大鳥のこと

【大鳥 山の人生】工藤悦夫さん

俺は家で産まれたんだろうな。産婆はいたもんだっけろうかな。俺の学校時代は、分校あって。分校は枡形と繁岡、誉谷で、3つあったわけやな。冬はまったく分校生活。学校は、昔は遊びじゃねぇんだやな。イナゴ取って売ったり、落穂拾って売ったり。そういうもの買いにきたんでねぇろうかな。グラウンドなんて言えるろくなグラウンドはねぇけどもな。そこさ大の鍋かけてお湯沸かして。俺らがイナゴとか取ってくるの待っててや。学校の授業で、クラスごとに採ったんだかなぁ。あの頃は部活なんてねぇんだしそういう活動してきたわけや。その他は家の手伝いを頻繁にやってた。

俺の家は炭焼きではなかったども、同級生はみな炭焼きやってて。田んぼなんて食うくらいしかねぇわけや。年中炭焼きとゼンマイ採りして昔は生活してたんだろや。そうすっと、同級生は暇さえあれば炭窯さ炭背負い行ってたわけや。だはけ俺記憶にあんのはや、誉谷さ3人も4人も同級生いたんだ。その人がたは一週間も学校さ来ねぇ時があるんだっけ。今思えば、今俺がナメコ山やってる辺りまで、部落から歩いて炭背負い行ってるわけや。そして炭背負い行ったのは一週間休んでも学校休んだことなんねぇって。それも授業の一環として認めたかもしんねぇしや。うちは農家一本なんだ。だから、農家の手伝いはしたかもしれねぇけども学校休んで田植えだとかって記憶はねぇ。

 

部落の奥にあるおらいの田んぼはダム造った時の代替え地の場所で、あとは川向にも田んぼあったわけや。ダムで沈んだところも元々はみな田んぼだった。それで、田んぼの代替え地を貰ったけども、山もあちこち代替え地貰っているわけや。そうだはけ面積は結構あったわけや。山は松ヶ崎の上さ三反分ほど。そこは雑木で、親父と杉植えた記憶ある。とにかく昔はや、百姓したことねぇ人はわかんねぇども、それこそ山の上まで開墾して田んぼ作る時代。ちょこっとの平らと水があればすぐ田んぼだわけや。今ある畑もほとんどみな苗代や田んぼだったんだ。今はあちこちみな辞めて畑だどもな。昔は野菜より稲作りが主や。んだはけ平なところは米作って。傾斜でナギノして野菜、大根でもカブラでも作ったわけや。ナギノは夏から秋だな。自分の家のノゲナギって言う、ちょっと勾配あってナヤな場所があるわけや。やっぱり平らではダメで、勾配あっとこ。今は木もおっきくなったども、そういう場所を草刈って火つけて燃やすんだっけ。蕎麦、カブラ、大根、そういったものも蒔いて。あれも連作はダメで、2~3年に一回、場所変えてな。とにかく、俺たちの時代は生活しねばねぇんだはけ勉強どころじゃねぇわけや。

あと、昔はウサギなど獲ったって自分の家で食う。皮は売ってるわけやな。イタチだとかは昔の金で100円だったっけか。子供の頃は学校帰りにガバサミを道路端さかけて売ったもんだ。たまにテン獲れることもあったろうし、ウサギ輪っかも歩くとこさかけた記憶もあっどもな。獲るのは向きイタチや。6寸イタチ。あの頃7寸っていうと大きいくらいでや。それが高くてな。皮もみな自分で剥いたんだろうな。それは自分の小遣いばかりでねぇ。家さもいれたんだろうな。

中学校の頃は、春はゼンマイ採り。今は堰堤造ったども、あそこが学校林でみな杉林だったなや。道路から川端のほうが学校林で、道路から山手は炭窯が3つも4つもあるんだっけ。んだはけ、あそこは賑やかだっけぞ。学校林の下刈りさも行ってな。天気わりぃ時だったか、炭窯さ入った記憶あるんだや。あとはウサギ子捕まえてみたりや。春のちょうど下刈りする頃、子供らいっぱいいるんだはけウサギ逃げるとこねぇんだ。もしぃんだっけ。

 

昔はみな囲炉裏、焚火だろ。薪はや、うちの場合は山からも伐るども、川の流木も使うんだっけ。大水で流木いっぱい流れてきたのを、水が引くと部落で分けるわけや。こっからここまでは俺、こっからここまではお前、みたいにして。寄合の時に欲しい人あるかないか聞いて、割り振りを決めるのは部落の駐在員とか役員たちな。そうやって流木貰った記憶がある。その頃はチェンソーねぇんだし、手ノコで伐って。それを背中で背負って木小屋まで運ばねばねぇ。それをマサカリで割って乾かして。それが向き仕事だわけや。百姓して田んぼ植え付ければ一時休みなんだはけ、盆からまりは薪作りしてや。

あと、春になると林道の木な。東大鳥は泡滝線で大鳥湖の登山口まで、西大鳥は又口まで、冬に倒れた木とか落ちてきた木を分けられてたわけや。そして、なんぼ遠いったってもみなソリで引っ張ってた。今だば10ⅿも歩きたくねぇんだども、俺もソリ乗ったもんだ。それこそ二人乗りのソリも乗ったことあるし。とにかく昔は薪集めも大の大仕事だわけやな。

んだはけ、昔はみな小屋いっぱいに薪があったわけや。365日薪だろ。ガスも石油もねぇんだし。昔の人は「薪小屋さ、薪いっぱいある家は金がある。」って言ったもんだ。薪小屋さ「半分しかねぇんだば、この家は金ねぇ。」とかや。大きな小屋さ積まねばねぇんだはけ、いっぱいな量だわけや。でも、薪は良いもんだぜの。俺、段々に記憶あるようになってくっと、薪はいらなくなってきた人も出てきたんだ。金ある家は薪使わねぇんだや。だども俺は未だに薪取り一所懸命になってるわけや。石油、20万も30万も買えねぇんだはけ。まずこの辺はどこの集落もそうだかもしんねぇけど、昔は薪一番。木も伐れば植林しねったってもまたすぐ大きくなっさけ。山は、自然は良いもんだ。昔あれだけ伐ってもまた同じくなるんだはけな。すごい。ほとんどみな戻ってっじゃん。

 

俺は中学校あがると、営林署の林道の穴埋めの仕事をしたんや。林道は砂利道だろ。その修理。何人かいて、俺も日雇いで行ってたんだ。それは一年か二年くらいでねぇかな。覚えてるのは、親方が河原で青大将獲って、叩いて味噌で握って焼いて食わせるんだっけ。そして、あの頃は林業が盛りな時代でや。同級生3人と山さ仕事行ったわけや。頼まれて。あの頃でな、営林署が370円の日当の時、650円くれるって言われて山仕事さいった記憶あるんだや。もっともあの頃は金も欲しいんだし、10円も20円も高い方さ行ったわけや。それから木伐りの仕事が始まったんだ。

猿倉って山でや。チェンソーはおらだは最初の頃は無くて、山熊田の人が1台持ってて、彼らも大鳥さ来るようになったわけや。3,000ⅿのワイヤー張る索道技師は栃木から来るんだっけ。だども、ワイヤー張る場所を作るのにセンター伐採をしねばねぇわけや。最初にその仕事をさせられた。それはノコだわけや。俺の想い出は、ブナの木でもナラの木でもみなでっかい木だろ。硬い木だば伐るに大変だし、やっこいサワグルミの木だば楽だかと思って向かったんだ。ところが伐れねぇんだや。しぶくて。繊維みたいなモサクサっていうのが出てきてや。3回も引いたば締まって引かれねぇ。そして1日掛かって伐り余した記憶ある。木がやっこいはけ簡単に切れるかと思ったら、大失敗。チェンソーは機械だはけ切れるども、ノコは全然だめ。

あの時代は、素通りの良い木は用材にして、悪いのとか細いのはみな紙にしたんや。んだはけ、秋田の十王製紙だっけかな。チップしてパルプして、あと溶かして紙にする。昔林業最盛期の頃、鶴岡の駅俺たちが出した丸太でいっぱいなんだっけぜ。あと大鳥からは天下の日本通運が駅まで運び、そこから鉄道で。仕事も厳しくてな。休みは1日と15日だけ、あとは飯場さ泊まり込み。飯場は山の上さ小屋掛けて。小屋は立派だけども、敷布団替わりに柴敷いてや。昔はマットレスもねぇんだし。家から稲藁のクズを平らに入れて作ったコモヅ。柴の上にそれを敷いて、その上にせんべえ布団を敷くわけや。コモヅ布団、最初はフカフカって良いんだ。だども段々に使ってるとビタっとなってしまって。でも良いんだっけ。あの頃はなぁ、7~8人くらい泊まったろか。飯はほれ、索道動けばそれでみな上げるんだ。新潟地震あった時など、凄いっけな。あれも忘れられねぇな。集材機の小屋で昼寝してた時でねぇっけかな。山が波打って。あと小屋から出はって見てるしかねぇわけや。よくあの時索道だかし壊れなくて、良かったっけ。索道の支柱倒れられると大変なんだ。

木伐りの資格取って。あの頃の重機、大型特殊も。この辺では誰も取らないうちに取ったんだはけな。土場を設置するのに現場にユンボ―、一回入れたことあったんだな。「こういう仕事するのに必要だから。」って取らせられて。あとワイヤー張る資格。1,500ⅿまでは俺もワイヤー張られる。3,000ⅿとなるとまた特殊だわけや。木を運ぶ時にたわむ。ビンと張れば当然切れる。その計算が凄いんだや。中央の下がる計算の仕方とかや。あれも苦労したな。ワイヤーの太さもあっしな。ワイヤー張るのも、最初は細いロープとか細いワイヤーを100ⅿくらいずつ背負って山を上がるわけや。そういう仕事が大変だなやっぱり。だはけ手間賃は一般の人よりは良かったんだ。危険手当もあるわけだども、それにしても安いわけや。木伐りの仕事は30年はやったろうな。20歳から50歳まで。何年かは冬も木伐りしたな。米沢さ一冬。もう一冬は加茂から油戸にかけて細い木伐った記憶あるな。海岸端の山さ行って、何年か木出しした。すごいんだっけ風。降りるに降りられねぇわけや。ほいで、降りる時は急だども、上さ行ってみると割と平らな林だわけや。あの時は鶴岡に家がある時だはけ、むき鶴岡から通ったな。

あと、50年も前だども、大鳥の発電所のトンネル工事も冬だけ。熊谷組の吉田班っていう下請けで、2冬行ったな。それはちょうど土捨て場があっとこで、ズリを出すトロッコの運転手したもんだ。トンネルの中のズリ積んだトロッコを外さ引っ張ってくるわけや。そして、その繋がりで出稼ぎ。相模湾ってあっぜな。そこの水を東京都さ引く工事をやったんや。あとは大鳥で発電所仕事の直営。今、大鳥振興でやってるようなこと。でも、自然の家さも12年間いたはけ、ブランクあるわけやな。自然の家はもっと若い時でねぇっけかな。50前の時だか。山でいっぱい仕事してわからなくなった。そうして稼いだ金で鶴岡さ家建てたんや。建ててから40年もなったな。今は倅が住んでっじゃん。今は新興住宅地になったども、あの頃は田んぼしかなくて。都市計画書見たば、そこさ中学校と小学校が建つ計画あって。だから土地を求めたわけや。して、子供らも中学校から鶴岡さ行かせる勘定しったんや。でも、「中学校は朝日にいてぇ。」って言うもんだし。どうもなんなくて朝日さ置いて。高校は当然、鶴岡さ行かねばねぇじゃん。んで高校から住ませて。大ばあちゃんがその頃行ったり来たりしたんや。子守りしたり。

林業辞めてからは今度鶴岡の外内島さあった鉄工場さ行った。そこは何でも造るとこでや。建物の鉄骨もやるし、農機具も集材機も修理するところだわけや。木伐りしてた頃に集材機壊れるとその親父も頼んだりしたろ。そういう事もあって鉄工場さ引っ張られたわけや。だはけ、集材機のオーバーホールもさせられたもんだ。今はみな部品注文して買う時代だろ。あの頃は親父が旋盤で部品造って。解体して洗って組み立てて。減ったところは肉盛りして。みなサンダーで仕上げて、ペンキ塗れば新車なんだ。そこでも資格、あまりいっぱい取らせられて。電気も高圧、低圧あるろ。それから溶接は立付。立付は国家資格なのや。移動式クレーン、天井クレーンも取ったし。でも、さすがに設計の資格は取らねぇ。書き方は習ったけども資格は取らねぇでしまった。その頃は『職を身につけねぇばダメだ。』ってよく言われんだ。そういうのが昔は凄く強かったのやなぁ。今でもそうかもしれねぇけども。その後は板井川さ鉄骨の建物専門の会社ができて、引き抜きされて。ほいで、ろくに仕事しないうち潰れてしまったわけや。10年くらいは鶴岡さ通ったかもな。その頃は夜8時まで残業して、家さ帰って来てから投光機つけて屋根さ上がって。雪掘りや。そうやって、なにかかにかして80年生きてきたもの。

工藤悦夫さん 昭和18年9月3日生まれ
聞き取り日:2023年12月18日
文責:田口比呂貴