大鳥のこと

【大鳥 山の人生】工藤朝男さん

大鳥は長いこと鉱山があったっていうことで。昔、俺の父親の親夫婦が砂子淵ってところで熊を飼って。あそこで鉱山の茶店っていうかな、やってて。雪崩で鉱山が潰れて辞めるまで、明治の終わりごろから大正の初めくらいまで豆腐屋やってた。冬もソリ引いて野菜でも豆腐でも、食糧運搬とかいろんな小間物の運搬をやっていたって話も聞いた。

俺の親の親は、田麦俣から来たんだ。母親が松ヶ崎の家の分家。要するに本家で家族があんまり増えてしまって。俺がまだ生まれる前に分家みたいになって。兄と叔父と、その婆さんと爺さんと。だから子供はかなり大勢だったろ。その後、私の兄と父親と婆さんとが分家に出て。今度、大網から母ちゃんを貰って小屋を建てて。今の松ヶ崎の一番奥の、川沿い。今は林なってな。あそこに住んだんだ。そして子供が8人生まれたと。俺は次男だったけどもな。長男は家を継ぐために、学校上がってすぐ鉱山さ入って。どこの家でも兄こは鉱山に入れたんだ。田んぼとか山菜で生計立てた家なんて3軒か4軒でねぇ。俺覚えた時は24軒あって、その7~8割は鉱山。俺も学校上がってからちょこっと鉱山の支柱建替えの手伝いに行ったことがある。採用試験あったけどもや、まず5~6人受けたわけ。4人は受かって、俺は落ちてな。やっぱり昔から入ってる親父がいて、2代目がいればその人は優先的に入ったんだな。兄貴が入ってて、弟も入れられねぇ…ってわけでもねぇんだろうども。

小学校の頃は戦時中だったし。食べるものも大変な時代。米の飯なんて一日一回くらいしか食えなかった。配給も十分ではねぇんだ。5人いれば3人分とか。あとは何か食べろってそういう時代だったから。だから見たこともねぇ台湾からきた黄色い芋がな。あれは多分配給だ。山菜やキノコも勿論食べて。まず、あんまり美味くねぇのは大根飯とミズ。ミズは細かく刻んでご飯と一緒に炊いて。あと塩入ったくらい。サツマイモとかカボチャはまだ良い方だ。ナギノさ行けば、昼飯はサツマイモ持って。それでナギノの火で温めてそれで焼いて終わり。腹の足しにいろんなもの喰った。

糧飯でな、松皮餅ってあったんだ。松の皮。何の松皮だったかはわからねぇ。それが意外と美味いんだ。もち米はあんまり入ってなくて。松の皮が多いから。咥えて引っ張ると松の皮がグーっと残るわけ。あれが香ばしいっていうか松臭いっていうか。塩あんが入ってて…。それは鉱山の人から貰ったんだ。何年も食べた記憶あるあんやな。貰ったのをアクで煮て、叩いて出来るだけ粉にして。松の皮になる前の、やっこいところがあるわけだ。それを採って来てアクで煮て柔らかくして喰うと。

味噌汁もあったども、ソバも結構取れたんだな。ソバは山でナギノして作った。野焼きした後、最初にソバ撒くんだ。2年目なると小豆とか大豆とか。3年目は部分的だども粟。粟餅はよく食わせるっけな。あれ、刈るか抜くかしてぶら下げて、ある程度乾燥してから、筵敷いて叩いてふるいにかけて。唐箕があれば唐箕、ねぇば箕であおって。それを更に臼引きって蕎麦引くやつで皮を剥くわけ。あのちっちぇ中にも。実だけ残して、それをもち米と一緒に。で、餅にする。粟も、餅粟とうるちのウル粟って両方あるんだ。俺はあまり詳しくねぇども。そういうのが売ってるんだ。昔ウルとあれと間違えるなって言われたども、あるんだなぁって。

ナギノは、3年目以降はまず休めるな。また草木がある程度刈って燃やされるようになればまた使うと。そうすっとまた肥やしが増えるわけだし。再生できるわけ。そのためだろうと思うんだ。ナギノは共同で3軒とかや、隣組とかでやったほうが多いかもしれねぇな。ナギノをやってた場所は山ぶどうが凄くあるところで、毎年だほど採り行ったども、平らなんだな。山道があって、道の草も刈って立派にするわけだ。そこへ夏も秋も構わずにウサギ輪っか掛けて。たんぱく源がねぇんだから。ナギノして一週間かなんぼで行くわけだから、掛かってるわけだ。輪っかの掛け方はやっぱり親から教わっただろうな。

 

小学校5~6年生頃になるとイタチとかテンとか狢とか、罠掛けたんだ。学校さ行く前に、暗いうちに一人山行ってガバサミとか輪っかを仕掛けて。ウサギはちょいちょい獲れるけども、テンは獲ったことねぇ。昔は皮を、櫛引の丸岡の人が買い来るわけ。クギで止めて、何インチあるからなんぼだって。イタチの皮を5~6枚も獲ると良い金になるんだ。それは自分のお小遣いに。鉛筆やノート買うなんかは楽なわけだ。

山菜採りは、春からいえば、ウルイ、ウド、ぜんまい、角間っていうか青コゴメ、シドケとかミズ。今はあまり食わねぇども、ジョナな。今はジョナあまり人気ねぇからってこの辺では食う人もいねぇし、採る人いねぇ。食べるくらいだば俺の兄弟でも採ってきて食うっていう術がねぇってことはねぇんだろうども、採るのは俺くらいだっけな。キノコでもなんでも採って来て食べろうと。俺は卑しいっていうか物を食いてぇっていうか。親も採っていたども、物心ついて山菜が食われる、キノコが食われるってなればほとんど俺が採ってきたな。学校行くよりは良いと思ってな。

して、学校を1日2日休むと段々に行くのが嫌になるんだやな。しばらくぶりに顔出すような感じで。でも、俺の鉱山長屋に入ってた同級生が、毎日朝迎えに来るんだ。あれも感心だったなぁ。だどもあんまりにも学校さ行かなくて、学校から「あともう一週間こねぇと卒業されねぇぞ。」って言われて。俺は子守しねばねくてな。俺の2つ下に女の子いて、その3つくらい下に男いて、その下に女いて、その下に男いて。全部で7人。1人は一歳なんぼで死んだけどもな。兄貴は死んで10年も経ったな。俺が二番目で、三番目は女の子で日本大学に入ってや。その頃は親も金ねぇもんだから、大鳥湖にセメント背負ったり、百姓の手伝い行って米貰ったり、鉱山で稼いだり。俺もデッチさ行ったし。良い暮らしなんてもんじゃなくて、どっちかというと大変な時代だったと思う。

 

学校上がってから、松ヶ崎の家さ2年はいたんだ。赤川の杉の植林とか下刈りとか。植林したのはウーデイノとか、大鳥トンネル手前の右側。あと、中山の赤川山と国有林が混合したところだ。それは6ヶ月くらいしか働く当てがねぇんだな。要するに、常夫ってある程度決まってる。女5人、男5人って。その人は一ヵ月に10日か20日働いて。俺もその中に入って2年くらい稼いだな。

その後はデッチでかかぁの実家さ行った。俺がそろそろ東京行って職求めたほうがいいなって出掛ける頃。かかぁの兄が「明日から商売始めるから来い。」って塩辛を一樽置いてったって言うんだ。行ってはみたけども、あの頃は「魚屋をやる。」なんて言っても職人が誰もいねぇ。「魚をどういう風にはやすのかを覚えている人が誰もいないから鶴岡行って習ってこい。」って言われて。俺の知ってる業者さ行って。一週間くらいかな。それで帰って来て、それから4年半くらいいたかな。その頃は1年働いて7万円だか8万円。

最初は八久和のダム工事現場に店出して、2年間泊まり込みでいたわけや。そこさ豆腐屋と魚屋と八百屋が入ってて、俺は魚屋で入ってて。最盛期は2,000人くらいいたぜ。穴の中から堰堤作りから。だはけ、たくあん漬けがおっきな樽さ、1日6本来るわけ。トラックで仕入れてきて。あんまり食料がいっぱいでな。まぁ2,000人もいれば、んだやな。職人住宅って言うども合宿だな。職人だけで80人いた。それで、「今日、80人刺身です。」って言われると、あの頃は冷蔵庫もねぇんだし、短時間にやらねばねくて。「コックです。」っていう人はいたけども、それはご飯とお汁だけのコックでや。だから、1年ですごいスピードで仕事を覚えてしまった。でもな、あの時代はまだ物騒な時代で、ドスは持って来るわ、ピストルは持って来るわ。隣の長屋で人殺しがあったり。恐ろしいところに来たもんだと思ったっけ。冬は越冬隊って、それも80人くらいいるわけ。要するに雪下ろし。屋根が潰れないように。して、その頃は週一回だけ大針から索道で。牛肉なんていうと片足ベロっとぶら下がってたりや。会計ってなると2~300万入るわけ。万札がねぇんだ、ぶ厚くて。それを田沢まで届けねばねぇ。八久和から雪の上をな、春めいてからは八久和の峠からはどこでもいいからまっすぐ降りて。峠から1時間くらいで田沢まで走ったもんだ。ま、あそこはやっぱり別世界だ。良い経験もしたどもな。

八久和ダムが終わって、今度は大鳥の工事が始まったんだ。泡滝とか蘇岡とか。大鳥へ来たから東京行きは当分辞めて、かかぁを貰って。店を建てたって言うか、荒沢ダムの蔵みたいな家を壊して積んでおいた材を使って建てて、少し店らしくしただけで。あと寝泊りするだけ。まず、「この辺の工事終わるまでいて、またどっか行きましょう。」ってつもりだったども、段々居心地が良いって言うか。

 

その頃から近所の爺やがうちへ遊びに来てたんだ。呑んでおいて、「朝男やー。」ってうちさ来て。最初は酔っぱらいでめんどくせぇ爺やだなって思った。ところが酒呑まねぇ時はあんまり喋らねぇしな。で、鳥の声を聞いても、花を見ても声掛けをして。なんかこの人はわからねぇ人だなぁって思ったども、付き合ってみると馬鹿ではねぇから。なんか、動物でも草も木も、おんなじ、平らに見えて、話し合いできるような、なんか素晴らしい人だなっていうことで暫く付き合って。そんなに本を読む印象なかったけど、読んでるんだな。「この花見たことあるか?」って花を持ってきて俺に見せるけども、見たことない。「クルマユリ。これ山さある花だ。」って。俺もそれ確かめてみてぇなって山さ行って。群生ではねぇけども、すぐ道路っぱたにあったっけ。変わったモノだなって調べたんだろうども、それも考えてみると全て生活のために使う、あるいは売るとか、目的は一応あるんだ。今度はそれを採って来て家の鉢に入れて、花咲かせてな。俺も一本採ってきて植えたども、次の年は出なかった。お金になりそうなものは、そういう考えがあったんだろうな。だはけマムシを飼って増やすとかな。昔のタイル風呂って、左官屋がタイル貼った風呂桶さマムシ買ってな。いっぱい入れてや。でも、最後にパクってやられて入院したけどもや。

爺やはまず職を持たねぇもんだし、炭焼きするか猟をして。ウサギの皮が高く売れた時は野宿してな。バンドリ獲りも野宿。婆ちゃんがいたわけだども、「朝男や、おらいの爺や二晩来ない。どうなったろう。」って言うわけ。でもちゃんと帰ってきたどもな。それがどうやって野宿したかっていうと、雪穴掘って。カモシカの手を手袋みたいに作って。毛皮は、一枚は雪の上に敷いて、一枚は被って。して一晩暮らして。一晩暮らすっていうか眠くなったら入るんだろうども。そうやって暮らしてきたわけだ。炭焼きより面白いし、金になると。他の人はほとんど炭焼きやったわけだども、彼はあんまりやらない人なんだ。

 

俺が28~9か30歳の頃はナメコブームだったんだ。加工用で、山形から缶詰工場の連中とか間に入ってる問屋みたいなのがわんさか来たんやな。俺が繁岡に来た頃だからな。最初に店構えたのは25~6から30代。農協にもなんぼ出したかわからねぇけども。俺が集めるだけで、一晩で1トンという日が週に3日くらいあったかな。1トンって言えば昔で1キロ1,000円だからって100万だ。そういう時代があって。だから猫も杓子もナメコ植えねぇば馬鹿だっていうくらいブームだった。だはけって西大鳥では第一、第二って組合作って国有林の払い下げたな。営林署は組合でねぇば払い下げを受け付けなかったからな。東も第一組合はあってな。で、その爺やが「おらほも組合つくろう、お前組合長になれ。」って第二組合ができて。そして、あちこち払い下げして何年も植えたな。ところが今度、缶詰工場辞めてナメコが売れなくなった。そうすれば俺も辞める、俺も辞めるって。もっとも、みな年とったのもあったけども。

鉱山の炭焼きは手伝い行ったことあるな。石窯でなくて土釜。桧原の奥さ索道中継所があって、そこに窯があった。何しろおっきいんだ。梯子かけて上まで木を上げるはけな。それを鉱山に送るために。雪の上を150ⅿくらい背負っていかねばねぇ。索道の中継所は荷物の載せ替えができて。支柱の他に踊場があって、動いている索道の搬器にホイって載せて。電話もあるんだ。食べ物とか新聞とかが入ってる搬器さ印してごすわけ。縄をぶら下げるとか。電話がビッとなれば止めてくれる。運転席が寿岡の選鉱場さの一番上にあったわけや。そして、採鉱の近くの峰さ櫓が建ってるわけ。多分、索道が大抵見えるあんや。

しかしあれはよく作ったなぁ。あの測量を頭と目だけで作った索道。機械もレベルも使わないで。それがな。秋田で作った経験ある人で、目だけで作った索道だって。経験があったから出来たんだろうども。まぁ真っすぐは誰も出来るかもしれねぇが、大鳥の索道はあちこち曲がってるんだ。それと勾配がキツイとクリップって言って、ワイヤーに噛むように出来ていて。それが2つある。ここさ穴あった搬器が揺れるわけ。ミゾレみたいな日は搬器をワイヤーに噛ませるために手でおっつけてやるわけ。これが半端になると2つ噛ませるのに1つしか噛まないと勾配がついてると滑るんだ。そこなんてしょっちゅう滑ってな。だやな。ワイヤーの上滑るんだはけ。そして次の搬器にぶつかるわけだ。そうなれば多分向こうでもわかるんだろうども、2つか3つぶつかるんだ。それ見て喜んでたんけども。ほんとかウソかわからねぇけども、鉱山で選鉱する時に青酸カリ使うなやな。それが搬器にのってきて、滑って搬器にぶつかって川に落として魚が死んだって。

工藤朝男さん 昭和12年1月2日生まれ。
聞き取り日:2023年10月21日
文責:田口比呂貴