大鳥のこと

【大鳥 山の人生】工藤あき子さん

兄弟は4人いた。おれは長女で、2番目は倉沢の実家。3番目は埼玉。4番目は鶴岡。学校は大泉小中学校行ってたども、当時は荒沢、鱒渕、大平、松沢に分校あったなやの。4部落は冬は分校で、夏なると大泉さ来るんだっけ。3年生くらいからは夏も冬も一緒でな。学校から帰る時も各部落ごとで、学年一緒の人と一緒に帰って来たもんだ。倉沢橋ってあの長い橋の上ってすごく風吹いてな。その頃は蓑帽子被って、フカグツでなく、長靴だっけ。

学校上がってからは、倉沢の男どもと遊んだんだ。冬はスキーだっけな。木のスキーさ長靴で入れて縄で締めて履くんだっけ。スキー大会ってなるとちょっとした倉沢の山さ行ったもんだ。おもしろいんだっけな。みんなで山登ってスキー乗って。あと田沢の中山でもしたっけかな。夏は、食べるものそんなねぇんだし。おらいの家の川向うの山さ桑の実が凄くあったなや。そこさ採りに行こうって採ってきて。焚き物入れておく小屋のことをキニュって言うんだども。そこが隠れ家でや。桑の実を手さたがえておいて、ジャーっと手で絞って飲むあんのもうめぇもんでや。外で遊ぶ時はペッツってメンコな。丸っこいあんを板さ落としてペンっていわせっと。炭小屋でかくれんぼもした。みな男と遊んだんだ。おなんこと、って記憶ねぇもの。倉沢さはおなっこが少ねぇもの。年近いのはいねぇかも。

遠足も行ったな。池の平さも行ったし、小学校の時は勝岡橋で芋煮会したことあんなやな。今の橋渡る手前辺りだっけかな。それとは別だども、小学校の時、弟長男との思い出だぞ。勝岡橋は今みたいに立派な橋でなかっただろ。そこでや、靴を川さ落としてしまってや。流されてしまって。困ってしまったことあったな。

 

親の仕事は春秋は百姓もだども、冬は炭焼きだっけっちゃや。手伝うってほどしたことねぇけども。冬、父親をぼっかけて山さ行って炭小屋さ泊まるのが凄くもしぇくてや。何したわけでなくて、炭小屋の雰囲気が好きでや。囲炉裏あって火焚いて。グルっと囲んでいられるようにして。あそこが好きでいたんだ。子供の頃はおれ、いっこ家の手伝いってしねぇ子だもの。“姉こ”なんだはけや、爺さん婆さんがおれのことなんぼもめんごくて。特別扱いなんだとや。親がちっと「わりぃ。」って言うと、爺さんが親のこと「わりぃ。」って言ってたらしいんだ。爺さん婆さんがおれさカッパ買ってくれたりや。そういう風だはけ、「我がままに育った。」ってずっと言われてきたな。未だに威張ってるって言われる。

中学校なってくっと、遊ぶより部活あるんだっけっちゃ。おれはバレー部さ入ったんだ。バレー部の先生が山口先生ってや。試合しても負けるあんだっけどもな、「負けても悔しがんねぇ人たちだ。わりぃ!」って言われて、箒で叩かれたもんだな。悔しさ知らねぇ人だって箒で叩くあんぜ。厳しいけどおもしぃ先生だっけ。その頃はバレー部と野球が凄く盛んでな。部活で遅くなっと、野球部の人たちがおれとこ待ってて一緒に帰ってくる。んだはけ今でも付き合ってはいるけどもな。お世話なったんだ。

高校さは行ってなくて。中学校上がりは鶴岡の農家さ行って百姓の手伝いした。昭和38-39年頃だな。“メラシ”って言ったども、まずは奉公じゃんの。近所の人の姉が行ってたんや。そういう影響で行こうってなったんでねぇかな。その農家ではメラシはおれ1人だけ。おんなじように同級生3人もメラシさ行ったども、みな別々の家さ行って。苗取りだかしはしたようだ。耕運機もあったようだな。鶴岡はこの辺の山とは生活はやっぱり違ってるろな。田んぼもおっきいし、畑がいっぱいなんだ。食べ物だかしはなんにも不自由なく食わせっけし。あの頃は青年団ってあったろ。それさ入ったんだはけ、すごくおもしぃんだっけ。みんなでサイクリング行ったりしてな。

 

大鳥さ来たキッカケは大鳥の人の紹介でな。18歳で嫁に来たんだ。4月10日に来ました。あの頃は茅葺き屋根だっけな。昔は除雪ねぇろ。だはけ道が歩けねぇんだっけ。4月なんだはけ、周りは消えて真ん中は残るなや。硬いんだはけ。おれが来るために夫が道の雪のけをしてくれたんだっけな。倉沢さいた時には上田沢の寺のかあちゃんが縫物を教えるんだっけ。冬は習ってきたども、縫いるようなものではねぇろや。で、大鳥さ来ても冬は何もねぇんだはけって児童館に裁縫しさ行ったんだ。その頃は和裁を教える人が鉱山さいてや。浴衣縫ったり、寝間着縫ったり、お客用のもの縫ったり。裁縫習い、何年もしたな。裁縫さ興味があるとかねぇとかじゃなく、村のおなごしょはみな行くんだもの。冬はやることねぇわけや。みんなの集まり場所がそこだったっけ。でも、よく行ったぜな。「みんな行くはけ、行くか。」って行ったと思う。でも、ビュービューと風が吹いたり雪いっぱいな時はねぇっけ。

おらいの田んぼは山とか村外れとか、川向うさあるんだ。もう雪が消える時になると雪穴掘って、その頃は牛飼ってるんだはけ、その堆肥を田んぼまで金ソリで引っ張って。爺と一緒だったかもな。雪が溶けてからは耕運機で田起こし、苗作りやな。田んぼの中心は爺さん。でも、爺さんはおれより耕運機の使い方下手でダメだっけ。土手さ乗り上げてや。あの時はイセキの耕運機買ったな。「おれ来たから、耕運機買った。」って言われたなや。籾背負いもや、おれ力無くて一人で背負われねぇわけや。そしたらちゃんと見繕って、『背負って下さい』って。背負わせてもらわねぇば背負えねぇんだし。馬には荷物つけてくれるろ。だはけ、「馬と同じだ。」っても言われたな。

山でナギノもするっけ。清水がある辺りだっけか。小豆蒔いたり。あと、おらいの山の田んぼの上はカヤ刈場。その頃はみな茅葺き屋根だはけ、カヤ刈ってあそこから運ぶんだっけな。ナメコも植えて、いっぱい出たとこ採るのは好き。ナメコが盛りの時は採って、帰って来て、うるかして、根っこ取って、ってやってると夜中の1時もなるんだっけ。それからまた朝起きて、茹でたりして。また茸採り行って。何年も行ったな。すんごいっけぞ、いっぱい採ってきて。ナメコ御殿だかって言われたっけちゃや。あの頃はナメコ売ると金入ったんねぇ。ドリルもなくて、ハンマーで叩いて叩いて…。

 

大鳥来て間もない頃は、夫が赤川土地改良区で働いてたんだ。その関係で「赤川さ行け。」って言われて、植林したとこの下刈りしたり、地拵えしたり。そういう仕事した。地拵えってのは、木伐ると枝とか葉っぱ残ってっちゃ。それをあちこち集めてみな綺麗に山作って焼いて。そうやって片付けてから苗を植えてな。して、おれは鎌の研ぎ方も知らねぇろ。赤川で働いた村の人で年行った人がいるんだし。「されねぇ。」って言うとや、「持って来い」って言って昼休み研いでくれっけ。

子供は2人いたども、下の子は児童館さ行くようになるまではヨソの家さ預けて子守して貰ってたんだ。おれのこと働かせねばなくて。普通は婆さんが子守するろ。そういうことが嫌いな婆さん。だはけって俺のこと「休んで子守しろじゃ。」とも言わねぇし。夜は連れてきて。そういう家は他にいねぇっけな。俺23歳の時だもの。夕食も婆さんはしねぇっけな。ご飯支度が好きでねぇ婆さんで、みな俺がやってた。

下刈りや地拵えは何年位やったろな。赤川が合併したっけちゃ。それまでだかも。その時、辞める人は辞めて。何人か残ったんだっけ。年寄しょと、おなごも数人いたかな。おれは辞めて、マルミチ砂利さ行った。スカウトされたわけや。プラント作って砂利運びする業者だどもな。その頃は西大鳥でスーパー林道作ってて、その砂利運んだんだな。マルミチが来たお陰で川向こうさ道路出来たはけな。ありがてぇことではあっぜな。最初はプラントまでの道作るために木伐りから始まった。おれと河合の爺さんと二人でや。木の伐採、チェンソーでなく手でだぞ。ほして、家から歩いて行かねばねぇから昼休みも帰ってこねぇろ。その爺さん、いつでも堰さアヒル飼ってる家でや。アヒルの卵、おっきいろ。あれを茹でて毎日持って来て「けぇけぇ。」って言うんだっけ。俺はとても食われねぇっけ。缶詰持ってきておいてそれと食ってるんだっけ。そのうちに重機も来てな。水入れるところとか重機で掘ってたっけ。大鳥の人もだいぶ稼いでたな。おなごしょも5人くらいいた。そして今度は「中さいて伝票書きしてろ。」って言われて。ほら、砂利持って行く人が伝票持って行くろ。それで、プラント出来るまではバスがあってな。バスの中が事務所で。後からはプレハブ建てたけどもな。

マルミチの仕事終わってからは田沢ニットさ行ったな。仕事はアサヒニットの下請けで、トレーナーとかTシャツとかポロシャツとか。裁断して持ってくるのを縫製して。その会社、しばらくやってたんだども、働いている人で孫が出来たりして。子守しねばねぇ人が出てきて、段々に人少なくなったんけ。そこで辞めましょうってなった。その後は別の会社でムニュムニュって人形作ったんだ。最初は一か月間に三瀬さ見習いに行ってな。ムニュムニュの会社。あそこさ工場みたいなちっちゃいのあるんだっけ。

 

山菜採りは爺さん婆さんがしなくなってからするようになったな。爺さん婆さん、「しろやー。」って言わなぇんだっけもの。わでするんだもの。大鳥振興さいた時はや、昼休みにワラビ採りさ行った婆さんが「ワラビ背負い来い。」って言うんだっけ。昼休みだはけいっぱいは背負えないけども、行ったことある。

栃作りは10何年やってきたかな。栃剥きも婆さんに習ったわけではねぇなや。婆さんが丈夫な時は自分1人でやるんだっけ。いよいよ出来なくなってから、見様見真似で始めた。人から話聞いたりや。栃剥きはまず、鱒渕の人に聞いた。それと、おれは年寄しょと“ぼんぼ”の風呂入り行ってるろ。そこさ栃を作る人がいるんだはけ、「栃はどうして煮ればいいや、アクはどのくらい入れればいいや。」って聞いてきて。段々に良いやり方になってきた。栃剥きも休みの時やりやりな。前は自家用で量も少なかったけどもや。年末の餅とかや。今は100kgもするようになった。いっぱい拾ったら売ったりしたけどもな。拾うのは夫。

大鳥では草餅さ、今はヨモギだども前は“ゴボッパ”入れたろ。赤川土地改良区の仕事で下刈りしてた時、山さゴボッパあんなや。みんなゴボッパ採って、背負ってな。競争でや。あちこち行って採ってきた。大鳥の人って山さ行ったら何かかにかは背負って帰るんだっけな。“アカザ”ってあるろ。それは牛の餌にするために背負うんだっけ。それが無くなったと思うとや、杉の枝あるろ。それをちょうど背負い良いように切って、それを焚き物に背負うんだっけ。俺もしいねぇったって真似しねばねぇ。どこからでも背負うんだっけな。大鳥しょは空身では絶対帰らねぇ。それを真似して背負うのは大変だわけや。歩くあんも精一杯。でも、身体は丈夫な方ではあるんだ。それにしても夏バテはするんだっけ。あと怖くて歩かれなくなる。そうすっと「熊の胆を飲め。」って。熊の胆飲ませられながら歩かせられた。

熊肉は食わねぇどもな。猪も食わねぇ。ウサギはここさ来るまでそんなに食ってねぇども、ここさ来たばほら「ここのモモけぇ。」って、ごすわけや。そうして段々に食われるようになった。昔はウサギいっぱい獲ってくると、一口サイズにみな切ってな。しょっぱく味噌で煮て、ちっちゃい甕に入れておくんだっけ。当時はごっつぉねぇんだはけ、それ出して食うんだっけ。あれが美味いんだ。ウサギ、7つ獲ってきたときはおもしっけな。

 

大鳥の自然ってや、若い時はいっこう感じたことねぇな。それがや、ある日突然。勝岡橋のとこさブナの木わらあるっちぇ。『あれ、大鳥の新緑って凄いとこだ。』ってこの時から思った。それから、山を眺めていると『桜咲いてきた』とか、『ダムの綺麗なとこだなぁ。』って。年いったら感じるようになってきた。そんなこと、前はひとっつも思ったことねぇもの。みんな「大鳥って良いろ!」って言うども、良いと思ったことねぇあんや。だはけ、「おれ、今日から大鳥の良さがわかってきた!」ってみんなに言って聞かせたんだ。

ブナの木のトンネル通って勝岡橋の向こうの山見たら、雪があって新緑があるろ。あれが忘れられない。スマホのカメラがあれば撮るけども、あの頃まだ無かった。あんなに思ったことねぇ。勝岡橋のお陰です。ブナの木のトンネルを通って、初めて大鳥の良さがわかった。それから山見るようになった。ほんとで。あれだけだな、大鳥さ来て初めて思ったのは。


工藤あき子さん 昭和21年10月19日
聞き取り日:2024年1月15日
文責:田口比呂貴