
大鳥 魚類調査《近代以降の河川の変遷と魚種の変化》
大鳥は赤川の最上流にある地域。集落のすぐそばに綺麗な川があり、潜るとたくさんの魚に出会える。この環境は当たり前ではない。少なくとも大阪や神奈川に暮らしてきた僕はそう思う。ただ、川は年に数回水浴びするくらいの関わりしかなかったが、2024年夏に友人と大鳥の魚類調査した。地域の人から「昔はもっとたくさん魚がいたんだ。」という話を聞いたり、魚好きな友人と川で遊んだり、次々に砂防ダムが出来ていくこと、集中豪雨が増えている中で、川の変遷や魚に興味を持つようになったことがキッカケで、調査をすることになった。本文では大鳥の気象状況や河川に関わる歴史、今回の調査内容、過去に聞き書きしたことをまとめてみた。僕の知見が狭く、十分にまとめれなかったのが正直なところではあるが、もっと知りたいと思うのも確かな感触だった。良ければゆっくり読んでみてください。
第一章 大鳥の自然環境
薬研沢から望む荒沢ダムと大鳥地区
山形県鶴岡市大鳥は標高約270m、鶴岡市街地から南へ40㎞離れた流域の最深部に位置し、南には朝日連峰を背負い、西に新潟県境、遠く東には月山がある。山の多くはブナ林で、ツキノワグマやカモシカが棲み、豊富な山菜や茸、木の実や魚など、自然の恩恵を受けて約800年間続いてきた集落である。
大鳥を流れる大きな川は東大鳥川、西大鳥川、桧原川の3本。いずれも荒沢ダムで合流し、一級河川の“赤川”へと呼称が変わる。東大鳥川の水源は以東岳や化穴山といった南側の新潟県境に接する山々で、荒沢ダムに至るまでに大小さまざまな沢が流入している。主たる沢は立谷沢、矢吹沢、チウノ沢、猫渕沢、大葛城沢、皿淵沢、西ノ俣沢、冷水沢、源太沢、七ツ滝沢。以東岳の麓には大鳥池があり、渇水時には水門を上げて庄内平野の水田を潤しているが、元は天然の堰止め湖であった。西大鳥川と比べて川幅が広く、皿淵沢より下流にはあちこち河原があるが、大水ともなると河原を埋め尽くすほどの水量になる。東大鳥川水系の岩は主に花崗岩で、河原は白い。
西大鳥川の水源は枡形山、重蔵山、大鳥屋岳といった山々で、開墾できるような平地は少なく、渓流と呼ぶにふさわしい。主たる沢はトノガ沢、枡形川、大倉沢、ウグイス沢、ワカメ沢、岩魚沢、鰍沢、カミノコ沢。安山岩系統の岩石が多く、川の石は黒色ベースである。かつて銅・鉛・亜鉛等を採掘していた大鳥鉱山、大泉鉱山は西大鳥川流れにあった。
桧原川の水源は西側の新潟県境に接する山々で、この流域沿いには集落がない。主たる沢は小荒沢、一ノ俣沢、二ノ俣沢、三ノ俣沢、小滝沢、カスゲ沢。農業用水や洪水被害といった生活への直接的な影響はないが、ザッコ釣りや山菜・茸採り・熊狩りといった生業場所として桧原川は利用されてきた。木材搬出と杉植林のため昭和40年代から林道が開かれたが、それ以前は松ヶ崎集落から山越えをするか、荒沢ダムからボートで桧原へ行くことが普通だった。
<ブナ林と杉林>
集落周辺の山は落葉広葉樹のブナ林、雑木林をベースとし、河畔にはサワグルミやヤナギが生える。人々の営みの中で炭焼きや木流し、薪木としての集落周辺の雑木伐採が繰り返し行われてきたが、戦前には鉱山の製錬需要や労働者の薪木需要、戦後には紙需要拡大によりパルプ用材として国有林のブナ林が多量に伐られてきた歴史がある。集落周辺、林道沿いに広がる杉林は主に戦後の拡大造林によって作られた景観である。
<降雨>
雨量に関しては大鳥の過去データ取得に限界があったため、気象庁で観測している荒沢ダムのデータを参照した。大鳥から遠くなく、天気の傾向は似ているので十分参考になると思う。過去45年分のデータを見る限り、年間の総雨量は徐々に増えており、1日・1時間当たりの雨量も、20㎜以上の降水量日数も増えている。
<積雪>
大鳥の最大積雪量は平均して200~300cm。積雪は12月下旬~2月中旬に集中する。過去18年間で1㎝以上の降雪日数は平均60日。「昔のほうが雪はいっぱいだった。」と古老が語る通り、最大積雪量も累計積雪量も10㎝以上の積雪日数も微減傾向にある。とはいえ、大幅に減っているわけではない。半世紀前までは道路除雪や重機排雪が無く、毎朝隣の家まで雪踏みをしたこと、茅葺き屋根をスコップで掘っていたこと、屋根から落とした雪をスコップで掘り上げて軒先をあけるなどをしていた。子供の頃は電線を跨いで学校に行ったそうだが、電柱が木製で今より随分低かったので、雪が高く感じていたかもしれない。天気予報も精度が高くなく、数週間先の見通しが立たないことで雪下ろしの回数も多かったかもしれない。重機除排雪がある現代と比較すると、日々の克雪にとても苦労していた。
最大積雪量が平年並みでも断続的に降り続いて雪の処理回数が増えると、“体感値としての雪の量”は増えていく。軽い雪が1ⅿもドサッと降って、その後2~3日晴れたりすると、最大積雪量は増えるが雪は次第に低くなり、「雪処理も1~2日頑張ればいい」という感じに。それより20㎝の降雪が5日続くほうが精神的にも体力的にも辛い。データだけでは体感値は測れない。また、令和元年と令和5年は100㎝前後と極端に雪が少なかったが、昭和47年、53年、平成元年、3年、4年にも似たように積雪量がとても少ない年があったことも補足しておく。
12~2月は積雪期、3~5月は晴れ間が増え、6月下旬~7月と11月は雨が多く、9~10月には台風の影響を受けることもある。過去20年間の統計で、特出して6月27日と7月28日は毎年のように雨量が多いので気を付けなければいけない。“晴耕雨読”と言うように、雨や雪は人々の生活や生業を制限する。あくまで個人の主観だが、梅雨の長雨は「過ぎれば晴れ間が続く」という気持ちでいられる。一方、11月中旬から雪が降るまでの長雨期間は、樹々が落葉し、日々寒くなり、冬囲いで家の中が暗くなる。さらに「これから長い冬で活動が制限される。」という自然要件が重なり、精神的に明るくなりずらい。豪雪地帯で生活するのは容易くはないと思う。
過去18年間で2mm以上の雨が降った日の平均日数は140日。2㎜以上とはいえ、「今日は1時間に2㎜降って、あとは曇りと晴れ。」という日もあるから体感的には140日も無いのかもしれない。また、『何ミリ以上降れば雨の日』という定義が無いため、仮として2㎜以上とした。140日のうち梅雨は平均42日間で、6月中旬~8月初頭の間である。
年間の雨と雪の合計日数は約200日となるが、体感的には180日程度だと思う。過去20年間の傾向に目立った変化はないが、近年では雨季に線状降水帯による大雨の発生と、冬季間の雨が増えている。海面温度の上昇が影響しているのかもしれない。
<風向>
雲の動きをずっと見ていると、大鳥は1年を通じて西側から風が吹く。冬季間は西から北西、春~秋は北西~西~南西の風が吹く。東や南の風は1年で恐らく数日しかないと思う。雨が降る時は大鳥からやや北西にある摩耶山から荒沢ダム・大鳥へと雨を降らせるので、大泉では曇っていても大鳥では雨ということがよくある。
西風が多いが故に、冬季~早春の雪崩は稜線の東側でよく起こる。日本海側からの吹雪は南北に伸びる摩耶山地を駆け上り、稜線から東側へと吹き下ろすので、稜線の東側に雪庇を形成し、その下の斜面で雪崩が起こる。南北に延びる摩耶山地のいずれも東側は標高1000m以下にも関わらず急峻なのはこの雪崩浸食地形のためである。西大鳥川に沿って山腹を切り開いた “朝日スーパー林道”は稜線の東側に道路があるが、毎年融雪期の雪崩や落石、土砂崩れ等で林道の除雪・修繕が難航している。ここ数年は全面開通されていない。大正期には大鳥鉱山の労働者やその家族154名が雪崩によって亡くなる悲惨な災害が起こったが、現場は、まさに稜線東側に形成された鉱山集落であった。
第二章 河川の変遷
作:田口比呂貴
現在の大鳥には水力発電所があり、集落周辺の沢に砂防ダムがあり、荒沢ダムがあり、護岸工事が施されている。現代的な治山治水施設によって大鳥集落が水害から守られてきたことは事実だろう。昭和40年代までは10年に1回くらいのペースで集落内に浸水被害があり、橋が流され、護岸が決壊していた。その後も林道の浸食や土砂崩れ等は繰り返し起こったと思われるが、調べた限り集落に大きな被害が無かったと思われる。大鳥では令和4年8月3日豪雨が記憶に新しく、墓地に土砂が流入する、林道が大幅に削られるなど多くの被害を受けたが、砂防堰堤や護岸工事がなされて無ければもっと悲惨な状況になっていたかもしれない。
灌漑用水として大鳥池に水門が設けられたことも大きな出来事であろう。昭和9年に完成して以来、水門の更新を重ねながら渇水時の庄内平野を潤してきた。工事の過程の中で泡滝線が少しずつ整備されていくど同時に、土砂崩れや大水による浸食を防ぐ工事も増えていく。昭和12年には皿淵沢で大規模な土砂崩れが起こった。皿淵沢の河口付近にあったセメント置き小屋(大鳥池の水門工事の際に使用)が土砂で埋まってしまったそうだ。翌年に皿淵沢の奥地に砂防堰堤が3基建てられた。左京渕堰堤も、いつの時代かわからないが随分昔からあるようだ。昭和40年頃には水力発電所が完成し、取水口が3つ設けられた。川の水が長い鉄管路を通って発電に使われるようになり、集落周辺の川の水量は減少している。真夏に河合橋から東大鳥川を眺めると、川というよりも“白い石”といった方が印象として正しいのかもしれない。昭和61年からは赤川直轄砂防事業が始まった。大型重機を運ぶために荒沢・笹根・大鳥隧道がトンネルへ変わり、東大鳥川・西大鳥川の本流や大きな沢、集落周辺の沢に砂防堰堤が造られるようになった。
河川の姿は大きく変わっていった。部分的ではあるが川が直線的になり、砂防ダムの上流も下流も川幅が広がって土砂が堆積し、河床が上がった。「河合橋下はもっと深かった。土砂で河床が上がったんや。」と大鳥の古老は語る。蘇岡発電所の上流にある東大鳥川砂防堰堤の下は、地元で“フカアナ”と呼ばれる場所で、昔はカジカ突き場だった。昨年、カジカを探しに潜ってみると、石が半分砂に埋まっているような状況で、魚や虫が隠れられる場所がない。カジカもタキタロウ橋の下あたりで2匹見ただけだった。大鳥の古老が曰く、昔と今では魚種・漁獲量ともに大きく変わったそう。半世紀ほど前までは集落近くの川や沢でもイワナやカジカ、ウグイがウジャウジャいたと大鳥の人たちは口を揃える。荒沢ダムが出来てマスは大鳥へ登れなくなり、カジカも少なくなったよう。アカザもいなくなった。一方でオイカワは昭和初め頃に琵琶湖産の稚鮎を購入・放流する中に混じり、現在も大鳥の川に生息している。大鳥池のヒメマスも、元々いたわけではない。大正期に青森県十和田湖から幼魚を放流したのが始まりで、現在も赤川漁協組合によって放流事業は続けられている。環境の変化や放流によって魚種は変化してきた。ただ、12月に塩マスを買ってきてなれずしを作る風習が大鳥に残っていたり、昔はいなかったニジマスを刺身で食べていたりと、大鳥の生活は過去と現代が交じり合っている。
作:田口比呂貴
第三章 大鳥の川を泳ぐ魚たち
昔と今で大鳥に生息する魚種に変化があったかどうかを調べるため、大鳥の人から聞いた“過去にいた魚種”を元に調査を行った。調査には川魚の調査が得意な友人2人に協力してもらい、魚類の捕獲と魚種の特定をお願いした。
調査方法: 捕獲:投網、サデ網、タモ網
目視:潜水、陸上からの目視確認
調査場所: 桧原川河口、東大鳥川、左京渕ダム下、猫渕沢河口、
東大鳥川ダム(エガケ堰堤)下、倉下池、倉上池
<調査の様子>
ナマズ
カジカ
ドジョウ
ヨシノボリ
カジカ
カマツカ
スジエビ
アブラハヤ
フナ
オイカワ
テツギョ
<調査結果>
作:オフィスカッケン
大鳥の人たちから聞いた魚種の中で、イワナ、カジカ、ハゼ、ウグイ、カマツカ、スナヤツメ、オイカワ、ドジョウ、エビ(ヌマエビかスジエビ)など、大鳥の人たちから聞いた魚類が現在も大鳥川流域にいることが確認できた。テツギョは大鳥の人から聞いたことがなかったが、大鳥の人が池に放したフナが自然の中で変化したのかもしれない。
一方で、ニジマスやアユ、マス、ワカサギ、ゴウバチ(アカザ)は確認できなかった。ニジマスは“南支所文書”に保管されている赤川漁協組合の資料を見ると、昭和29年、32年に飼育したい人向けに朝日村立岩孵化場から分譲される旨の資料があるが、当時から食用として堀などで飼われていたのだろう。10年ほど前に、大鳥の人の堀で飼われていた大きなニジマスを刺身で頂いたことがあったが、とても美味しかったことを覚えている。2020年頃に松ヶ崎橋の下で見たことがあったが、それは恐らくタキタロウ祭り等の催しで魚のつかみ取りをした際に逃げたものだろう。アユについては“南支所文書”に保管されている赤川漁協組合の資料を見ると昭和28年に繁岡や荒沢ダム下の集落で捕獲されていたが、前後の資料がなく詳細がわからない。集落の人からも情報がなく、恐らく現在はいない。マスは荒沢ダムの建造以降見られていない。ヤマメは数年前に桧原川で釣りをした際に釣れたことがあったが、今回の調査では河口のみの調査であったこともあり、確認できなかった。
<調査地別魚類マップ(一部)>
第四章 大鳥聞き書き
大鳥の古老たちから話を聞くと、昔の大鳥の川と魚の姿が浮かび上がってくる。カジカを一晩で何十匹も獲っていたこと。魚は買うものではなく獲るものだったこと。荒沢ダム完成以後、川との関わりが大きく変化していったこと。大水でさえも自分たちの糧にするたくましさ。無邪気にも真剣に魚を追う若き日の大鳥人たちを想像すると、自分も子供の頃は川遊びが好きだったことを思い出す。水の中に身を置くことも、石を投げるのも魚を見るのも楽しかった。大鳥の人たちも川が好きに違いない。自慢話も含めて、とにかく楽しそうに語ってくれたのを覚えている。
俺がデッチで田沢の菅原商店行った時、あそこの裏に魚道があってな。大針発電所っていったか、今も東北電力のがあるっちぇ。取水口があそこだわけだ。そこで、夜明け早く行ってマスの投網投げ。明るくなるとあんまり上ってこないんだ。暗いうちに。
親の親父がマス獲り好きだもんだから夜中に起こされて、「朝男、イオ獲り行くぞ。」って起こされてや。でも一回だか2回だか3回だかわからねぇどもな。イオが上るところの溜めにちょっと段差あるんだ。そこへ投げるわけ。溜まってるはずだって。で、4本も入ればや。凄いもしぃったらもしぃいな。
その頃は貴重な食料でな。ほとんど盆の魚っていってみなはやして焼いて、弁慶さ刺して虫喰われないようにって。盆魚は素麺のつゆや。スジコも良いのが入ってるんだ。それだって生で食えば旨いんだ。(工藤朝男さん)
※イオ:マスのこと
俺は高校さ行こうと思わなかった。俺は兄弟の4人のうち頭よくねぇって考え方だった。俺中学三年になって人より良かったけど、勉強しなくて毎日川。魚獲り。朝から晩まで。夜突きも。魚突きは誰にも負けたことねぇな。俺は川好きだったんだやな。毎日学校から帰るとあとすぐ川。10人魚釣りしても誰もかからないのに俺ばっかりかかるっけ。小学校中学校の時は毎日川にいってた。そして川の色が変わるくらい魚がいたんだ。
俺はメゴロってすぐそこの西大鳥川さよく行ったんだ。とにかくカジカからウグイからイワナから、すごいんだ。前は投網もやったな。川さ行って投網かけると下から上までみな魚で。ダップラが3つあって、そこばっかりから捕ってた。昔は各家庭の堀だかしにクキとかイワナをみな放したんだ。突くとこはここから真っすぐ行ったカーブの所のダップラ。イワナは7月15日から8月15日までが旨いんだや。あとは旨くねぇんだ。その時が一番旨いんだ。その時が一番脂のってるんだ。ウグイは11月から1月。違うんだや、魚の種類で。あとドンジョ採ったり、カメバチ捕ったり。
夜突きもやったし、枡形も桧原にも行った。本流行った。イワナ一晩ぎ突くと30匹も40匹も、テンゴいっぱいに採れるんだ。夏にやるんだ。7月15日から8月15日が一番旨いんだ。そいらさみんなさ食べさせたんだもの。盆の料理。盆魚でな。夜突きは3人か4人で行って。3時間も4時間もやるんだもの。夜は魚動かねぇわけや。盆頃。捕りさ行くんだっけな。一人ではおっかねぇ。動物もいるんだし。夜突きにいくのはこんな格好だ。長靴でなく地下足袋で。長靴なんかでは歩けないんだもの地下足袋でや。道具はカンテラとガラス箱とヤスとテンゴと。あと食べ物は重たくてもっていかねぇや。ガラス箱の先にカンテラつけてセットするようになってるんだ。枡形のプールあって。その奥がいたとこなんだ。下でなくて。枡形さ行って、川さ降りて上流のほうや。その間、例えば西大鳥の又口のあたりとか堰堤とかはいねぇいねぇ。
荒沢ダムが出来てからだども、ダムはできると魚が繁殖すんだや。20年くらい。ダムが古くなると魚がいなくなるんだや。川をいがめて、新しい水とかに魚が繁殖して。古くなるといなくなる。ダムさ入ってコイとかもトンネルの先でも釣ったことがある。今はいねぇ。そういうもんなんだ。ダムができると10~20年はいる。マスはその前は登ったらしいんだな。ダムがついて川の水がなくなるとその村は終わりだって法則あるんだ。でもここは水が流れてるんだっけ。川さは今の何倍もあったんだ。今みたいな川は一つもねぇわけや。水は川がくわるくらい流れてるんだっけ。だから魚が繁殖したしや。
東もいった。東は左京渕ダムの上の方の高いところ。あそこの下は何回も行った。
家の裏の沢でも釣った。秋になると一尺くらいなの10匹くらい採れるんだもの。堰堤出来る前の話。今年6月、7月、8月から東京からきて、堰堤の上から捕って来たっけ。みな放したけども増えてるわけや。誰も行かないから。ただ今年水不足なると魚の繁殖がな。あと狐もいるしな。でも東京からきた人ビックリしてた。あんまりいたって。あと、スーパー林道の一番奥の沢が別れているところあるんだや。水上あたりかもしれない。あの左側さいくと、30分くらいいくと20匹とか30匹固まっているところがあるんだ。もろもろと固まってるんだよ。今もいるや。ヤスでついて。昼間。そこは誰も行かないところで、みな溜まってるんだや。餌は大鳥はメメズだ。ミミズ。ハチノコもつくども殆どミミズだな。肥塚にいっぱいつくんだ。草置いたり、残飯棄てたり。そこをほじくってミミズトリ。(大滝清策さん)
夜突きは暗くなってから行くんだ。沢の溜まり、水の溜まりのことを昔はダップラって言って。子供の時は東大鳥川にダップラが何か所かあったんだ。そういうところで水浴びして遊んだんだ。そういうよどみがあるところにガラス箱とガスカンテラを使って明かりをつけて登っていくと。ダップラまでは、静かに静かに。ガチャガチャ音は全然ダメだし。静かに入っていってガラス箱を見ながら。魚ってカンテラの明かりに迷ってしまって泳がないんだ。イワナはダップラの端にいる。夜になると全然動かないんだ。それを狙ってヤスで突く。昔は木で作ったようなヤスでな。今の刃みな金属のやつ。
カジカは日中でも獲られるけどもな。カジカは浅瀬にいて、浅瀬の中でも大きな石があると、そこの陰の方に。カジカは8月。寒い時期は全然ダメ。8月の水がぬるんできたときに集中してくるわけ。それを、ガラス箱で見て獲る。夜カジカ突きっていうのも同じ。みんなそれを狙っているわけや。「あそこさいくとカジカもイワナもいるな。」っていうことで。お互いにみなライバルだから教えてもらうこともできないし。同じ場所で夜突きの競争ってこともあるな。「あぁ、あれ行ったからもうダメ」って逃げてきたり。川とか沢っていうのは誰でもあそこいくといるなって思うけども、一切それは言わない。それはな、生活掛かっているから。今みたいに娯楽でやるならあそこいったらこうだっけなってなるけども。ウサギでもカジカでもイワナでも生活だからな、その家の。そしたら他の家に言えるわけもないだろ。それが良いか悪いかはわからないけども。(工藤友二さん)
マスはヤスで突いたりだっけな。俺の孫爺さんは釣り針みたいなのに掛けたり。俺の爺さんは大鳥ばかりじゃねぇ。魚獲るにはめったにねぇくらい肺活量がある。誰もいけないところくぐっておいて鱒のイオ何匹も獲ってくるわけや。日中に突くんだっけな。午後近くなっと川さいって、松ヶ崎橋の岩の下とか。東の奥に行くと、泡滝。あの滝は誰でもはくぐれない。おらいの爺さんはそこくぐっておいて、そこいけば流されないっちゅんだ。
水が枯れるとりやすいんだ。夜なると出はって遊んでんだや。だはけ簡単に突かれるんだ。そしてお盆の時にみんなさ食わせたり。イワナは焼いてくったほうが一番美味しいな。ニジマスは刺身。
アリスイワナってあんのはな、大鳥池さ住んで、上ったり下ったりしねぇのはアリスっていうけども、腹が赤い。見るとわかるわけや。海から登ってくるのは腹は真っ白いし。海から登ってくるのは大きくなるし。アリスは大きくはならないんだ。(三浦義久さん)
魚屋なんかこねぇはそりゃ。誰も買う人いねぇんだはけ。街の方から臭いようなスジコ持って来るわけや。安いやつ。色変わったような。塩ものじゃないとダメや。それで田沢のばーちゃんでヨシノって言う人がおいら鉱山だはけ、リヤカーさつけてや。それで塩ニシンとかや、昔の昆布漬けとか塩もの持ってくるもんだっけ。だからリヤカーひいてなんだもの。生ものなんてみんな臭くなって。
生魚を食べるにはみんな自分で獲って来るしかねぇ。盆前に魚獲ったりカジカすくり行ったり。大水出ると網持ってカジカすくりに行ったな。昭和15年に河合橋が流された時、俺カジカ獲り行ったわけや。西大鳥川はあんまり水出ねぇけど、東は水がすごいんだや。だから義久さんの孫爺様、「ばかやろう、こんな時にカジカすくい行かないなんてとんでもねぇやろうだ!」って言われてな。したらあれだっけぞ、カジカすくってっとマスの、イオの背びれ出してや、ビョンビョンと登ってくるのが分かるわけや。そうして魚とりして遊ばねばねくて。勉強より絶対おもしい。あの、ワックワックってくぐっていくといてな。ダムねぇ時なんだ。
昔は赤川から、日本海からずっと続いていたわけや。ダムねぇとき。大水出る度鱒が上ってくるわけや。そうすっと今度、水がちっちゃくなるわけだ。そうすると穴という穴に入るわけや。そことこ、橋の下の穴だったんねぇ。おいらベロッと入るくらいの穴。そこさ入るわけや穴あなさ。そういうとこ新吉じーやがみな覚えているんだ。すっかりくぐってありくわけや。着物きたままベロッと淵さくぐるわけだ。それで一匹獲って、二匹目突いて上がってくるもんだっけ。死んだもんだと思ってくるわけやあんまり上がってこねぇから。とにかく義久さんのじさまは凄い人なんだやな。胸幅の厚いこと。
イワナも獲れる獲れる。夜は寝てるんだもの。例えば沢から水、清水みたいなところ流れるところあんだろ。そういうとこ全部集まってるわけや。岩苔小沢って言うところはチョロチョロっていうこういう岩あるところからザーって水流れているわけ。そこさ20も30もいるわけや。明かりつけても逃げねぇ。して、水の頭から突くと全部逃げるから、尻からジャキン、ジャキンって。22~23歳くらいまでは夜突きやってた。採鉱のカジカ沢っていけばカジカなんぼでもいたって言うっけ。枡形の人とりさ来て一升ずつも捕りさ来たとや。
カジカは下がるはしねぇな。 カジカは登るっていったって。カジカ登り沢ってあるんだ。カジカ沢って。カジカはどこでも登るとや。とにかく偉いもんだカジカな。エガケの堰堤、あれサラサラサラっていう時、カジカなんてピピピっていって止まって、またピピピっていってな。そう登るんだっけぞ。
獲った魚は弁慶さな、焼いて干しておくわけ。それでお盆にはおいらの記憶ではソーメンのダシ。あとはそれこそ獲った時食ったほうがうめぇんだし。干した魚はソーメンのダシ。かいねぇんだはけな。イワナはダシ出るもんだ。獲った魚は売ったりはしねぇ。誰も買う人いねぇ。やたらにいるんだもの。買わなくていいじゃん。あんべ良いばなんぼも獲るわけや。でも川好きな人とそうでねぇ人がいるわけや。あとな、ダムできてからは絶対ダメや。何もこねぇもの。だから魚食われなくなるはけって俺らダム反対期成同盟会って筵旗たてて反対したわけや。働く人、結局は労働組合だな。自然破壊だとか、なんだかんだってな。鉱山側の所長など偉い人は賛成。ペーペーは反対。筵旗たててみたって祭りみたいなもんでや。結局はあまり強く行けば首切られるんだし。誰も最後まで…。反対したって敵わねっけ。国の政策なんだはけ。(伊藤本芳さん)
夜突きは俺学校上がって、5~6年やったかな。それから辞めたんだ。ずっと昔だ。今は夜突きはやって悪い法律つくったんだ。カジカも夜突きでや。ずーっとこいら夜突きしたんだ。よんま、眠ってるからなんぼも突かれるんだ。ガラス箱の先にカンテラ付けてな。それでビューっといくと寝てるんだはけ突かれるわけや。上からチャキっと突いてな。ほしてドジョウすくいみたいな籠さ入れて。イワナは浅いところさいる。眠る時は石原の浅いところ、すぐ隠れるような状態のところ。賢いんだぞ。あんま霧なるといねぇんだや。
8月が一番いいな。盆のごっつぉや。カジカもうまいもんだぞ。最高うめぇんだけど今はいねぇもんな。そういうものいなくなるってことで荒沢ダムみな反対されたんや。ところが「それより放して魚いっぱい獲らせる。」って言ったんだや。なに、言ったばっかりで契約書もねぇらしいんだや。昔の人はな、こういうごまかしたんだぞ。んで荒沢ダム出来てから一時は放したんだな。鯉でもなんでも。ほんだけ豊富に獲ったんだな。だはけみな喜んだ。それだば良いってことで。ところが4~5年なっとダム腐ってや、いなくなるもんだって話を聞いていたんだ。その後、いなくなったんや。5~6年経ってや。そうしておいてや、一時は俺ら釣る時は放したんだ。それも今は一個放さなくなった。だから魚いなくなったんや。登る魚もいないしな。魚道もねぇんだ。だから結局は騙されたんだな。契約書は貰ったんだっていうっけ。無くしたんだろか…。(三浦弘堯さん)
昔、俺の子供とこ育てることは、川見るとザクっと頭を上さ向けてイワナが何匹も見えた。一つの場所から。それを釣ってきて子供さ喰わせて。それが今度、釣り人が来るようになったら全然見えなくなった。魚の数より人の数が余計になった。大阪だとか名古屋とか来るんだもの。(工藤常雄さん)
シナ織はうちの婆さんならするもんだっけな。シナの袋があったりとか、エビすき(すくい)の網を織ったり。うちでは山の上に池があって、エビを捕まえる網が必要だわけ。三角の形をしていてすくう網。網がいつも開いているわけ。あんまり粗いと逃げるもんだし、あんまり細かいても水むぐんないと困るもんだし。貧乏人で網が買えないもんだから。シナ織は裏の畑に、シナの木を伐って皮剥いてみんな作ってたもんだっけ。
池も赤川の土地だから4人、5人くらいは共同で借りてた。それでも一回獲ってくると、二升も獲れるもんだから、近所に分けてもしばらく食べれるだけあるわけ。エビは煮て食う。サクラエビみたいに綺麗なエビなんだやな。それが香ばしくておいしくて。油で揚げたりはしなかった。油は貴重なもんだったからな。フナもいっぱいいて、それも食うもんだっけ。エビすくうとかかってくるわけ。大きいのがかかったときは放す。ちっちゃいやつは一緒に似て食べられるもんだし。(工藤静子さん)
おわりに
僕は大鳥に暮らして10年以上が経つが、山での活動は狩猟や山菜採りなどが中心で、川に行くことは少なかった。真夏に水浴びをしたり、釣りに付いて行く程度だった。この調査の動機について本音で言えば、『おもしろそうだからやった』というだけ。ただ、敢えて言葉にしてみると、川への興味のキッカケの一つは令和4年8月3日の豪雨だった。当日、僕は東京にいたが、帰宅後にすぐあちこちの被害状況を見にいき、衝撃を受けた。西大鳥川の水が1週間も引かないことにもとても驚いた。もし、東大鳥川ダム(砂防ダム)が無かったら集落の家々が浸水していたのかもしれないと思った。その後、大鳥にある砂防ダムの場所や年代を調べたり、杉の植林やブナの伐採、過去の災害についても調べるようになった。
もう一つのキッカケは、魚好きな友人と一緒に川で遊んだこと。潜水して魚を眺める事も、ナマズやカジカをタモ網で獲るのもとても楽しかった。大鳥で利用されてきた魚類がどれだけいるのかは随分前に調べていたが、どんなところにカジカがいるのか、イワナがいるのか知りたくなった。そういう意味で、今回の調査は一定の成果を残すことができたと思う。
本調査では、現在も大鳥川流域にいる魚類の確認・調査を中心に据え、自身の可能な限り多角的に川の変化や気象条件などを付記してきたつもりであった。しかし、内水面漁業組織や漁法、漁具の変化、大鳥川流域の放流履歴などを調べ、記載するに至れなかった。また、気象も手元にデータがある雨と雪が中心となってしまい、水温や気温など、川に影響する情報を盛り込む事ができなかったことは、今後の課題としたい。
【参考資料】
・南支所文書 「赤川漁業関係書類」
・『気象庁ホームページ』過去の気象データ検索より山形県鶴岡市荒沢の雨量データを参照
・『積雪データ』 朝日庁舎産業建設課
・環境漁協宣言 矢作川漁業組合100年史