘れられねぇな。前に2つも3つも窯を出したことあるからある程度はわかるったって。それに、まだ子供だから寂しいわけや。山小屋に一人で泊まるってことは。そればかりじゃねぇ。自分で飯してお汁煮て食わねばねぇろ。仕事しながらこっちではご飯炊かねばねぇ。そういう経験もした。

炭焼きの炭は鉱山あったもんだから索道使って農協で売ってた。上田沢に農協があっての炭倉庫があって。家々で場所が分けてあって。月に一回、県職員の炭検査員ってのが来て金棒ツッコんで炭の質を調べて、一等級、二等級、三等級って分けて、それさ値段つけて、下げてやって売ってるわけだ。ただ、段々に個人では採算合わなくなったから、『共同製炭しましょ』ってなって。やっぱり石油とかそういうのが手に入るようになったから。でも、共同製炭も合わなかった。そうなってから初めて、やっぱりここでは暮らされねぇって。どっかで金取らねばねぇな。んじゃ出稼ぎするかって。36歳の時か、出稼ぎ行くようになった。東京方面さ。それから10何年、出稼ぎしたかな。春の熊獲り、山菜採りの時期に合わせて帰って来て。

東京さ4年。あと途中の宿舎さ7年かな。あと小田原さ2年。同じ建設業だ。最初の4年は大林組。東武伊勢崎線で単線を複線にするための工事。北千住から荒川越えて小菅から梅島って言うっけかな。その間を複線にしたわけや。栃木では大鳥のスーパー林道作った時の大旺建設の流れで引っ張られていったなや。スーパー林道は山建と大旺建設の2社入ってたんだ。最初大鳥からは山形建設で、大旺建設は新潟からやってたわけや。ところが新潟が伸びてきたからこっちに回って来て、山建、大王、山建、大王ってな格好で。で、俺らは大旺建設の下請けの土壌建設って会社さ入ってや。

いろんなことやった。出稼ぎ始めたころ親父に、「月に3万円、家に送ってもらえれば上等だ。」って。それで行き始めたんだ。でも、それは楽勝だっけな。東京さ行った時など、家に5万円送っても遊ぶ金10万円も残されっけもの。んだから、雪のねぇとこで出稼ぎしてお金を送る。それはまだ良いほうや。かあちゃん一人残っておいて家の雪を降ろす。俺のかあちゃんが一番苦労したんだ。じいやは年いってるんだし。当時は倅がやっと喋る頃で、秋に東京さ行って正月帰って来て、倅とこ抱こうとしたら「アチ来た、アチ来た」って逃げられたもの。“知らない人来た”って、逃げられた。笑い話だほんとで。

出稼ぎを辞めたのは49かな。大鳥の除雪の運転手がいなくなって、「ツネ、わねやってくれねぇか。」ってなって。「俺で良いばやりてぇなぁ。」って。それで役場さ話通して、出稼ぎ辞めたなや。収入は除雪の方が取れたか、出稼ぎとドッコイドッコイだったか。ただ、朝早いわな。それでも大鳥で稼ぐほうがよかった。山の方が気持ちは楽なんだ。こっちのほうが呑気なんだ。炭焼きも仕事上ではキツイども、気持ちの面では楽だぜ。人に文句言われるよりは。

東京はやっぱりな、長くはいられねぇなった。やかましくてダメだって。金取るところではある。金は取るところではあるが、暮らすところではねぇって俺はそう思った。あと、水が悪いな。行って10日か20日は便秘して固まって腹張って。かあちゃんの兄弟が東京で結婚式の時、小学校1年生の息子も連れて行って。その時、浦和の叔母さんの家に行ったら息子が「水欲しい。」って言いだしたわけや。「ほれほれ水くれる。」って飲ませたんけ。「俺はこれじゃねぇ、本当の水欲しいんだや。」って。そう言うんだはけ「ほんだやなー。」っておかしくなって。確かに水は悪いっけ。あとは食い物は何にも言わせねぇほうだからな。

 

俺はされるだけのことはしたな。出稼ぎやった、炭焼きやった、山菜採りはやった、茸採りはやったろ。それさ戻って来て除雪もした、マルミチ砂利さ入ってダンプ乗りもした。山も歩いたな。なんでってかいうか、それしか脳がねぇはけや。歩くとか力出すとか。炭焼きもだし、何やっても。

ナメコもひと盛りやったことあるしな。10人のナメコ組合作って新潟県境近くまで行って。近くの山はな炭焼きをするために払い下げしましょうって。ナメコは炭焼きの商売に邪魔にならないから遠くでやりましょうって。当時は炭焼きは続けるつもりだったんだ。ウソだと思うかもしれねぇけど、ナメコの一番良い時は一秋に700万から1000万稼いだ家もあったぞ。うちだって俺も採り、親父も採り、かあちゃんも行って400~500万稼いだんだ。昔はすごく出たんだや。最初はな、11人集まったなや。11人で菌を買って栽培を始めたな。2年経てば出るって言ったんだかな。ところが2年経っても出ないもんだから、酒屋の親父が「これはダメだ。」って抜けたわけや。それで10人組になったわけ。「ほいだば辞めたのは仕方ねぇども考え方によっては10人だば分けるに簡単でいいあんでねぇか。」って、そんなふざけ話をして。その次の年からもの凄く出たわけや、ナメコ。それでエンジンとワイヤーを買って、炭でもなんでも飛ばせるようにってこっち峰から向こう峰まで索道を張って。エンジンが重てぇわけや。20貫そこらではねぇんだもの。バラして背中さ背負ってや。でもエンジン部分はバラされねぇんだし。山の中で組んで。

桧原の一帯はみなキノコ植えたわけや。炭焼いた後の伐根さ植えたりもしたじゃん。共同のナメコは夫婦で行って採って。根子かなんかは親父が採ってくるわけや。共同のやつを選別して夜の11時、12時なって。家さ来るとまたあって選別して。それを農協が買いに来て。いよいよダブついたらトラックさ積んで自分らで庄内さ売りに行って。投げ売りした。安くってもいいと。あまりダブついたもんだから昨日採ってきたの今日採ってくるとまだあるんだもの。そういう時代もあった。今の茸は出ねぇもん。ただし、一回植えた場所には絶対出ねぇからな。一回栽培した後さ別の木を植えても絶対でねぇ。菌が邪魔になって。何十年もダメだ。一年や二年でねぇ。「ここは凄い出たところだから絶対間違いねぇ。」って一所懸命玉切りして運んで並べて植えたのに全然出ねぇもの。それも一つの経験だやな。

 

春はゼンマイ採りだじゃん。昭和27年から、16~17から70歳まで行った。ゼンマイはな、一番多く採った時は農協に出したのが104貫。凄い数だ。それであまり高くなかったなや当時は。ところが、俺が学校上がって3~4年目かな。その頃新潟から業者が入って来たわけや。おらいのゼンマイを見て、「このゼンマイ、俺買う。他さ売るな。」って。なんぶで買うっていうことなったば親父、農協でつけた値段が1,500円なら3,500円だって。バカ値段なんだ。売り先は船乗りだって。その業者は4~5年は来たな。俺学校上がった年、昭和27年頃におらいさ借金が7~8万とかあったんだ。それをのすに容易でねぇわけや。だからまず「一旦返したぞ。」って。してまた「その金借りていくぞ。」って自転車操業をやってたんだ。親父は人良いんだはけ、「春だば貸してもいい。春だば一所懸命に稼いでおいて持って来てまた借りてもいい。」って言われた人なんだはけ。それが値段がゴンと上がったんだはけ「これでのそ。」って、一年で返した。何年もかかる勘定でいたども。

ゼンマイ採りの前は、鉄砲持って熊獲り。だども、熊は獲れるかどうかわからねぇもんだから、親父は俺のこと熊獲りさやりたくねぇもんだっけな。「当たり外れあるから、間違いねぇ炭焼きしてろ。」って調子だわけだ。でも、今もおんなじだが、若いもんとしては遊びもあるんだし、獲れば儲けもんだし。行きたい訳だな。全然獲らない年も何年もあるぞ。春うち歩いたって足跡一つ見つけないこともあるんだもの。だども、獲る時は獲るんだや。熊は我々の経験で言わせると、堀の中の鯉と同じだって。親父もそういうんだっけ。鯉は回り始めると同じに何匹も揃ってグルグルと回るっていうわけや。だから熊も山を回っているから、動き出す時は一緒に回っていくから、見える時は「あれさいたぞ。」って同じところで3匹も4匹も見る時はあるわけや。その代わり、カラッといないときもあるんだや。だから同じところをグルグルと回る、回りさ合えば見られるども、合わねばみられねぇってことや。

おいら熊獲り行った時は西と東が分かれた後だはけな。俺は西の組。だから俺のぜんまい小屋さ泊まったり、他の人の小屋泊まったり。西は拠点がなかったわけや。西のしょは若い人がぞくっと揃ってたもんだから「熊より走る連中だ。」って笑われたども。若さにまかせて走り回ったもんだから。西は俺と、もう2人がほとんどマエカタしてるわけや。だはけ、鉄砲の撃ち手ではなかったなや。それでも俺は15頭獲ったもの。散弾銃でな。ライフルは二人いたかな。俺らは金なくて買う余裕はなかったな。だから、話聞くと今のやり方は、遠くへ行ったって獲れるってやり方なんだし。俺らは間違いなく自分の足元まで上げておいて撃つってやり方なんだ。度胸と運だ、あと。

前は家の雪のけも前は二人でぐるっとやってたんだども、俺病気して手術して。今月の5日で入院してからまる7年。肺がんって言われたんだもの。あれから7年だからな。だから俺は今、儲けもんなんだ。運転はなんでもねぇ。山形さでも天童でも行ってくるはけな。ただ、年いったはけ、事故起こすと「ほれみろ。」って言われるはけ、それだけは気を付けてやってるどもな。昨日は倅が孫連れてきたっけ。

工藤常雄さん:昭和12年2月19日生まれ。87歳。
聞き取り日:2023年10月2日
文責:田口比呂貴