大鳥のこと

【大鳥 山の人生】三浦弘堯さん

この年まで生きるなぞちぽっとも考えたことねぇ。俺はまず80歳まで生きるもんだば良いとこだと思ったんだ。若い時はな。俺のじいやは俺3歳の時に木にやられて亡くなった。焚き物伐り行ってな。おっかねぇんだぞ。ガッケツさ、崖さ、掛かり木がぶら下がって。めがたが裏よりこっちが重たくて。伐って逆に倒れたんだ。崖で逃げられねぇろ。一発で。それで亡くなった人だ。じいやはな、背高くて力がある。凄い人だとや。人格者でな、素晴らしい人だってけとな。それ亡くなったのやな。50歳もなんねぇかも。

俺の親は88まで生きたんだ。ここさ婿で来て。親は稼ぐ人でな。大木さな、手合わせられねぇあんさ登っていくんだや。そして鷹の子獲って来たっけ。子、獲られると凄いんだっけな。親がバーッてかかってきてな。俺は下で見ったんだ。それを俺に飼わせてな。小屋組んでな。ビッキくれたりして段々に慣れてや。放してもカエル持ってくると飛んで来てぶら下がってな。めんごいんだっけ。本当の鷹だもの。トンビと違ってちっちゃくてスタイル良いんだやな。ウサギでもなんでも獲るに名人だぞ。2~3年は飼ってな。鷹も大きくなると、みな自分で餌取りに行って。だどもカゴから放しても餌獲れねぇんだはけ来るんだやな。やたらにカエルだって獲られるもんではねぇんだ。そうすっと飛んできて肩さくっついてな。ある時、放してやって羽広げた時に高圧線さな、電気でブワーって。死なれた覚えある。忘れられねぇな。どうだろうがモノくれて飼ったんだ。俺が中学校上がった頃だな。16か7だな。特殊な鳥なんだはけな。それで物くれると来るろ。それ楽しくてや。そういう楽しみに飼ったんや。

 

ここの家で豆腐屋した時は豚飼ったし。その前はウサギ飼ったし。50も60も子取ってや。30も40も飼ったことある。西洋ウサギ。それを食料にしたんだ。30匹もあれば、何回も食われるんだはけな。肉はねぇ時代なんだはけな。買われねぇ時代なんだ。戦争でな。俺、子供の時から戦争ずっとやってたんだ。だはけ世の中複雑っていうか、容易でねぇ時代に生まれたんだ。若い人はみな兵隊。盛り者な、二十歳過ぎた人はみな兵隊取られて。招集行って殺されてな。ぶち殺されて。ほとんど帰ってこねぇぞ。大鳥からも何人も行った。みな帰ってこねぇ。ほとんど死んだ。後で朝日村の村長なったの、あれは生きて帰ってきたな。あれももう殺されろうとしたってけな。占領されてドンと入ってきたんだはけ。もう殺されっとき、鉄砲でぶち殺したっていう。ひどいもんだぞ戦争ってのは。へずけたのあるもんでねぇんだ。あって何の得もねぇ。天皇陛下も反対したんだとや。「戦争しんな。」って。だども東條英機ってな、無理にやったんだ。米国に敵うわけねぇことやな。子供みたいな話やな。それで国民のこと苦しめたんだ。とにかく強制的に。「神様勝たせろ!」って。神様勝たせるもんではねぇろや。それで軍隊叩きつけてな。いじめたんだ。軍隊さ行った人は。それで死んだ人いっぱいいた。情けねぇって言ったらいいか、めじょけねぇって言うか。でも幸いな、俺は遅く生まれたんだはけ兵隊さは行かねぇんだな。みな徴用されてな、みな殺されてな。そういう時代を暮らしてたわけや。大変な目に遭ったわけや。

 

学校は大鳥小学校で、6年生まであって毎日行ったんや。学校で畑作ったんだ。食料ねぇ時なんだはけな。肥やしは小便とかな。便所のあれなんだ。肥ねぇんだ。農業の先生いてな。「汚ねぇ。」って言う子供がいたんだっけ。小便でもなんでもや。その先生が、「そんなもの舐めっとや、強いか弱いか舐めてみるんだ。なんでもねぇんだ。」って言ってな。サツマイモ作ったりして。それで、田も手伝い行ってな。餅つき、「モチうめぇ。」って食ったことある。食うに食われねぇ、人が活きるか死ぬかって時代なんだはけ。サツマイモは食うに良いんだやな。腹くっちぇくなってな。飯の足しになる。それで暮らしたんだ。

小学校をもう卒業すっときに中学校が出来てや。中学校は3年間だどもな、あまりに家が忙しいもんで何日も行かないでしまった。ただ炭焼きの手伝いしたり。ナギノしたりな。山さ畑作って豆取ったり粟採ったり。だはけ、何とか卒業証書貰ったんやな。俺ばっかりでなく、みなそうなんだや。ナギノは中学校上がる頃にやったな。国有林を安く借りてな。家から歩いて1時間掛かるところでや。そんなに広くはねぇ。火付けて焼いて、粟でも豆でも取ったんや。ほいで家族で作って暮らしたんだ。やれる範囲でな。それ取るとだいぶ暮らされるんだ。大鳥はまず、ほとんどみなナギノやってたんだ。大抵の家は田を持ってるは持ってたんだやな。ただ、足りないんだはけナギノして食料とらねぇば暮らされなかったわけや。ただ、百姓で多く田作った人はコメあるんだはけ暮らされたんだな。うちも田んぼもあっども、2反部くらいしかねぇんだ。だはけ豆でもなんでも作って暮らしたぞ。食い物無くては死んでしまうんだもの。

炭焼きもやってな。20年かはやった。夏も冬もずっと。ずっとや。まず、炭焼きだば奴隷なんだっけ。あれは重労働なんだ。夏も冬も山越えて。冬は桧原とか松ヶ崎のほうとかな。おらいは石窯だども、夜に炭出すようだもんだ。赤くしてな。良い炭でねぇば値段安いし、良い炭焼いてな。“三日開け”ってな、三日開けに炭取るんだっけ。一回に8俵くらいで取れる窯でや。一俵5貫目なんだ。最初は2俵背負うども、段々慣れると3俵背負われるな。背負ってこねぇば金なんねぇんだ。その炭を農協に売ってや。鶴岡さ持って行くんだっけ。ほいで、1俵売ると長靴でもくれるんだや。炭焚かねぇば燃料ねぇ時代なんだはけ。金もなんぼかねぇば暮らされねぇんだはけな。難儀こいたぞ。焼くのは俺の親な。それが稼ぐんだやなぁ。切ったり割ったり、窯作ったり。二人で背負ってきて。とにかくおいらなんて何もしいねぇんだ。窯も作れねぇ。最終的に俺造るようなった時は辞めるようなってな。最後には共同製炭なったんだっけ。桧原に良い木わらあるんだやな。それを冬に共同で炭焼きして。大きい土釜作って、一班二班って分かれて。大勢なんだはけ。俺は二班の班長なったんだ。一つの班に4~5人はいてな。ほいで索道かけて、炭ごしたんだ。索道ってなは、越後山のテッペンのほうにナメコ作ったとき。木が遠いんだはけ、索道かけたんだ。県から補助もらって。その索道利用して炭運んだんだ。向こうから中間までは来るんだし、大して良いわけやな。3~4年は続いたかな。だどもガスとか灯油なったんだはけ間に合わなくて辞めたんや。それから出稼ぎいったんだ。

 

俺ら出稼ぎさ行った時は、戦後の一番景気良い時だ。東芝さ2年、所沢さ2年、神奈川さ1年だな。東芝は東京のど真ん中にある。かかぁも一年いった。所沢は一番金なるっけな。夜の12時まで稼がせんだや、傘作り。かかぁと2人なんだはけ一ヵ月20万も稼いだんだ。だはけ豊富に稼いだんだ。給料袋バッチリだぞ。それで鶴岡に家建てたんや。何百万も稼ぐんだもの。婆さんに「鶴岡さ家を建ててくれれば息子は東京さ行かねぇんだはけ、早く建ててくれたほうがいいんだ。」って。親父はな、「そんな家なぞ建ててくれなくていい。」って。ケチ臭くて。対象の人なんだな。ほんでもやっぱり親父の時代ではねぇんだはけ、決心しねばねぇ。「親父そんなこと言ってはダメだ。」って、建ててくれたんだ。大鳥の鉱山がもう無くなる時だったな。

面白いことはや、俺鉱山さも働いたんだ。最初は大日本鉱業。ただそれも無くなって。それを今度、出羽鉱業が買って、それも続かなくて。鉱山は4年かといねぇ。それから大滝成型さ稼いだんだや。俺は運良くてな。大滝成型って普通は働けねぇんだ。かかぁの兄弟の会社なんだもの。んで社長に言って、俺稼いだんや。10年行ったな。だはけ俺は助かったんや。トントン拍子にいったんやな。大日本鉱業と出羽鉱業、大滝成型って退職金3回もらった。時代がえがったわけや。そういう金で建てたんや。

その後は大鳥振興さ、85~6歳まで稼いだぞ。そうしてあと、俺稼ぐあんの嫌になってきたろ。今度息子が定年なったはけ、「わね今度、俺の替わり稼げ。振興で仕事されるはけ。」って言ったんや。でも、やるって絶対言わねぇんだやな。「俺の会社で定年した人は誰も稼がねぇし、俺は仕事は辞める。」って。「俺は稼いで、わねはカメラもって遊んでるあんか。」って言った。「うん。」って言わねぇっけぜ。そうやって俺に何回も言われてや、「行ってみるかな。」って。その時、大鳥振興も人少なくなって容易でねぇはけな。「俺辞めるし、息子が来てみるっていうっけはけ。」って。それから何年も行ってるぞ。そういうことなんだ。俺は年になったんだ。

 

鉄砲撃ちもな、昔は生活のために行ったんだもの。熊一頭とれば百万もなるのあったんだはけな。それ獲れば生活が楽だわけや。鉄砲はおらいの親父が持ってたんだ。村田銃ってな。わ火薬つめてウサギ獲って暮らしてるんだっけ。冷蔵庫なんて前はねぇんだ。寒中なんだはけ家の中さ下げておくと肉がらみ凍みるんだ。それを冬うち食ってられる。そうやってウサギ汁食わせてな。買わねぇっていいんだし、大していいんだや。

大人なって俺も鉄砲持ってな。ウサギ獲り行って、8匹も獲ると冬うち暮らされるんだ。一人で行ってや。いっぱいいたんだはけ、何ぶでも獲られるんだっけ。8匹も獲って、やっと背負ってきたことある。おらいでナギノやってた場所はウサギの産地だったんだ。ナギノがあるために、ウサギも食い物あって集まってるんや。ツタとかちっちぇ木の芽がいっぱいあるところなんだ。その木の芽食って暮らしてるんだ。ウサギも賢いもんだぞ。鷹来ると穴にむぐって入るんだや。人行くと逃げて穴さ入らねぇんだや。誰に習ったわけではねぇ。自然にそうなんだろ。鷹来た時は逃げればやられるんだものな。だはけ昔はな、鉄砲ねぇときは笠持ってや。木の陰から寝ったとこサッと見てな、陰からピューって投げてな。鷹に見せかけて。それを鷹と間違って穴に入る。入った時にケェシキ持って行って獲ったもんだと。俺は鉄砲あったはけそんなことしねぇどもな。それで獲ったんだとや。

だはけ不思議なんだもんな。ウサギはそういうこと覚えて生きていくんだもんな。“テン道”って聞いたことあるだろ。テンは足跡かぎつけて行くんだはけ。行っておいて戻って、ポンと脇に跳ねて。それをテン道っていうんだや。それがある時は「あぁ、ウサギいたな。」ってわかるはけ。あそこいたはけ陰から行っておいて、出はった時ブッてくれるって。テン道切ると穴あけて寝場所作ってるんだや。鷹くっと穴さ入れるように。木の下は掘りいいんだはけ。作るんだやな。不思議だなって。

獲るのはまずほとんど寝ウサギな。わかんだや、静かに歩いていくとな。寝てるんだやな。あんまり近くなるとポンと走り出して逃げる。ナギノしたとこは柴いっぱいあるところだ。そこさいっぱい寝てる。それで、とにかく静かに歩くことや。静かに歩いてな。よく見てな。ウサギがどこにいたか探すことや。昼間は寝てるんだはけ。やたらに行くと逃げるはけな。それで、大体あそこら寝てたそうだなってとこ静かにみて、近づいてブツあんだば素人もブタれるわけやな。動いてからは中々早くて。だはけ、いつでも撃たれる体制で歩く。それで半日も歩くと、いっぱいいた時は7~8匹も獲るんだ。

やたらに歩いて獲れるもんではねぇんだや。ウサギより賢くならねぇば獲られねぇんだ。人の姿見れば逃げるろ。かなり遠くから逃げるんだや。だはけ早く見つける目。目で早く見つけることや。それでウサギを寄せてな。なるったけ近くでぶたねぇば当たらねぇんだはけや。ウサギよりメロリでは獲れねぇんだ。ウサギあんまり賢くて。人くっと逃げる、鷹くっと潜る。賢い能力もってるんだ。周りを見ながらな。ワリワリと歩いてはダメや。さらうくらいの感覚で歩かねぇば獲れねぇんだ。だはけいっぱい獲れる人と獲れない人と、差がついてくる。最初は上手く当たらなくて何回も逃げられたども、親父に聞いたらこう教えたっけ。「あそこに寝てたなって見当付けたらグンと肩に付けて。付けた瞬間に撃て。付けてからウロウロったって絶対ダメだぞ。」って。それから習っていたば熊でも何でも当たるもんだっけ。肩付けした時にブッてやると。狙って何回もウロウロしてっと絶対当たらねぇって。だはけおらいの親父は名人だって言われた。春だと、跳ねたウサギは一間も飛ぶろ。「来たな。」って思ったら前のほうが撃ってやるんだとや。散弾だはけな、散らばっていくろ。足がはえーばはえーほど前のほうさな。頭と思って狙うとや、バーッと走ったのがボンと死ぬんだって。みな獲られるって。逃がしたことねぇって。そういう風に教えられて。

 

俺、なんとか動けるんだはけや。身体が丈夫なのはな。今考えてみると、朝起きてコーヒーと卵を飲んでた人は百まで生きたって。百まで生きる人をみなデータで調べてみたとや。百まで生きる説明、医者がそう言ったっけぞ。俺は運良くてな。コーヒー飲んできたわけやな。寿岡の陰の山さワラビ出っとこあるんだはけや。大滝成型行ってた時は、ひと背負い採るには朝3時起きしねぇば採られねぇんだ。だども腹減ってな。コーヒーねぇば稼がれねゎけや。で、缶コーヒー3本くらい持って山で飲んだもんだ。ほいでひと背負い採って、ガラミ全部持ってく人いたんだはけガラミ売って。それから大滝成型に稼ぎに行って。毎日3本だとひと箱はすぐ無くなるんだやな。それでかかぁにな、「わねこんなにコーヒー飲んだら腹真黒くなってそんま死ぬんだぞ。」って言われて。今でも忘れられねぇ。前にはコーヒーは体に悪いって言ったんだな。ところがな、今ではコーヒーはテレビでも良いって言ってるっちゃな。コーヒーのお陰かもしれねぇぞ。あと、ハチミツも良かったんやな。砂糖だと糖尿病なるあんだとや。それで俺、医者に聞いたんや。「おめぇコーヒーそんな飲んでは普通だば参ってしまうぞ。」って。缶コーヒーさ砂糖入ってるんだはけな。「わの場合は汗出して働いてるから大丈夫だな。」って言うっけ。それずっと10年も続いてる。だから俺の真似はしいねぇっていうのはそれなんだや。良い物を飲んだってことや。卵も一個は食ぇってけな。朝間飲んだのは一日消化して一日足しになってるあんだと。だはけ必ず朝間良いものを飲むと。特別な病気なれば別だどもな。

大鳥さいると不思議にゆっくりする暇ねぇんだ。冬なっと雪がほれ。冬でも一年中動いたんや。他の人はユンボ―で家の脇の除雪してる。俺の家はユンボ―でやれるとこねぇんだ。消雪の水だって一間くらいしか消えねぇんだもんだ。それを突いたり。俺があんまり家さ入って来ねぇんだはけかかぁ心配して、俺のこと死んだかと思って、鶴岡さ電話やったっけじゅ。そういうこともあった。身体使うことも、まず楽しくてやってる。ただやっぱりな。90もなってはあまり無理な力出すとダメだな。春に大量の雪引っ張ったろ。その日は寝た時はどうでもねぇあんや。朝起きようとしたば、腰いてぇんでねぇか。動くとや、ビーン!って電気きたようだ。これはうまくねぇなって考えてみたばや、90にもなったんだはけ、あの時大量に雪引っ張って腰悪くしたなって。

昔、薬屋に聞いておいたんだ。「身体はな、ただ黙って痛い時は危険だ。動いて痛いのはおっかなくねぇ。」って。俺、年なのに無理したからだなって。「よし、これ医者さいけば何回も来い来いって言われるはけな、これは黙ってると痛くねぇはけ治してくれろ。」と思って。3日くらいあまり力出さねぇば、段々に良くなってきたっけ。完全に治るまで6か月くらい掛かったな。あと何にもしないでな。春なったっけぞ。そういう無理な力は出しては危険だということがわかった。頭は若いんだはけ力、出されるんだや。それが、足やら腰やらは脆くなった。だども薬屋に聞いておいたから良かったんだ。若い時に薬屋来て家さ泊まるんだっけ。越中富山の薬売り。それでハチミツも飲むようになったんだ。砂糖は悪いってけ。砂糖は虫歯でもなんでもなるって。

三浦弘堯さん 昭和9年10月4日生まれ 90歳。
聞き取り日:2023年10月2日
文責:田口比呂貴