大鳥のこと

『大鳥紀行 -1880年 氏家正綱』現代語訳版

明治維新が起こり時代が近代へと移り変わると、農山村でも劇的な変化が起こってくる。物納が金納へと変わり、藩有林が国有林へと変わり、入会地の国有林編入問題が巻き起こる。税金を納める代わりに田畑や山林、宅地などの近代的所有権も確立していく時期であり、霊山とされてきた山々にも科学的な測量をはじめ、地元だけでない人の手が入り始める。以前紹介した中村熈静の『大鳥池(明治40年)』や安齋徹の『大鳥池の成因に就て(昭和3年)』はそうした時代の流れの中にある。女人禁制だった山にも登山で女性が入り始める。大鳥池という神聖な湖は、そこに龍神が棲み、不用な立入をすると雨風を降らせ、洪水が起こるなど災いが起こると信じられていたことから村人同士の申し合わせ事項で不用な立入が禁止されていたが、徐々に時代の波に押され、その門戸が広く開かれ始めたのも明治後半以降だったのではないだろうか。

この古文書は明治13年のもので、当時の東田川郡長の父親が先立ちとなって仲間を誘い、大鳥池へと遊行しにいこうとすることから物語が始まる。大鳥の人たちと交流をしながら折衝をし、案内を頼むものの結果的に村人たちは古くからの慣習に倣って大鳥池への案内はしなかった。その変わりに大鳥で最大限のもてなしをし、西方へと向かい、新潟県境まで案内をして別れを告げる。一行は村上市雷へと向かい、関川を越え、温海温泉を通り、鶴岡市街地へと帰宅する。タイトル通り紀行文ではあるが、村人との掛け合いや、当時の大鳥地区周辺の様子も僅かながらうかがえる貴重な資料である。時代的にダムもなく、川で鱒を獲る様子が描かれていたり、個人的には「西大鳥で櫓を組んで鷹の雛を飼っていた」という記述がとても興味深かった。

※文中の浄閑(氏家)正綱は、明治13年に東田川郡長二代目の氏家直綱の親である。息子直綱は、明治11年に初代西田川郡長に任ぜられ、13年に東田川郡長を兼務した。参照:大瀬欽哉編『新編庄内人名辞典』
※この古文書は鶴岡市郷土資料館に所蔵されている『大鳥紀行』の原本を元に、歴史ロマン愛好会の佐々木勝夫先生に読み下しをして頂き、僕が現代語訳をした。
※文中後半の赤字はどうしても読み解けなかった箇所
※原文コピーのPDFはこちら 前半 / 後半
※佐々木先生の読み下し文PDFはこちら

大鳥紀行序

浄閑正綱は大鳥へと遊行しにいった。息子の直綱と養子の胤保はその帰宅を待ち受けて、この遊行がどんなものだったのか聞いた。正綱は詳細に答えた。同じ話を紀行文に綴り、その中に勝景の図画をそえて見せて欲しいと2人に請われ、断らずに一編を作り、それをもって答えたところである
庚辰八月。

大鳥紀行

この国の東田川郡の南端にある大鳥池というところは簡単に人が行けるところではなく、「そこへ遊びにいって見てみよう。」と同志を募り、各食料を準備し、明治13年庚辰7月14日午前8時にここを出発した。その人員は、池田野右衛門、工藤良右衛門、高寺なる渡辺千明、神官の上野藤右衛門、工藤の従者勘蔵を合わせて6名であり、東大鳥へ向かって登り、午後7時に到着した。

かねてより郡の書記をしていた長澤氏は東大鳥の村民から人望を集める人で、彼に事前に手紙を出してもらうよう頼んでいた。この村の首長である半三郎と甚十郎にお願いしたことは「今晩一泊の宿をお願いし、翌日には大鳥池に行きたいので案内の人を付けて欲しい。」と熱心に申し入れ、「なお手紙でもその旨を申し込んだはずです。」と手紙を差し出した。

暫くして、半三郎という者が言ったことは、「荒沢と言われていた神官の何がしという者が言うには、大鳥池に登ろうとすることはこの村においてとやかく申す者がいまして、ご案内の者を取り計らうことは、以前からの村の申し合わせもあって迷惑になることでございます。しかし、皆々様のお頼みがあってのことなのでこの場に参りました。」とやむを得ない様子で答えた。

どういう迷惑が掛かるのかそっと尋ねてみると、「人がいって池で遊ぶ、あるいは広狭深浅を測量することなどは、もっぱら神様の禁忌に当たり、たちまち雨風を起こし、洪水が起こる。それによってこの辺りの田畑は近年幾千刈の地を失ってしまった。」などと言う。「それは種々いわれなき妄想だろう」と訴え、それと同時に変だなと思っても荒沢という者はここにはいない。「いかんせん古い慣習に固執した強い観念に抗うべきことでもないので、そのような災害を醸す引き金となるのであれば、大鳥池へ行くのは思いとどまろう。せめて今晩一泊泊まらせて欲しい。」と言うと、「私どもも心落ち着いて御案内できれば良いのですが、養蚕の時期でかなり見苦しく申し訳ありません。八人のお泊りについては、このような暑いところで良ければ、了承しました。」この会話の中で、工藤は自然と声が元気になっていったのもおかしかった。彼らは進んで「明日は鱒狩りを催して皆様をおもてなしさせて下さい。ぜひ滞在して遊んでいって下さい。」と言った。

また、夜になって半三郎が浄閑へと語りかけた。「あなたは西田川郡長殿の御父上とお見受けします。この辺りの樵夫らはその郡役所にお世話になることが近年少なくありません。その首長たちへあなた様との出会いを知らせたら、我々が言うまでもなく『そうならば明日は川狩りをして皆様をおもてなしさせて下さい。ぜひ滞在して下さい。』と申し出た。もう一人も「ご滞在して下さい。」と言った。

そもそもこの田沢山中の村々には旧家の名跡が多いことは広く知られているところである。この半三郎は工藤と称し、左衛門尉祐経の次男の家だと言う。良右衛門はこの分家と聞き、伝来の古器もあると言い、お願いして見せて貰えることになった。高い神棚から小さな箱を取り、煤を払い、蓋を開くと、その周囲八寸ばかりの陶器一つを取りだし、これは先祖祐経の右大将家より頂いた神酒壺と言い伝えられている。一対の内、一つは嫡流の伊藤家に伝わる日向小肥のものの一つとして家に伝わっていると語る。備前焼のように紫黒の陶器であった。口は欠損して全体像はわからなかった。甚十郎は三浦と称する。

明る日15日は朝から「酒よ!筵よ!」と人々が走り回っていた。案内に連れられて大鳥池の下流、大鳥川を12~3丁(1.3~4㎞)遡りその場所に着いた。川の片側半分をせき止めて水勢を引かせ、大勢で岩に隠れた鱒を狩り出し、投網をして獲った。鮭のように大きなものが獲れた。お昼の弁当を開いたところは南岸に突出し、そびえる立岩があった。そこに敷かれたような、平らで大きな岩があり、それを台座岩という。衝き落ちる清流が前面をおし廻し岩を越す。水は波紋を結んで渦を巻き、左右には森々樹々が生い茂り、日光を覆えば風が冷たく、7月の天(そら)がなお寒いようだ。あるいはこの行程で汗びっしょりとなった衣を流れに晒らし、また水浴し、それぞれ自由に過ごした。

今晩は甚十郎の家に泊まった。半三郎も来てあれこれもてなしてくれた。大鳥池までの距離を聞くと、おおよそ5里(≒20㎞)という。「ここから2里(8㎞)くらいまでは全て道方がある。瀧があって不動様を安置している。面白い場所なので明日はぜひご覧ください。」と勧める。それより上は決まった道もない。この川をひたすら南北へ跳ね渡り、風雨に遭えば殊更途方に暮れ、水かさも増す。ここからは人行を阻むところだと心して渡るもとにかく時間が掛かる。9里(36㎞)も歩いたかのような気持ちになるので昔は“9里”と言われていた。ここから見えるのは池の台という前山で、未だ残雪がある。山深さを感じることだろう。

夜分に話したことは、「今回の宿志(大鳥池行き」について一層知恵を注がないと今後も大鳥池にいけるかわからない。そうはいっても今日は思ってもいなかった楽しい時間を過ごした。明日は来た道を再び戻るのも面白くない。ここから西南の一山を越えてたやすく人が行き来しない場所へ迂回するのも面白いだろう。関川へ出てみるのはいかがだろうか。」と言うと、この話にはとっても面白いと感じ、それならばと山中を廻る行程の険しさを尋ねると、「岩船郡雷村までは4里半と言う。その南にある山熊田というところには尊い観音がおります。堀丹後守直寄の護持仏胎があり、この辺り(大鳥)からも女童が日帰りで参拝して来ますよ。」と言う。それならば、と明日雷までの案内を頼んだ。「銀燭台に替えてジン(松脂でできた着火剤)を配ります」と言うけれど、蚊帳は合わせて張るまでもなくかなり大きいものだった。そして、工藤は一首の和歌を詠むことをもって、今日の宴会をお開きとした。翁も床に伏しながら二連を和した。

“六人で 押へつめたる 大鳥を 羽ばたき強く とりはつしけり”

と、喜多八の風を起こしてしまう。一座一笑が起こった。

 

明くる日(16日)は、案内を先頭にして、西大鳥の角間平というところに至った。(平をタイと言うのはここの方言である。)東に隣接する村をブナ平と言う。両村の田の土壌について暗に思うことは、ここ界隈は一面が平面で、その片田舎の角間平の村はずれに小さな櫓をしつらい、毛羽がまだ未熟な鷲の雛を、日照りの日にさらして飼っている。餌には蛇を与えるという。山郷の生活の有様を感じさせる。この角間平の村はずれから直ぐに山に入り、幽かに樵夫の細道がついている。険阻な山をよじ登ること数丁(数百メートル)、汗はひたたり落ち、しばらくして頂上に着いて息をついた。振り返れば東に月山、八久和の峰々が見えるも、向かう三方は山に包まれて眺望はない。これより山を数丁(数百メートル)下ると道が二股になる。北を一ノ股越えと言って雷に出て、南を二ノ股越えと言って山熊田に出る。

この道は最も険しい道であるという。また、角間平の川の源流へと辿っていくと東西二股に分かれる。西は谷川が合流して一つの川となっており、東は三面山の幽谷から流れ出ると言う。三面というところは説話が多いところからして山深いところであると感じる。そもそも三面というところは岩船・置賜・村山の三郡に面しているからこの名称となり、極めて辺境の地である。往昔、小池大納言と言って雲上のこの地に潜伏して以来、年月おおよそ600年余りで数十代、この深山に連綿と住み続け、小池大炊助と言う者は現在首長をし、この地を統括していると言う。越後摘誌という書にも、この事が書かれている。

これより数丁(数百メートル)下ると、清涼な谷川に入る。ここを過ぎると山間に少し耕地があり、2~3の農作業小屋がある。ブナ平、角間平両村から今日越えてきた険阻な山を越えてこの場所へ耕作しに来ていると言う。僻村の困難が思いやられ、哀れに思う。

ここを過ぎると四方は山に囲まれ、日光もあまり刺さない幽谷の谷川をさかのぼると、角間平川(※桧原川のことか?)の上流へ出る。登るにしたがって嶺がそびえ、巌が高く、趣は最も静粛である。また、所々にこの谷川をせき止める堰がある。両岸から巨材を連接し、これに杭を並べ立てて堤をなし、あの八尺木と言われる木をここに伐り溜め、時を待って一時にこれを流下させるカラクリである。そんな大仕掛けを手軽く引きはずすことが出来るのは、優れた技術があるからだと言う。

この谷川を遡る途中に、2つの瀑布がある。黒滝と言うところで、最初の滝を一ノ滝と言って落差2丈ほどである。これより2~3丁(2~300ⅿ)奥には二ノ滝があり、これは二段となっていてとても趣がある。この2つの滝の光景はさながら仙洞であるかのように思われ、左右対称の絵のようである。この滝の辺りをよじ登るが最も険しく容易でない。山中で一番の難所であった。またこの辺りに限って見慣れない奇岩がある。その質は純白にして、両手で抱けないほど大きく、水垢で錆び、苔が滑らかに生い茂り、ツタが這ってまとわりついている様子は実に素晴らしい。

いよいよ険阻を数丁(数百メートル)よじ登っているといつしか沢は枯れ、道形もなくなったが、かろうじて頂上に辿り着いた。汗を拭って西を眺めると、ここから青海に浮かぶ白い帆が見ることができ、南には佐渡、そこから西には粟島、眼下には念珠ヶ関の弁天島などが見えた。この峰は南北に渡って峰続きで、今登って来たところは、東側は深い森であるが、西側の峰は高木が少なく、大方は柴原の峰伝いなので険しい道は少ない。案内人は「これより峰伝いに下れば迷うような道はない。日も傾いてきて時間がないのでこれで失礼します。」と言って帰っていった。

藪をかき分けて峰を数丁(数百メートル)下ると、ついに雷という村に着いた。戸数この川は大川谷に落ち合うと言う。山中には珍しく大きな家があった。木村屋だと思われる。ここで休んで汗を引かせ、これより約2㎞ほど歩いて小さい山を越え、関川に入った。この峠には大樹の老杉があり、ここが新潟・山形両県の境界標が建っている。数丁(数百メートル)下り、7時過ぎに関川に辿り着いた。知人である五十嵐鶴吉の家に泊まらせて貰った。待っていたかのように、風呂が沸いているとのことで、すぐに入浴して汗を流した。今日、下山してきた峰から北には摩耶山が望めるが、この辺りで飛びぬけて険しい峰である、と地図を見せてくれた。

明くる17日、関川を出て越沢にある野尻の家に立ち寄り、木ノ俣を経て小国に至った。池田の知人、七左衛門という人は息小名を持つ。誕生名で汗を引かせ、ご飯を食べ、西に曲がって山に入り、支村なる“峠の山”というところのつづら折りを越し、今日は温海温泉に入ろうと、榎本三十郎の家に泊まった。この日は他のお客に居合わせなかった。

明くる日の18日も温海温泉に滞在し、翌19日にここを立った。今朝は山もやが深く立ちこめて、前にある山も見えない。まるで雨のように衣類を濡らす露となり、暑さを忘れさせた。崎屋の山を越して、私の元によく通う波戸の猟師、寅蔵の家に着いた。ここでは蛇2種類を調理しご飯を食べた。出発して、新し橋からは三輪の人力車があったので池田・工藤は車に乗り、夕暮れ過ぎにそれぞれ家に着いた。この行程は6日間だったが、少しの雨も降らなかった。翌日には池田と共に工藤の家に行き、この行の感謝を述べ、雑務をしながら秋風を待って、またどこかの地へ遊びにいきたい。身体が元気であることほど楽しいことはないなどと言って家に帰った。

明治13年庚辰8月4日 暖計93度余
71歳  浄閑 氏家正綱 詩