稲作 米作りの歴史と一年

大鳥地域では村としての歴史が始まった約800年前から粟、稗の栽培が始まっていたとされてます。大鳥創村の伝説 ー鎌倉時代初頭、山奥に大鳥村を作った工藤大学の物語ーでもご紹介しましたが、平家の落人として大鳥にきた工藤大学が百姓や鍛冶屋を一緒に連れてきていました。

のちの天文2年(1533)には、大鳥部落民は初めて尾浦城主の武藤義氏(大泉庄司)に召し出されて武藤家の出百姓となり、のちに庄内藩にも属していくことになる。遅くともこの頃には稲作は始まっていたと推察されるが、具体的な記述が出てくるのは元和2年(1622年)に行われた元和検地で、大鳥村は64.084石(=約9,600kg)とあるが、大鳥は田の面積が少ないため、年貢の不足分を”八尺木”という川から流した木材でも納めていた。明治9年の収穫量調査では一反(30㎡)あたり4斗8升(=72kg)あり、明治17年に作られた『地籍』では、大鳥全体で45町歩(450反)の田んぼがあったので、単純計算すれば32,400kgの米を生産していたことになる。平地の少ない大鳥では、少しでも多くの稲を作るために山中も開墾して農地にし、山腹水路も作っていた。山中の田んぼや水路は使われていないところが殆どですが、その名残を今も見ることができる。

明治中期までは湿田だったので人の手で土が起こされていたが、乾田技術が普及してから機械化が始まる高度経済成長期までは、大鳥でも牛耕が行われていた。春先に牛の糞などの堆肥をソリで田に運び、雪が溶けたら苗代で苗を育てて牛耕を行い、田植え、田の草取り、草刈り、稲刈り、杭掛け(天日干し)、脱穀までもほとんど手作業で行われていた。ちなみに大鳥では杭のことを方言で”ニゥ”という。

昔、大鳥で使っていたであろう足踏み脱穀機。

田を耕す牛は家の中や家のそばの牛舎で飼われ、家族同然として扱われていた。集落内の田んぼは勿論、山腹にある田へも連れていき、耕した。大泉鉱山への物運びも牛が手伝った。牛の餌には共有地である茅場から茅を刈って食べさせたりもした。生まれた子牛は馬喰(ばくろう)に売り、現金収入とした。刈った稲藁は米俵や草鞋、藁靴、蓑、てんご、バンドリ、注連縄、囲炉裏の焚き付けなど、生活用具として使われた。

高度経済成長期にはコンバインなどの農機具が普及して農作業の効率が上がり、品種改良された種籾によって一反当たり6~7俵を収穫できるようになった。現在では10町歩ほどの田んぼで、寒冷地に強いとされる”あきたこまち”や”ひとめぼれ”、”山形95号”を栽培しています。

※山形95号:つや姫に匹敵する品種で、中山間地での栽培に適している。

稲作の一年

米作りの一年は、4月中旬の雪が消えきらない時期に始まる。苗を育てる為の埣(長方形の箱)に培土を詰め、発芽させた種籾を入れて土をかぶせる。種籾は4月上旬に近隣の温泉地に種籾を預けて発芽させておく。

5月上旬は苗代を作って苗を育てる。苗代は水が引ける平坦地に作る。ナイロン紐と木を使って直線になるように図りながら板を杭で固定して囲いを作る。木枠の中にブルーシート、ナイロンシートの順に敷き、苗を並べ、園芸用のトンネル型の支柱を刺し、シートを被せる。水を入れたら温度管理をしながら田植えの時期を待つ。

5月下旬になると田植えが始まる。田植え機のオペレーター、苗運び、苗渡し、埣(ソネ)洗い、手植え。沢山の人が関わって田植えが行われる。苗代で育った苗を田植え期に搬機で運びだし、トラックに載せ替えて田んぼへ運ぶ。運んだ埣は田の畔に置き、田植え機に載せて田植えをする。機械で植えきれない場所は、地域のおばあちゃんたちが腰てんご入った苗を一つ一つ手植えしていく。空になった埣は側溝に流れる水で洗う。品種ごとに田を分けながら一枚一枚、田植えをしていく。

田植えが終われば”サナブリ”を行う。田植えが無事終わったことを祝い、田の神に感謝しながら田植えに関わった人たちでお酒を呑みます。

夏時期は田んぼの畔(くろ)の草刈りを行う。雑草をほったらかしにすると害虫がついてしまう。

9月中旬頃になれば稲も黄金色になる。この頃には山からサルが来て種籾を食べ、稲を倒してしまう。数十年前は猿は奥山に行かないといなかったそう。稲の生育状況にもよりますが、9月下旬~10月上旬頃になると、コンバインで稲刈りを行う。コンバインは稲の根元から刈取りながら、籾だけの状態にしてタンクに蓄えてくれる。藁は刈取る時に細かく砕いてコンバインのお尻から田んぼに撒かれ、来年度の堆肥になる。コンバインで刈り取れないところは手鎌で刈る。刈り取った籾は乾燥機で乾燥し、脱穀の工程へ。

各農家にある脱穀機(籾摺り機)。籾の殻を取って玄米にしつつ大きさの選別をし、一袋一袋、玄米の状態で袋詰めを行います。

こうして春から秋までの長い過程を経て、米作りがようやく終わる。

川の水は透き通っていて、イワナやカジカ、ハヤなどが棲む。大鳥の米作りを昔から支えているのは朝日連峰から絶え間なく流れ来る大鳥川の水。奥山から流れてきた雪解けを最初に受けることができ、かつ昼夜の寒暖差で美味しく育つ。

大鳥ではあきたこまち(秋田のお米)、ひとめぼれ(宮城のお米)、山形95号(山形のお米)を作っています。大鳥てんごで取り扱っている山形95号は毎年10月の中旬頃には出荷できる状態になります。山奥の綺麗な水で育った、大鳥産のお米をぜひ一度、食べてみてください。

 

■参考文献

朝日村史』 朝日村史編さん委員会