【大鳥 山の人生】三浦健一さん
俺の同級生は23人いたなや。今も大鳥にいるのは1人、鶴岡には4人いたな。あとみんな都会だ。やっぱり就職で行ったんだな。当時、高校に行く人は4~5人くらいだぜ。そういう時代だからとにかく勉強より仕事一番で。あまり金取る仕事もなかったし。とにかく仕事でいろいろ苦労もしたけどもな。楽しようったってどこへでも歩くのが当たり前で。せつねぇとかコワイってイメージねぇなやな。とにかく動いてればいいってな感じでな。山にいっても何しても背中さ背負って。バンドリ背負って、仕事一本。俺は兄弟の中では兄貴だから、跡継ぎでっていうことで、とにかく山さ。小学校6年生頃からゼンマイ採りさせられた。学校休んで、泊まり込みで。小学校6年生から中学1年、2年、3年と。ずっと行った。中学3年の時は修学旅行で東京行って、帰って来てすぐゼンマイ山だもの。
当時は鉱山の道路があったのかな。段々に道路拡張して、普通車が通れる道を鉱山が作ったなやな。でも、車はねぇもんだし。家から小屋まで3時間くらい歩いて行ったなや。米味噌背負って。うちは10日くらいしか行なかったけどもな。山が小さいところだったから。小屋はやっぱり沢の近く。両側から沢あって、その合い口にあった。山のヒラをゼンマイ採りしてな。あと本流って言うかな。最終的にはスーパー林道出来て、又口から通ったけどもな。その頃は通い。1日掛かりで家に持って来て。中学校卒業してからも何年かやったのかな。爺さん婆さんと俺と。親は行かなかったなやの。親が田んぼやってて。ちょうどゼンマイの時期ってなると田起こししたり苗代作ったり代搔きしたり忙しかったから爺さん婆さんと俺と、3人か。
俺は嫁の子供で、家さは婆さんっていうか、姑がいたんだ。姑にも俺と同じ年の子供がいてや。小学一年生から中学三年生まで同級生で通ったなや。婆さんの子と俺の母親は嫁で来たんだ。俺の父親は戦死して、その兄弟と今度、母親が一緒になった。当時は兄弟がたくさんいたなやの。だはけ、実際は兄弟って俺1人。あとは半兄弟だなや。母親は同じだども。そういう面でも苦労した。実の父親は全然わからねぇ。2~3歳の時に死んだし。兄弟は女が1人、千葉さいて。男は鶴岡さ2人いて。兄弟たちは学校卒業してすぐ就職。俺の同級生の婆さんの子は横浜さいったし。俺の義兄弟は鶴岡の夜間の工業高校さ行って鶴岡に就職して。兄弟と過ごしたのは学校上がるまでだな。家の手伝いだかしは俺が主で、兄弟たちはあまりやってねぇな。
中学校の時は、とにかく俺たちは勉強より遊びのほうが一番で。途中で教室抜け出して山行ったりして。3~4人でただ山行ってワーワー騒ぐだけや。して、女の先生にビンタやられたり。悪ふざけばっかりやな。勉強よりも仕事だからな。授業も眠ってたもんだ。学校から帰ってくると昔はみな薪ストーブだろ。小屋で焚きもの伐って割って。家で晩に焚く分を確保しねばねぇわけやな。それが日課。
木は営林署の山から払い下げしったなや。西の人が焼き畑やってたあたりの川端の斜面を伐って、春先の硬雪の時にまくってきておいて川流したこともあった。寿岡の堰の上流から入れたなやな。そして松ヶ崎橋の手前さ積み上げたもんだな。ドンドン流れてくるから。拾って積んで、拾って積んで。うまいく流れてくる。時期は春だな。あまり水多くても木が流れてしまうから、人が入って水路の入口さ寄せねばねぇ。松ヶ崎の上流さ溜め池みたいな、川仕切ったとこあるろ。あそこさ木が来るんだや。川の流れが山際さ来るもんだから、木もそっちさ回って来て。川に“溜め”があるもんだから流れねぇわけや。今度そこさ入って行って、トビで寄せてくれねばねぇ。水のある方さ寄せてやるわけや。だからドンドンとは流れては行かねぇわけ。春は水、はっこくてな。今みたいに防寒もねぇ。モンペって薄いやつ、あれだもんな。長靴もねぇような時代だろうから。モンペにワラジ履いてとかそんな感じだろうな。胴長なんて無かったろうし。流した木は薪専用や。その家々で流すんだ。木を伐ったり割ったりは、うちさ木が来てから。それをやらせられたし。あとからはワイヤー張っての。うちの親父は器用だったんだから。どだい、鉱山で機械屋もやったことあるんだから。搬器作って薪を載せてピューンって飛ばすわけや。ワイヤーを複線にして、荷が下りてくるとこっちの搬器が上がってくるようにして。飛ばして下さ来てぶっつくとポンと外れてガラガラと落ちる仕組みにしてたんやな。丸太で。大きいと割るなや。道具持ってって。持てる範囲まで割るわけや。西大鳥川を越して今のスーパー林道のとこさ置いて。
炭焼きも手伝いに行かせられたな。その山では4軒がやってるんだっけ。個人個人だども小屋が近くて、「おぉ。」って言えば「おぉ。」ってわかるとこさ小屋造ってたんやな。窯を造る時は共同っていうか、一人か二人ではできねぇからお互いに手伝って貰って。ハチ叩きって木を立てる窯を造るわけだ。そこさアーチ型のハチって作るわけだ。土を湿らせて、平べったり棒で叩くわけだ、締めねばねぇから。それでヘラって木を削っておいての。バンバンと叩いておいたんだ。あと出来れば、個人個人で座ってノコで引いて。その後チェンソーが出てきて、うちでは4㎏もあるチェンソーで伐ってたんだ。木を竹ゾリさ積んで、小屋場まで引っ張って割って。
冬は、寿岡から歩いてだぜ。繁岡までも30~40分掛かるわけ。山まではもっともっと…。それこそツボ足ってよく言うけども、行くときは仲間と一緒で良いども帰りは繁岡で分かれるわけだ。炭倉庫に降ろしてからは俺一人。夜暗くなってからトポトポトポトポ歩いて。それが毎日だぜ。他の連中は相撲始まっとや、3時くらいに山から逃げてくる。俺はあと泊まって、3日に一回炭出しするわけだ。白炭なんだはけな、真っかっかの炭引っ張りだして、アクって、灰をかけるんだな。水を掛けてはダメなんだ。隙間なく灰を掛るわけや。あれがボソボソって凄いじゃん。それで灰でみなくるむとジワーっと消えるわけやな。8~9俵しか取れない窯で。親父さ手伝えって言われて泊まって、炭出しを手伝って降りてくるわけだな。
あとからは桧原で7~8人で共同製炭をやったなや。朝、家から行くと昼間なるなや。冬だからな。あの桧原坂越えてだぜ。峠さいくと今度は川まで降りて、またずーっと上がっていく。酷い時は新雪が腰まであって。しょっちゅう交代交代での。雪深いからなんぼもたねぇんだ。でも、とにかく小屋まで行かねばねぇんだ。行って飯食って戻るにしても、とにかく行かねばなくて。泊まりもあってな。あそこはほとんど土窯だったかな。だから窯もおっきいわけや。炭出しっていうと女の人も行ったよ。小屋で加工しねばねぇわけや。ノコで炭を伐って、俵さ詰めねばねぇ。当時は家で俵編んで、背負って来たじゃんの。でもそれが容易でねぇからってワイヤー張って飛ばしたなや。ドンドンと飛ばすから、みなそこまで行って炭背負って帰って来たもんだ。当時はそれが仕事だから誰も何も思わなかったなや。出稼ぎ行くようになるまでやった。
田んぼもやってな。昔は苗代さ種をバラ蒔きしたなやな。それで苗取りってジャバジャバと根子洗ってジャっと縛って。段々に雪中苗代って畝作って、今のやり方に変わって来た。昔は田んぼさ苗植えるったってみな手植えだろ。だから隣近所の人ら7~8人も頼んで。苗取りも6~7人も必要だわけだ。んだはけ、全部で14~5人も頼んで。苗取りは男の人やって、田植えは女の人。で、うちでご飯食べさせて。そうしてやったなやな。苗取ってすぐ運んで植えてるところさ持って行って。俺は運び屋で。取ったの貯まったら持って行って、みんなに渡して。取るったって結構時間かかるんだ。一株ずつ洗って束ねてだろ。田んぼでは専門に植えてるんだし。昔の人は手早いんだやな。
山さは畑もあってな、サツマイモ植えて。それを収穫して背負ってくるのが重いもんで…。サツマイモはやっぱり主食。休憩に食べたりもしたな。米はあったども、あと食べるものねぇじゃん。大根は植えれば豊富に取られたんだな。小豆も大豆も作って。味噌は自家製でな、でっけぇ樽3つも4つもあって。3年味噌とか10年味噌とか。当時は魚買うお金も無かったろ。だから畑とか山のものとか、自給自足みたいな感じでや。山のものは昔から豊富だったんや。杉カノカとかモダシとか、コゴメとか。だから山菜は好き嫌いない。なんでも食べる。ナメコだって今と違って豊富。ナメコも植えたしな。炭焼きで木を払い下げする訳だから、その近くでナメコ木をついでに。炭焼きの道があったから便利良いってことでな。あの頃は暗くなるまでナメコ採りだぜ。懐中電灯持って迎え行ったこともあるし。迎え貰ったこともあるし。何十キロも背負ってきて、それから選別だもん。家のニワでやったり車庫でやったり。夜中の1時2時まで。そして、業者が毎日買いに来たなや。個人で平田から来てたな。
今みたいにみな高校さいく時代だば、俺も高校さ入りてぇって頭もあったかもしれないけど、同級生23人いて4~5人が高校に行くって話があるくらいで、ほとんど行かなかったからの。勉強したい気持ちも無かったし、都会さ行って働きたいってことも無かったし。うちがこういう状態だから俺が家を手伝わねぇばうまくねぇって頭で。当時は朝日屋の脇に農協あって、そこも誘われたけども断ったし。「県の米倉庫の職員ならねぇか?」って誘いもみな断って。中学校上がってからは荒沢ダムを造るってことで、この辺もある程度土地が潰れたわけだ。そうすると、繁岡など特にだども、繁岡の奥のほうさ改田って県で田んぼ作ってくれたわけや。代替え地みたいに。学校上がりはそこさ働いた。業者から雇われて。当時は日当450円だか480だかで働いた。まず、作業員じゃんの。重機など無かったやな。ただダンプで運んで。
あとは主には営林署関係の造林。地ごしらえ、杉植え。当時は杉も結構需要あったから営林署山をボンボン伐ってるわけ。そこさ杉植えねばねぇ。そういう仕事を何年もやった。杉の苗も背負っていって。 “ブナ立て”って言ってや。木を山師が伐る訳だ。その跡地さまたブナを増やすってことで“ブナ立て”って、ブナを残して雑木を伐らねばねぇ。10何人もぞろぞろと奥山までいったよ。杉もなんぼか植えたかな。地ごしらえが大変なんだ。木を伐った跡に柴がゴチャゴチャとなってるからキレイにしないといけない。そして杉の苗を背負っていって…。競争なんだっけ。一日何十本とか割当あってや、俺はとっても追い付かねぇけども。早い人はそれこそ“ひとか植え(一鍬植え)”ってよ。クワで一回掘って、すぐ苗を挟むわけや。そんなことしてはホントは育たねぇなやの。植え方がダメだとすぐ枯れるからわかるんだ。粗末にやったのは根子は張らねぇなや。数週間でポリポリと赤くなる。ちゃんとしたのは青々となってるし。一目瞭然や。本当は丁寧に皮を剥いて土出して、杉置いて、土被せてってやるども、ノルマみたいにあって。一人は1日100本も植えてて、もう一人は30~40本っては植えてられねぇ。だから、「めんどくせぇ!ひとか植えだ!」って挟んだもんだ。どうもなんなくて。あと下刈り。今みたいな草刈り機械はないからみな鎌で。その鎌もすぐ切れなくなっちゃん。手鎌と1.5ⅿくらいの柄の長い鎌。それを砥石で研いで刈って、また研いで。先輩は上手だけども俺たち研いでも切れねぇ。研いで貰ったこともあっけどもな。当時はとにかく杉なんだ。雑木など育てなかった。杉の需要もあって売れたもんだろうし。今は二束三文やな。
炭焼きを辞めたあとは出稼ぎも4~5年行ったしな。神奈川の秦野に2年。HONDAの会社だっけな。オートバイの燃料タンク作り専門で。結構大きな会社で、従業員何十人いたとこさ、朝日村から20人近く行ったかな。大鳥からも何人かまとまって行って、アパート一棟を俺たちで占領したじゃん。だども、給料は安かったんだ。家に3万円も送ったかな。かぁちゃんとも一冬だけ一緒に出稼ぎ行った。あれは東芝。正月あっちで一緒になってな。その後、福島も行ったし、横浜の磯子区も行った。出稼ぎで半年働いて帰ってきたら失業保険貰ってたんだ。春ったってまだ雪あるから何もできねぇじゃん。だから、春はフラフラ遊んでな。
それから、山形建設でスーパー林道の工事が始まって、2年くらい働いて。その頃は冬に新庄さ生コンの運転手で行ったことがあってな。そして今度、山形建設で生コンのプラント持ってたわけやな。当時は下請けの業者が3人いて、プラントマンと生コン運びがあってな。俺は生コンの運転手やってたんや。だども、山建では「2人でいい。」ってなって。俺はプラントマンはやったことねぇから辞めて。新栄って会社さ行ったなやな。その当時はバックホーをなんとか動かしていたんだから。スーパー林道の下請け仕事やって。その後は花戸林道もやって。
それとは別に、冬は除雪さ入ったんだ。当時は朝日村役場から直営で。当初はブルドーザーから。だども相方がスクールバス乗るようになったろ。除雪出来なくなるもんだから、常雄さん出稼ぎしてたけど電話して、「除雪やる気あるか?やる気あれば、俺話するから。」ってことで。常雄さんは頭きれるんだやな。仕事もできるし。そうこうして俺は50歳まで、17年間除雪やったよ。それから大滝成型って会社さ勤めて。それが初めての通年雇用でな、15年間働いたな。
結婚は二十歳の年。うちのかあちゃんは誉谷出身で、大鳥の学校を卒業してるな。だども当時は結婚とかいう頭がなくて。うちの孫爺さんが「誉谷さこういう子がいるから、嫁貰ったら?」って話になったんけ。だども俺は何も知らねぇじゃん。同じ大鳥でも、誉谷とはあまり接点なかったんだ。誉谷は分校あったからな。かかぁとは一級違いだはけ中学校なってからは一緒だったと思うけども、「この子良い。」とか「好きだ。」とか、何もねぇじゃん。何も知らねぇで爺さんから「来い、来い。嫁貰っていいねぇか。」って話が進んで…。俺が「うん。」って言ったかどうかは知らねぇが、あと結婚した。式はこの家でやったなや。昔は一番座、二番座ってあってな。最初は親戚たちを集めて、二番座は隣近所とか友達を呼んで、盛大にやったもんだもの。嫁入りの時は家の近くから歩かせてな。「どこそこで嫁来るとやー。」ってなるとみな道路さ出て、縄張って待ってるなやの。飴なんか投げるからそれ拾って。長男は大鳥で生まれたども、二番目は「お産、容易でねぇかもしれねぇ。」って産婆さんから言われて、落合の産婦人科に入院させて。そこで産まれたなやの。二番目は1月生まれで冬だからな、車全然あるけねぇ。子供は親戚のかあちゃんからおぶって貰っての。かあちゃんは人頼んでソリに載せて引っ張って来た。田沢まではみな歩き。そういう時代だった。
大鳥さいてもとにかく仕事。俺は仕事しか頭さねぇな。趣味ってねぇなやの。ナメコ作ってた頃だって4時頃起きて、懐中電灯持って山さ行って茸採りして。当時は大滝成型で働いてたからの。採って来て下ろせば親父と母親が処分してくれっから、8時半に十分間に合ったけども。都会さも憧れねぇし、ここが嫌だってこともねぇ。ただ、仕事辞めれば人間おかしくなるかなーって。それだけだ。気張ってるっていうか。また仕事行かねばねって朝5時半に毎日起きるわけやな。幸い、今は健康でな。「三浦さん、80なんてわけぇ。」って、みんなからたまげられてるんだや。それが取り柄くらい。健康と、みんなから信頼されて仕事して、「大したもんだ。」って言われるのが誇りだな。ただ、新しい現場に行くと新規入用ってのを書かねばねぇわけやな。『昭和17年生まれ80歳』って。それが嫌だ。今の現場は毎朝、年齢書かねばねぇわけや。他の人は20代、30代って若いのがいるわけや。年いってても60代。俺は抜群に年いってるども、仕事は誰にも負けねぇようにやってはいるどもな。やっぱり年っていうのはガンだな。あと、仕事辞めれば今みたいに鶴岡を行ったり来たりして大鳥さ来る予定してたから。身体が動くうちは田んぼをやられるだけやって。今は機械もあって労力掛からねぇ。草刈りもウイングモアで刈れば楽だし。仕事辞めればボケねぇ程度にのんびりと過ごす。ボケも困ったもんで、そうはなりたくねぇな。たまに会う人だと名前を思い出せねぇ。ぽっぽと出てこねぇなやの。
三浦健一さん 昭和17年10月23日生まれ 81歳
聞き取り日:2023年10月7日
文責:田口比呂貴